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11 見ちゃった その⑤

 健と紗奈は、公園のベンチに肩を並べて腰かけていた。

 木々が風に揺れて、健たちを炎天下の太陽から守る木陰が揺れている。


 話があるからと、紗奈に公園に連れて来られてから、紗奈は一言も発していない。

 紗奈の思いつめた顔を見て、やはり転校の話なのだと健は確信した。

 わずかに残っていた希望は消え去り、健の顔から精気が抜けてゆく。これから始まる長い夏休みは、過去を振り返りながら、ぼんやりと過ごすことになりそうだ。


 不思議な気分だった。

 紗奈の口から転校という言葉が出て来るのを、死刑宣告でも待っているかのように、胸を痛めて待っている。

 しかし、この時間が早く過ぎて欲しいとは思わなかった。


 紗奈がナナセと同じように、一学期を最後に転校するのであれば、こうして紗奈と肩を並べて座っていられるのも今日で最後だ。

 そんなふうに考えたら、今という時間がとても貴重な時間に思えた。

 健にとって長く短い時間が過ぎたとき、ようやく紗奈は重い口を開いた。


「明日から夏休みだね」

「そうだな」

「私さ、原田が夏休み中に一人でも、ちゃんと勉強するのか心配なんだよね。バイトとかチェルナダのライブを観に行くのに時間を使って、夏休みの宿題も、ろくにしないんじゃないかってさ」


 この後に及んで、勉強のことを心配されるとは泣けてくる。どうせなら、もっと別れに相応しい言葉を聞きたかった。

 紗奈が転校するという可能性に思い至ってから今までの間に、色々と考えた。

 その結果、紗奈にとって転校は良いことなのだと気がついた。


 芸能コースのある高校へ転校すれば、紗奈は今よりももっとアイドルとしての活動に力を入れられるだろう。同じ高校にナナセがいるのだから、紗奈が困ったことになっても、ナナセがきっとなんとかしてくれる。

 紗奈と会えなくなることが嫌だから、転校しないで欲しい。そんな子供じみた理由で、紗奈の足を引っ張りたくはなかった。


「一人でも、ちゃんと勉強するから安心しろって」


 紗奈がなんの心配もなく転校できるように、健は必死で笑顔を作る。できることなら、紗奈を笑顔で送り出してあげたかった。

 しかし、どうしても笑顔が引きつってしまう。健は紗奈に聞いてみたかった。


 悲しいことがあったとき、大野はどうやってステージの上で笑顔を作っているんだ?


 紗奈が健の顔を見ていたら、きっと紗奈は健の動揺に気づいていただろう。しかし、うつむいている紗奈が、健の動揺に気づくことはなかった。


「そっか。じゃあ、私がいなくても心配ないね」


 紗奈の暗い声は、健の心の奥底に落ちた。

 太陽を取り上げられたように、健の世界から光が消える。


 覚悟はできているつもりだった。しかし、実際に紗奈の口から、紗奈がいなくなることを聞くと、その恐怖は想像を絶するものだった。

 健の呼吸は不規則になり、心拍数が跳ね上がる。


「私さ、じつは――」

「嫌だ」


 健は紗奈の言葉の続きを聞きたくなくて、紗奈の言葉を遮った。

 大人ぶって、カッコつけるのも限界だった。カッコつけて見送れるほど、大人でもなかったし、紗奈に対する気持ちは安くなかった。


 今さらなにかを言ったところで、もう手遅れなのかもしれない。

 それでも健は言わずにはいられなかった。この気持ちを吐き出さないと、心が壊れてしまいそうだ。


「大野に会えなくなるなんて、俺は嫌だ」


 まるで子供のわがままだ。

 紗奈の都合なんて知らない。自分さえ良ければそれでいい。

 とんでもないわがままを言っていることはわかっている。だから、紗奈の顔は怖くて見られなかった。


 ステージの上で歌い踊る紗奈を見て、紗奈がアイドルとして、いかに秀でた能力を持っているのかは知っている。

 学校や登下校の道の上で、紗奈とたくさん会話をして、紗奈がいかに人間として魅力的なのかも知っている。

 紗奈は間違いなくトップアイドルになるはずだ。平凡な自分なんかとは、とうてい釣り合わない。


 ここまで考えて、ようやく健は、紗奈のことをどう思っているのかに気がついた。

 俺は大野が好きだったんだ。


 アイの容姿を見て、一目ぼれをした。

 紗奈の心に触れて、真の恋は見た目ではないことを知った。

 ぜんぶ紗奈だった。紗奈が健に、恋を教えてくれた。


 紗奈が好きだから、紗奈の前では大人でいられない。

 今の健にとって、紗奈は青春のすべてだ。紗奈を失えば大人になれるのかもしれないが、子供のように笑えなくなる。

 紗奈を失うぐらいなら、子供のままでいい。


 視界にブクブクと水が湧き、目に映るすべてのものが水底に沈んだ。思いの詰まった熱い雫が、健の膝に落ちる。


「ちょっと、なんで泣いてるの?」


 驚いた紗奈が、ポケットからハンカチを取りだして、健の涙を拭う。

 このまま泣き続けたら、ずっと紗奈は隣で、涙を拭いていてくれるのだろうか? そんなバカな考えが頭に浮かんだ。


「大野に会えなくなるのが、嫌だからに決まってるだろ」


 健はこんなにも真剣なのに、紗奈は軽い調子で笑った。

 紗奈に対する熱い思いを笑われた気がして、健は腹が立った。


「なんで笑ってるんだよ?」

「原田が、まさかそんなに寂しがり屋だとは思わなくてさ」


 健は紗奈が転校することを深く悲しんでいるのに、紗奈は平然としている。

 みょうな温度差を感じた。なにか話が嚙み合っていないような気がする。


「なんで大野は、そんなに平気なんだよ?」

「私も平気じゃないよ。だから、〝夏休みの宿題を一緒にやろう〟って話をするために、今日ここに原田を連れて来たんだよ」


 健は目を瞬く。

 夏休みの宿題を一緒にやろう? じゃあ、大野は転校しないのか?


