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13 約束 その③

 ダンスレッスンを終えた紗奈は、更衣室で考え込んでいた。


 10代や20代で、ほとんどのアイドルが、アイドルを引退する。

 メジャーなアイドルグループにおいて、シングル選抜に選ばれないなど、思うような結果を残せなかった者は、20歳ごろにはグループを去ることが多い。

 シングル選抜に選ばれるなど、華々しい活躍をしたメンバーであっても、卒業時の平均年齢は25歳ごろと若かった。


 つまり、アイドルとしてどれだけ上手くいっても、25歳ごろでアイドルを引退することになる。

 アイドルを引退した後も、タレントや女優として芸能界で生き残れるのは、トップアイドルの中でも一部の者だけだ。


 アイドルとして生きてきたのだから、タレントや女優として、経験を積んできたわけではない。

 アイドル引退後も芸能界で生き残るためには、若いうちからキャリアを積んできたタレントや女優たちと、椅子取り合戦をして、それに勝たなければならなかった。


 引退後すぐならば、知名度を武器にして、仕事を得ることもできる。だが、やがては実力不足が露呈して、ほとんどの元アイドルたちは、芸能界を去ってゆくことになる。

 そしてそこから、アイドル時代に培った経験を生かせない、長い第二の人生が始まるのだ。


 もし紗奈に、トップアイドルになれる才能があって、アイドルとして成功したとしても、アイドルをずっと続けるなんて不可能だ。

 アイドルを引退した後も、私は芸能界で生き残れるのだろうか?


 着替えもせずに考え込んでいる紗奈を心配して、ナナセが紗奈のもとへ歩み寄ってくる。


「アイ、着替えないの?」


 ナナセの声は、考えに沈む紗奈には届いていなかった。


 アイドルを辞めた私に、なにができるだろう?

 タレントや女優の才能が自分にあるなんて、とても思えない。


 また悪い想像が湧いてきた。

 アイドルとして成功したが、アイドル引退後に芸能界で生き残れず、芸能界を引退する。

 街を歩けば会う人みんなに、後ろ指をさされて笑われる。


「聞こえてないの?」


 紗奈の顔の前で、ナナセが手を左右に振る。

 突然、目の前にナナセの手が現れて、紗奈は飛び上がるほど驚いた。

 ナナセが心配そうな顔で、紗奈を見ている。


「だいじょうぶ? 体の調子でも悪いの?」

「体は問題ないよ。ちょっと考えごとしてたの。なに?」


 紗奈はナナセに明るく笑い返すが、ナナセの顔は心配そうなままだ。


「考えごとって、なにか悩みごとでもあるの?」


 ナナセの勘の鋭さに、紗奈は舌を巻く。

 頭の切れるナナセなら、もしアイドルを辞めたとしても、タレントとして生きていけるだろう。


「たいした悩みじゃないよ」

「私たちにも言えない悩みなの?」


 レイナが口を挟んできた。

 音楽の才能に秀でたレイナなら、アイドルを辞めても、歌手として生きていけるだろう。


 紗奈は自分を心配してくれるナナセとレイナが、羨ましくて妬ましくもあった。

 この二人はアイドルを辞めても、芸能界で食べていけるだけの才能を持っている。紗奈だけが、そんな才能を持っていない。


 ナナセたちにも、言えないのではない。ナナセたちだからこそ、言えないのだ。

 ナナセやレイナには、色々な悩みごとを聞いてもらっていた。

 しかし、紗奈にだってプライドはある。


 いつかチェルナダを解散しても、ナナセやレイナは、タレントや歌手で生きているでしょ? でも私は、なにをして生きていけばいいの? 私はなにもできないよ。


 そんな情けないことは、口が裂けても言えなかった。

 不安を胸に押し込み、紗奈は強がる。


「言えないんじゃなくて、言うほどの悩みじゃないの。だから二人とも、そんな暗い顔しないでよ」


 ナナセとレイナは、傷口でも見るような顔で、紗奈を見ている。

 見覚えのある顔だった。前にもこんなふうに、二人に心配されたことがある。


 あれはまだデビューしたばかりの頃だ。当時の紗奈は、極度の緊張で、本来の実力を発揮できずにいた。

 緊張でパフォーマンスも笑顔もぎこちない紗奈の人気はなく、チェルナダの人気は、ナナセとレイナに二分されていた。


 当時の気持ちは複雑だった。

 ナナセやレイナには心配をかけたくない。それに、チェルナダの足を引っ張っている自分が情けなくて、申し訳なくも感じていた。

 それでも、その悩みをナナセたちに相談しなかったのは、ひとえに紗奈のプライドが、二人の前で、負けを認めることを許さなかったからだ。


 どうしたら二人みたいに、歌や踊りが上手くなれるの?


