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12 お邪魔します その⑦

 紗奈がいなくなると、他人の家にいる居心地の悪さが、一気に押し寄せてきた。

 紗奈の母親の目だってある。紗奈がいないからといって、勉強をサボるわけにはいかなかった。


 健は夏休みの宿題を解こうとするのだが、まるで問題に集中できない。それでも、紗奈の母親の目を気にして、問題を解こうとがんばる健の邪魔をしてきたのは、他ならぬ紗奈の母親だった。

 先ほどまで紗奈の座っていた向かいの席に、紗奈の母親が腰を下ろす。


「ちょっと、いいかしら?」


 紗奈の母親は、健を真っすぐに見ている。

 紗奈の母親が、紗奈に買い物を頼んだ理由がわかった。

 紗奈に買い物を頼んだのは、口実でしかなかったのだ。おそらく本当の狙いは、健と二人きりで話すことにあったのだろう。


「いいですけど、なんですか?」


 礼儀を失わないように心掛けたが、警戒心から声はどうしても固くなってしまう。

 紗奈の母親は、娘と親しい男友達が、どんな人間なのか見極めたいのだろうか?

 ここでもし、紗奈の母親を怒らせるようなことをすれば、今後、紗奈と会うことが難しくなる可能性だって考えられた。それだけは絶対に避けたい。


 身構える健だったが、天気でも聞くような調子で、紗奈の母親は耳を疑うような質問をしてきた。


「原田くんは、もう紗奈とキスはしたの?」


 健は呆然と紗奈の母親を見る。

 紗奈の家に入る前に、紗奈の母親が、健のことでなにか言っていないのかを、健は紗奈に聞いた。そのときに紗奈は口ごもって答えなかったが、今、健にしたのと同じ質問を、きっと紗奈にもしたのだろう。

 親として気になる気持ちはわかるが、それを口にするのは、どうかと思う。


「まだしてないです」

「『まだ』ってことは、いつかはする気なのね」


 紗奈の母親は、からかうように笑った。

 健は赤面して、先ほどの言い間違いを詫びる。


「すいません。『まだ』は余計でした。僕と紗奈さんは、ただの友達なんです。そんな関係ではありません」

「ただの友達では、ないと思うけど」


 紗奈の母親と視線を合わせることに耐えきれず、健は麦茶の入ったコップを手にとった。

 麦茶に口をつけても、緊張のためなのか味は感じない。


「原田くんは、いつから紗奈の秘密に気づいていたの?」


 麦茶が気管に入り、健はむせた。

 コップをテーブルに置いて、驚いた瞳で紗奈の母親を見る。

 紗奈の母親はなにも言わずに、健が答えるのを待っていた。

 ダイニングに沈黙が流れ、コップの中の氷が溶ける音が聞こえた。


 この質問をするために、紗奈の母親は、健を家に呼んだのだろうか?

 紗奈の秘密と聞いて、思い浮かぶものは一つしかなかった。

 それはもちろん、紗奈がアイだということだ。


「秘密って、なんですか?」

「知ってるでしょ? とぼけないでよ」


 紗奈の母親は、かまをかけているのだろうか?

