12 お邪魔します その⑥
記者を説得した翌日、健はファミレスで、紗奈の向かいの席に座っていた。
今日の紗奈は、妙に上機嫌だ。
上機嫌の理由を健が尋ねる前に、紗奈のほうから、その理由を明らかにしてきた。
「聞いてよ。記者の問題が解決したの。原田には心配をかけたけど、もうだいじょうぶだからね」
「それは良かったな。それで、なにがあったんだ?」
健はなにも知らないフリをして、紗奈の話に耳を傾ける。
紗奈の話によると、記者は昨日、紗奈のファンに取材をしたときに、自分の悪い噂が広まっていることを、紗奈のファンから聞いたそうだ。そして、紗奈に迷惑をかけていることに気づき、紗奈の事務所に、自ら謝罪の電話をかけたらしい。
記者は健のことを隠して、自然な作り話を考えてくれたようだ。
本当は健が記者を説得して、取材をやめさせたのだが、それは言わないほうがいいだろう。
癪だが、記者の言った通り、紗奈の事務所に怒られるぐらいの無茶を健はした。
紗奈に話したところで、記者の説得に成功したことを褒められるどころか、無茶をしたことを怒られかねない。
「これでアイも、安心してライブに集中できるはずだよ」
紗奈の安心した顔を見られたのだから、それだけで健には十分だった。
そろそろ夏休みの宿題を始めるのかと思ったのだが、紗奈はなかなか宿題を始めようとはしない。右手で左手の爪を撫でながら、なにやらソワソワしている。
健が訝しげな目で紗奈を見ていると、紗奈は突然とんでもないことを言い出した。
「今度、私の家に来ない?」
「ん?」
なにを言われたのかわからなくて、健は紗奈の顔をマジマジと見つめる。
私の家に来ない?
そう聞こえたのだが、まさかそんなことを紗奈が言うわけがない。
不思議そうな顔をしている健に、紗奈が理由を伝える。
「お母さんがね、原田に会いたいって言ってるのよ」
ということは、本当に紗奈は、健を家に呼んでいるのか。
健の胸に不安が広がる。
なぜ紗奈の母親は、健に会いたがっているのだろう? 娘と親しい男を、その目で見ておきたいのだろうか?
「なんで大野のお母さんは、俺に会いたがってるんだ?」
健が気乗りしない声で尋ねると、紗奈は申し訳なさそうな顔になる。
「私が家で、よく原田の話をするから、原田に興味を持ったんだと思う。どんな人なのか見たいから、一度家に連れて来いって言うのよ」
誘いを断れば、紗奈の母親からの印象は悪くなるだろう。そうなれば、紗奈が今のように健と会うことを、紗奈の母親は止めてくるかもしれない。
「わかった。行くよ」
記者を説得するよりも、紗奈の母親と会うほうが、健からすれば、よほど恐かった。
健は紗奈と一緒に、紗奈の自宅へ向かって歩いていた。
紗奈とは付き合ってはいない。この先どうなるのかはわからないが、今のところ、紗奈はただの友人だ。
だが、恋人の親に紹介されるときの気分は、今の健と似たような気分なのかもしれない。口の中は緊張でカラカラだった。
紗奈の母親には嫌われたくなかった。もし嫌われれば、紗奈と会うことが難しくなるかもしれないからだ。
とにかく清潔を心がけた。この日のために、少し伸びてきていた髪の毛は切り、爪も切った。
服はなにを着て行けばいいのかわからなかったので、紗奈が服屋で選んでくれた服を着ている。
さらに紗奈から事前に、紗奈の母親が好きな洋菓子を聞いていた。その洋菓子の入った紙袋も、しっかり手に持っている。
できる限りのことはやった。後は本番で、失敗をしないように注意できるかだ。
そこまで考えて、ふと健は思いつく。
いや、まだできることがあった。紗奈の母親が、どんな人なのかを聞いておけば、上手く対応できるかもしれない。
「大野のお母さんって、どんな人なんだ?」
「すごい心配症かな。やたら私のことを心配してくるんだよね」
一人娘の紗奈が心配なのは、親なら当たり前だろう。ましてや紗奈は、アイドルという人目につく仕事をしている。悪い男が寄ってこないか、心配でたまらないはずだ。
そして、その悪い男の第一候補に、自分が入っているのかと思うと、健は苦笑いさえ出てこなかった。
「一人娘なんだから、そりゃ大野のことが心配だよな。大野はお母さんに、俺のことをよく話しているんだろ? だったら、その話を聞いて、お母さんはなんか言ってなかったのか?」
「えっ? いや、べつに……」
紗奈が口ごもるので、健は心配になってきた。
「もしかして、俺の悪口でも言ってたのか?」
「言ってないよ。私のお母さんは、人の悪口なんか言わないもん」
紗奈が即座に否定したので、ひとまず安心はした。
しかし、それなら紗奈は、なぜ口ごもったりしたのだろう?