 そんな情けない相談はできなかった。


 歌やダンスのレッスンを受けていて、紗奈だけが先生から間違いを指摘されても、紗奈は家で一人のときに泣いていた。二人の前では決して涙を見せなかった。

 泣き寝入りしていたわけではない。あの二人に負けるものかと、自宅で隠れて、泣きながらダンスの練習をしていたこともある。


 ナナセに「ダンスを覚えるのが早いね」と褒められても、「そう? ありがとう」と返していた。自宅で泣きながら練習したことは秘密だった。


 芸能界という競争の激しい世界では、負けん気の強さは大きな武器となる。競争心の強さが、モチベーションの高さとなり、成長を促すからだ。

 しかし、ときには弱さを見せることも大事で、そうしないと自分自身が潰れかねない。


 当時の紗奈は、実際に潰れかかっていた。

 だから、「アイはチェルナダを辞めたほうがいいのかもね」なんてことを、健の前で漏らしてしまったのだろう。今思えば、紗奈が弱音を吐けたのは健だけだった。

 そして紗奈を救ったのも健だった。健のガチ恋口上がなければ、紗奈はチェルナダを辞めていたかもしれない。


 正面から攻めても、紗奈が素直に悩みを打ち明けないことを、ナナセは察したようだ。


「もし話す気になったから、いつでも聞くから言ってね」

「ありがとう」


 ナナセの追及から逃れることができて、紗奈はホッと一息つく。

 もちろん口先だけのお礼で、悩みを話すつもりはなかった。

 いつもの表情に戻ったナナセが、何気ない感じで話題を変える。


「それよりアイ、原田に電話をかけたほうがいいんじゃない?」

「原田に? なんで?」


 ナナセが呆れたように笑う。


「考えごとしてて、私の言ったことが、聞こえてなかったみたいだね。さっきプロデューサーから連絡があったの。この後、事務所で東京アイドルフェスティバルのミーティングをするんだって」

「ミーティングぅ? 東京アイドルフェスティバルのミーティングは、昨日で最後じゃなかったの?」


 あからさまに嫌な顔をする紗奈を見て、ナナセは肩をすくめる。

 嫌なのは私だって同じだよ、とでも言いたげだった。だが大人なナナセは、そんなことを口に出したりはしない。


「話し合わないといけないことが、緊急でできたみたいだよ。だから、今日の勉強会は中止にするって、原田に電話したほうがいいんじゃない? そうしないと、忠犬ハチ公みたいに、ずっとファミレスで紗奈を待ってるかもよ?」