 紗奈は母親と、〝家族や関係者以外に、アイドルをしていることがバレたら、アイドルを辞める〟という約束を交わしている。


 紗奈は健にも、アイドルをしていることは隠していた。だが、偶然がいくつも重なって、紗奈の正体がチェルナダのアイだと、健は知ってしまっていた。

 もし、そのことが紗奈の母親に知られれば、紗奈はアイドルを辞めなければならない。

 だから健は、どれだけ疑われても、素知らぬ顔を通した。


「本当に知りません」


 健は臆することなく、紗奈の母親の視線を真っ向から受け止める。

 ステージの上で生き生きとパフォーマンスをする紗奈が、健は好きだった。たとえ母親といえども、紗奈からアイドルという仕事を奪うことは許されないはずだ。

 紗奈を守りたい思いが、紗奈の母親の視線を受け止める勇気を、健に与えた。


 ふいに紗奈の母親は相好を崩す。それから、膝に置いていたバックに手を伸ばした。

 バックの中から出てきたのは、帽子とサングラスとマスクだった。紗奈の母親は帽子を被り、サングラスをつけて、マスクをつける。


「これは知っているでしょ?」


 健は驚きのあまり、椅子から立ち上がった。


「あなたが記者だったのか」


 紗奈の母親が、チェルナダの取材をしていた記者だった。

 紗奈の母親は、帽子とサングラスとマスクを外して、それらをバックにしまう。


「記者じゃないわよ。私は紗奈の母親よ。あなたに説得された後、大変だったんだから。紗奈に謝って、紗奈の事務所にも謝って、いい大人が情けないったら、ありゃしない」

「なんで記者のフリなんかしたんですか?」


 健に問いただされて、紗奈の母親は苦い顔をする。


「私は紗奈のことが心配だったのよ。私が知りたかったのは、紗奈の身元ではなくて、紗奈の身元を知っている人がいるかどうかだったの」


 記者が健にした質問は、「アイの本名や、アイの通っている高校を知っていますか?」という質問だった。「アイの本名や、アイの通っている高校を教えてくれませんか?」と質問されたわけではない。

 紗奈の母親は、紗奈の身元が関係者以外にバレていないのかを、調べていたのだ。

 しかし、あんな風に質問をされたら、記者が紗奈の身元を調べていると、誰だって勘違いするだろう。


 紗奈の母親に聞きたいことは、他にもあった。


「特典会が終わった後で、なぜ紗奈さんを尾行していたんですか?」

「紗奈の後をつけるストーカーがいないのかを、確認するためよ。まさか自分がしつこい記者だと勘違いされて、原田くんに怒られるとは思っていなかったけど」


 紗奈の母親が自嘲的に笑う。


 記者は紗奈を尾行しているときに、首を振って、やたらと周囲を警戒していた。あれは、紗奈を尾行するストーカーがいないのかを、確認していたのか。


 紗奈の母親が言うように、記者のフリをした紗奈の母親を、健は厳しく非難していた。紗奈を守るためとはいえ、言いすぎたかもしれない。

 脱力した健は、椅子に腰を落とす。


「すいません。怯えている紗奈さんが可哀そうで、怒ってしまったんです」

「いいのよ。私は原田くんに感謝しているの。原田くんに止められなければ、私は記者のフリを今でも続けていて、紗奈をまだ恐がらせていたかもしれないんだから。原田くんは、いつから紗奈がアイだと気づいていたの?」


 攻守が逆転して、今度は健が苦しい顔をする番だった。

 記者から質問をされたときに、「偶然の事故で、クラスメートの女子がアイだと、気づいてしまったんです」と言ってしまっていた。

 それはつまり、紗奈がアイだということが、関係者以外の人である健に、バレてしまっていたということだ。


〝アイドルをしていることが、家族や関係者以外にバレたら、アイドルを辞める〟

 紗奈はそんな約束を、母親としていた。このままでは、母親との約束を破ったことになり、紗奈はアイドルを辞めなければならない。


 紗奈の母親は、いつ健が紗奈の正体に気づいたのかの説明を、目で催促していた。

 健は終業式があった日の記憶を手繰り寄せる。


「終業式のあった日です。花に水をやっていた先生に、紗奈さんが水をかけられたことは、紗奈さんから聞いていますか?」

「それなら紗奈から聞いてるわ。先生は蜂に驚いて、手元が狂ったそうね。体が濡れたから、原田くんは紗奈と一緒に、保健室へタオルを借りに行ったんでしょ?」


 健は頷いて、話を続ける。


「紗奈さんは保健室の壁際で、僕に背中を向けて、タオルで顔を拭いていました。でも、薬品棚のガラスに、紗奈さんの素顔が映っていたんです。僕はそのときに、紗奈さんの素顔を見てしまったんです」