「悪口じゃないのなら、なんて言ってたんだよ?」
「あ、あれが私の家だよ!」
紗奈が指さした先にあるのは、いたって普通の一軒家だった。
なんだか強引に、誤魔化された気がする。
しかし、紗奈の家が近づいた以上、もう呑気に話をしている気分にはなれなかった。
紗奈が玄関のカギを開けて家の中に入ったので、健も紗奈の後に続く。
「ただいま。原田を連れてきたよ」
紗奈が廊下の奥へ向けて声を張ると、廊下の右側にある部屋から、美しい女性が健たちを出迎えに現れる。垂れ目の紗奈とは違って、目が釣り上がってはいたが、女性は紗奈とよく似た顔立ちをしていた。
すぐにこの女性が、紗奈の母親だとわかる。紗奈は母親に似たようだ。
紗奈の母親が、健に微笑みかける。
「あなたが原田くんね。こんにちは。紗奈の母です」
「こんにちは。原田健です」
健は頭を下げながら、ふいに湧いた疑問に意識を取られる。
あれ? この声、最近どこかで聞いた気がするぞ。
紗奈の母親とは、初対面のはずだった。
顔を上げて、紗奈の母親の顔をあらためて見ても、その顔に見覚えはない。
妙な疑問に意識を割いている余裕はなかった。とにかく今は、粗相をしないように気をつけなければならない。
紗奈の母親に案内されたのは、ダイニングだった。
「外は暑かったでしょ?」
紗奈の母親が、テーブルに麦茶の入ったコップを置く。テーブルには茶菓子も用意されていた。
「ありがとうございます。これ、どうぞ。お好きだと伺ったので」
健は紙袋から洋菓子の入った箱を取り出すと、箱を紗奈の母親に差し出した。
紗奈の母親は、洋菓子の入った箱を笑顔で受けとる。
「あら、ありがとう。若いのに、しっかりしているのね」
「紗奈さんのほうが、僕よりずっとしっかりしていますよ」
健が紗奈を褒めると、紗奈の母親はくすりと笑って、疑いの視線を紗奈に向ける。
「本当かしら?」
「本当です」
紗奈は腰に手を当てて、偉そうなポーズをした。
紗奈の母親は、紗奈を無視して、健に視線を戻す。
「こんな娘だけど、仲良くしてあげてね」
「『こんな』って、どういう意味よ?」
紗奈とその母親は、友達のように仲が良かった。
紗奈がアイドルをすることに際して、厳しい条件を課したのは紗奈の母親だ。だから、二人の仲が悪いことも想定していたのだが、そんなことはなかった。
「わかりました」
紗奈の母親の頼みを、健は快く引き受けた。
紗奈の母親は、冷蔵庫に洋菓子の入った箱を入れると、晩ご飯の準備があるようで、キッチンに立った。
キッチンからは、紗奈の母親が包丁を扱う、子気味の良い音が聞こえてくる。
健は小さく安堵の息を吐いて、椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、勉強しようか」
紗奈の笑顔から、紗奈の母親との会話が、上手くいったことがわかった。
いつもと同じように、紗奈と談笑をしながら、夏休みの宿題をする。ここ最近は、紗奈がアイだということにも慣れてきて、勉強にも集中できるようになっていた。
いつもと違う場所にいても、紗奈がいれば、健の意識は紗奈に集中する。紗奈の家にいることも気にならなくなり、自然と勉強にも打ち込めた。
二人で順調に夏休みの宿題を片付けていると、紗奈の母親が、紗奈の名を呼んだ。
「紗奈、悪いけど近くのスーパーに行って、ジャガイモを買って来てくれない?」
「お母さんが買って来ればいいじゃん。私は今、勉強してるんだよ?」
紗奈は母親の頼みを、にべもなく断った。
しかし、さすが母親だけあって、紗奈の母親は、紗奈の扱い方を心得ていた。
「アイスクリームも一緒に買ってきてもいいわよ」
「えっ? ほんと? 行く行く!」
紗奈は跳ねるようにして椅子から立ち上がった。
おいおい、俺をお母さんと二人きりにするなよ。
健はすがるような視線を紗奈に送ったが、アイスクリームに目のくらんだ紗奈が、健の視線に気がつくことはなかった。
紗奈は母親から千円札を受け取るなり、すぐさま家を出て行ってしまう。
健は紗奈の母親と二人きりになった。