 ミーティングは退屈だ。ただ話を聞くだけで、提案することなんて、なにもない。

 全部ナナセに任せておけばいい。そうすれば万事上手くいく。


 しかし、退屈なだけで、こんなにも嫌な顔はしない。

 紗奈がこんなにもミーティングを嫌がる理由は、健との勉強会と、時間が被っていたからだ。


 プロデューサーは、夏休みにもライブやレッスンを詰め込んで、紗奈から勉強する時間を奪っただけではない。健と会える時間まで奪った。

 あのプロデューサーには、罰でも当たればいいんだ。


 とはいえ、みなが我慢してミーティングに参加するのに、チェルナダのメンバーである紗奈が、ミーティングをサボるわけにはいかなかった。

 紗奈はため息を吐くと、ナナセの助言に従い、健に電話をかける。

 健はすぐに電話に出た。


「もしもし?」

「ごめん。用事ができて、今日は勉強会できなくなっちゃった」

「そっか。それは残念だな」


 健の落ち込んだ声を聞いて、紗奈は嬉しくなる。

 勉強することを、健が楽しみにしているわけがない。健も紗奈に会いたかったのだろう。


「あっ、そうだ。紗奈、ちょっと私に電話を代わってくれない?」


 なにか要件でも思い出したように、ナナセが紗奈に頼んできた。

 電話の向こうにいる健に聞かれてもいいように、ナナセは紗奈のことを、アイではなく紗奈と呼んでいる。

 紗奈は顔から電話を離して、ナナセに理由を尋ねた。


「なんで?」

「明日の東京アイドルフェスティバルのMCの内容について、オタクくんの意見を聞きたいと思ってさ。ダメかな?」


 焼きもち焼きの紗奈のために、ナナセが気を使っているのは見え見えだった。ここで断ったら、余計に嫉妬深い女だと思われてしまう。

 電話を代わりたくはなかったが、紗奈はナナセに電話を代わることにした。

 チェルナダのメンバーが通うダンススクールに、紗奈も通っていることは、健も知っている。


「今、ダンススクールにいるんだけど、ナナセが原田と話したいみたいだから、電話を代わるね」

「ナナセが俺に、なんの話があるんだよ?」

「明日の東京アイドルフェスティバルのMCの内容で、原田に聞きたいことがあるんだって」


 口調がどうにも投げやりになってしまう。健とナナセを、本当は喋らせたくなかった。


「俺なんかで役に立つのか?」

「お客さん側の意見を聞きたいみたいだよ」

「お客さん側の意見か。まぁ、それなら構わないけど」


 健が納得したようなので、紗奈はナナセにスマホを渡した。

 ナナセは明るい声で、電話の向こうにいる健に話しかける。


「やっほー。嘘つきのナナセだよ。ごめん、嘘ついちゃった。本当は原田に聞きたいことなんてないんだ」


 紗奈は目を瞬いた。

 嘘? 今、ナナセは嘘と言ったのか?


 唖然とした紗奈を放置して、ナナセは話を続ける。


「ちょっと原田に頼みがあるの。アイの話を聞いてあげてくれないかな? アイ、なんか悩んでるみたいだから」


 紗奈は目を丸くする。

 やられた。紗奈の悩みを、健に相談させることが、ナナセの狙いだったのだ。

 ナナセは紗奈の悩みが、どんな悩みなのかは、おそらく理解していない。

 しかし、強がって笑ってはいるが、紗奈が重症であることを、ナナセは見抜いていた。


 ナナセやレイナにも話せない悩みを、どう解決すればいいのか?

 過去に健は、ナナセたちでも救えない悩みから、紗奈を救っていた。自分たちに救えないのなら、また健に紗奈を救わせればいい。


 誰だって親しい人が困っていたら、自分の力で、その人を救いたいと思うだろう。他人に頼むなんて、 自分の力不足を認めるようで、素直にとれるような選択肢ではない。

 しかし、ナナセの考え方は合理的だった。紗奈が元気になるのであれば、助ける者が自分でなくてもいい。あっさりとナナセは、ナイトの座を健に譲った。


「ナナセ! 勝手に約束しないでよ!」


 地声より低い紗奈の声ではなく、地声であるアイの声で叫ぶ。


 健に相談するのは悪くない案だったが、心の準備ができていなかった。

 それに、ナナセの手の平で踊らされたようで、おもしろくない。

 だから紗奈は、約束を取り消すために、ナナセからスマホを取り返そうとした。


 ナナセは紗奈ではなく別の場所を見ていたが、周辺視野で紗奈の動きは把握していたのだろう。笑いながら電話をしつつ、体をくねらせて紗奈の手を器用にかわす。

 紗奈に邪魔されることさえ、ナナセは楽しんでいるように見えた。

 紗奈を軽く手玉にとるナナセが、とても同じ人間とは思えない。


「そうなんだよ。本当によく悩む子なんだよね。場所なんだけど、前に紗奈の落とし物を届けるために、ダンススクールに来たことがあったよね? そのダンススクールの場所は覚えてる? じゃあ、ダンススクールでアイが待ってるから」


 勝手に約束を取りつけると、ナナセは電話を切ってしまった。


 今から健が、ダンススクールに来る?

 この後、ミーティングがあると言ったのはナナセだ。


「この後はミーティングがあるんじゃなかったの?」


 ナナセが紗奈にスマホを返す。そのときにナナセは、舌をペロッと出した。


「ミーティングなんてないよ。アイは素直だから、騙しやすいね」


 不満な気持ちを表すために、紗奈は頬を膨らませる。

 その頬をナナセが笑いながら、指で突いた。


「原田に悩みを聞いてもらえば? 紗奈のときには、話せない悩みなんでしょ?」


 夏休みになってはいたが、健とは勉強会で頻繁に会っていた。

 それでも悩んでいる紗奈を見て、アイのときにしか話せない悩みなのだと、ナナセは見抜いていたようだ。


 紗奈は頬をさらに膨らませて、頬を突くナナセの指を弾く。こんな抵抗しかできない自分が情けなかった。


 ナナセは紗奈を救うナイトの座を、あっさり健に譲ったが、それに納得できない者がいた。

 レイナが不機嫌そうに唇を尖らせている。


「なんで私じゃなくて、アイツじゃないとダメなのよ」

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