 紗奈の母親は頬に人差し指を当てて、思案するような顔をした。


「私との約束を、紗奈は破ってしまったみたいね。関係者以外の原田くんに、アイドルをしていることがバレてしまったんだから」


 なりふり構っていられなかった。

 健は椅子から急いで立ち上がると、ダイニングの床に額を擦りつけて土下座した。


「お願いします。紗奈さんにアイドルを続けさせてあげて下さい」

「なんで原田くんが土下座するの? 悪いのは自分の不注意で顔を見られた紗奈でしょ?」


 紗奈が悪いわけがなかった。あれは事故のようなもので、紗奈にはなんの落ち度もない。


「あれは事故なんです。紗奈さんは悪くありません。お願いします。紗奈さんにアイドルを続けさせてあげて下さい」

「紗奈がアイドルを辞めることは、原田くんにとっては都合の良いことなんじゃないの?」


 思わぬ言葉に健が顔を上げると、紗奈の母親は甘美な言葉で健を誘惑してきた。


「アイのファンをしているってことは、原田くんは紗奈のことが好きなんでしょ? 紗奈がアイドルを辞めれば、原田くんは紗奈を独り占めできるじゃない。紗奈がアイドルを続ければ、ライバルだらけになるわよ」


 たしかにそうだった。

 チェルナダが有名になるにしたがって、紗奈のファンは増えていた。そのファンの中に、紗奈の好みの異性が現れるかもしれない。


 チェルナダがテレビやラジオでも活躍するようになれば、芸能人との関りも増えてくるだろう。そうなれば、その芸能人の中に、紗奈と気が合う者も出てくるかもしれない。

 紗奈がアイドルを続ければ、異性との出会いは確実に増えるはずだ。

 だから、紗奈を独り占めにしたいのなら、紗奈がアイドルを辞めることは、健にとっては好都合だった。


 しかし、紗奈を独り占めにできたとしても、アイドルを辞めさせられて落ち込んだ紗奈の隣で、どんな顔をすればいいのだろう?

 きっとそんな状況では、健も紗奈も笑っていられないはずだ。


「それでも僕は、紗奈さんにはアイドルを続けて欲しいんです」

「なんで?」


 紗奈の母親は、値踏みするような目で健を見ている。


 ここが正念場だった。ここで腑抜けた回答をすれば、説得は失敗し、紗奈はアイドルを辞めさせられるだろう。

 絶対に失敗はできない。


 健は深く考えるために、俯いて目を閉じた。すると、ステージの上で楽しげにパフォーマンスをする紗奈の姿が、瞼の裏に浮かんだ。


 キラキラと眩しくて、大勢のオタクの憧れである紗奈は、健がどれだけステージの近くにいても、決して手の届かない存在だった。

 紗奈がアイドルを続ければ、さらに健の手の届かない場所へ、紗奈は行ってしまうだろう。

 それでも健は、ステージの上にいる紗奈が好きだった。


 健は目をカッと見開くと、顔を上げ、燃えるような目で紗奈の母親の目を見つめた。


「紗奈さんはアイドルという仕事が大好きなんです。好きなことをしている紗奈さんを、俺は見ていたいんです」

「アイドルを続けたせいで、原田くんではない別の誰かを、紗奈が好きになっても?」

「はい」


 紗奈が他の男を好きになったところを想像すると、胸が引き裂かれた。

 しかし、紗奈がアイドルを続けられて、さらに好きな男に出会えるのならば、それは紗奈にとっては、とても幸せなことだ。

 愚直に紗奈の幸せを願った結果、健は紗奈を失うことになるのかもしれない。しかし、最低でも自分を好きではいられるはずだ。


 紗奈の母親は、健の真意を測るように、瞬きもせずに健の瞳を見つめていた。

 健も紗奈の母親の瞳を、迷いなく見つめ返す。

 性別も立場も異なる二人だったが、同じ人間を思う気持ちが、二人の眼差しを同じにした。

 紗奈の母親は、観念したように息を吐くと、表情を緩めた。


「原田くんが、そこまで言うのなら、今回は見逃してあげるわ」


 健は嬉しさのあまり立ち上がった。


「本当ですか!」

「ええ。記者のフリをした私に、取材を止めるように説得してきたのは、原田くんでしょ? 原田くんが、他の誰かに紗奈の秘密を喋るとは、とても思えないもの」


 そこで紗奈の母は、意地悪な笑みを浮かべる。


「原田くんは、本当に紗奈のことが好きなのね?」


 紗奈の母親は、健の反応を見ている。


 紗奈の母親からは、たくさんの質問をされた。

 だが、何気なくされたこの質問が、一番重要な質問であることに、健は気づいていた。


 健は一度深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。

 それから、紗奈の母親に負けないぐらいの気持ちを、その言葉に込めた。


「好きです」


 健がその言葉を言うほんの少し前に、玄関のドアが開いた。

 足音がこちらへ近づいてくる。

 健がダイニングの入り口に視線を向けると、買い物袋を持った紗奈がダイニングに入ってきた。

 紗奈は、健と母親の顔を交互に見比べる。


「今、『好きです』って聞こえたんだけど。まさか原田、私のお母さんに……」


 とんでもない誤解が発生していた。健が紗奈の母親に告白したと、紗奈は勘違いしているようだ。

 健はあわてて弁解する。


「違うんだ!」

「違うって、なにが?」


 臓腑も凍りつくような声だった。

 まるで紗奈に、浮気を責められているような気分だ。


「だから、それは……」

「それは?」


 健はなんと言い訳すればいいのか、わからなかった。

 さっきの「好きです」は、紗奈のことを好きだと言ったのだ。

 それを説明すれば、紗奈の誤解は解けるだろう。だが同時に、紗奈に告白したことになってしまう。


 いずれは紗奈に、告白する日が来るのかもしれない。

 しかし、紗奈の母親の見ている前で、心の準備もできていない状態で、さすがに告白はしたくなかった。


 困り果てた健を見かねたのか、紗奈の母親が助け舟を出す。


「さっき私が原田くんに、『肉ジャガは好き?』って聞いたのよ。そしたら原田くんは、『好きです』って答えたの。原田くんにも、晩ご飯を食べてもらおうと思うんだけど、どうかしら?」

「もちろん、いいけど」


 紗奈はそう答えながら、健のほうに顔を向けると、首を傾げて見せた。


「原田って、肉ジャガがすごい好きなんだね。さっきの『好きです』、すごい気持ちが籠ってたよ?」


 紗奈の母親が噴きだした。

 健は照れ隠しに頭をかく。

 当たり前だ。俺は大野のことを「好きです」って言ったんだ。


「それで夏休みの宿題は、どこまで進んだの?」


 紗奈はテーブルの上に置いてある、健の夏休みの宿題に目を落とす。


「なにこれ? 一問も進んでないじゃない」


 紗奈の母親と話していたために、宿題は一問も進んでいなかった。

 健は助けを求めて、紗奈の母親に視線を送る。


「さてと、私は晩ご飯を作らなくちゃ」


 紗奈の母親は、紗奈からジャガイモを受けとると、キッチンへ向かった。今度は助けてくれないらしい。


「原田、たるんでるんじゃないの? 今日はみっちり勉強したほうが良さそうだね」


 けっきょく健は、紗奈の気が済むまで勉強させられた。

 過去最高の長さになった回。

 こんなに長くなるとは思わなかった。

 この話だけで、22,000文字は超えている。


 前作、〝佐藤くんは学校が好き〟の〝4 タバスコサンドをご賞味あれ〟は、12,000文字を超えている話なのだが、それを書いた後で私は思った。


 キツい! こんな長い話は、私の脳の許容範囲を超えとるで!


 実際、書いているときに、色んなところで辻褄合わせをしなくてはならなくて、頭が熱くなってしまった。

 たぶん、辻褄があっていない部分が、まだたくさんあると思う。

 

 それが今回は、22,000文字もある。

 辻褄があってない部分も、たくさんあるはずだ。


「ドラえもん、小説の辻褄が合わないんだ! 助けてよ!」

「ぼくに任せてよ」

「どうするの?」

「〝管理〟から、〝このエピソードを削除〟を押して……」

「………………」

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