「さっき、大野が言おうとしたことってのは……」


 紗奈は頷いて、先ほど健が遮った言葉の続きを話す。


「私さ、じつは〝夏休みの宿題を一緒にやろう〟って、原田を誘おうと思ってたの。でも、原田が一人でも、ちゃんと勉強するって言うのなら、私は必要ないね」


 健は自分が勘違いをしていたことに気づいた。

 紗奈は転校する予定なんてなかったのだ。

 紗奈の話したかったこととは、転校の話ではなくて、〝夏休みの宿題を一緒にやろう〟という話だった。


 今朝、健と紗奈の得意科目と苦手科目が真逆であることを、紗奈は喜んでいた。あれは、夏休みの宿題を一緒にするときに、お互いに勉強を教え合えると思ったから、喜んでいたのか。


 安心すると体から力が抜けた。忘れていたはずの夏が戻って来る。

 トンネルから抜け出たように、夏の暑さが肌に蘇り、遠ざかっていたセミの鳴き声が、鼓膜を震わせた。

 ゆっくりと紗奈といる夏が過ぎてゆく。


 紗奈の目が、清流を泳ぐ川魚のように光った。


「どうする? 夏休みの宿題は一人でするの?」


 紗奈は意地悪な笑みを浮かべている。

 聞く必要なんてないはずだ。健の涙を見た紗奈は、きっとその答え以上のことも知っている。


 大野と一緒に、夏休みの宿題をしたい。

 思いを素直に口にすると、負けのような気がした。この先ずっと、紗奈に上から見下ろされる気がする。


 つまらないプライドが、思いとは正反対の言葉を言わせようとした。

 しかし、紗奈と一緒にいたい、という強い思いは、健のつまらないプライドを上回った。


「大野と一緒に、夏休みの宿題をしてもいいけど」

「はいはい。じゃあ一緒に、夏休みの宿題をしようね」


 紗奈の笑顔は、子供の生意気を許す母のようだった。

 上から目線が気に食わない健は、舌打ちを返す。

 だが紗奈は、その舌打ちすらも笑顔で受け流した。


 健の涙をハンカチで丁寧に拭き終えた紗奈は、ハンカチをポケットにしまう。それから上機嫌で、別のポケットからスマホを取り出した。


「LINEを交換しようか?」


 人生で一度も女子とLINEを交換したことのなかった健は、紗奈からの突然の誘いに驚いた。

 健の間抜け面を見て、紗奈が噴きだす。


「学校が休みなんだから、連絡が取れないと、夏休みに会う約束もできないでしょ?」

「それは、たしかにそうだな」


 紗奈の言うことは、もっともだった。

 そんなわけで、健は紗奈とLINEを交換した。

 チェルナダのアイと、LINEを交換してしまった。本当にいいのだろうか?


 紗奈が公園のベンチから立ち上がる。


「じゃあ、帰ろうか。それとも、もう少しここで泣きたい?」


 LINEを交換して、紗奈はますます調子に乗っていた。

 健は跳ねるようにして、ベンチから立ち上がる。


「俺が泣いたことは、クラスメートやチェルナダのメンバーには絶対に言うなよ?」

「言わなきゃ良いってことは、LINEで送るのは、ありってことだよね?」


 前髪で隠れていて見えなくても、紗奈が今どんな目をしているのか想像がついた。

 きっと大きくてキレイな目を、弓なりに細めているに違いない。

 紗奈の目が見えなくて良かった。紗奈の目が見えていたら、胸がドキドキして、紗奈を睨みつけることができなかったかもしれない。


「あんまり人をからかっていると、いつか天罰が下るぞ」


 健は紗奈を睨んだが、いささか迫力に欠けていた。

 もっと健との舌戦を楽しみたいのか、紗奈は健の忠告に耳を貸そうとはしない。


「天罰なんて――」


 紗奈は調子に乗りすぎていた。もう少し周囲に気をつけていたら、背後から忍び寄って来る男子小学生たちに、気づけていたかもしれない。


 紗奈のスカートがまくれ上がり、昨日と同じように白い脚が露になる。今日も紗奈の履いているパンツの色は白だった。紗奈の名誉のために補足すると、もちろん昨日とは違うパンツだ。


「逃げろ!」


 昨日も紗奈のスカートをめくった男子小学生たちは、今日も元気に逃げて行った。

 紗奈の顔がみるみる赤くなってゆく。

 夏休みの宿題よりも難しい宿題が、目の前にあった。

 そうだ。パンツの色を当てたら怒らないと、昨日、紗奈は言っていた。


「大野は白が好きなんだな」


 健は、さり気なくパンツの色を紗奈に伝えた。

 昨日のように、紗奈のパンツの色を大声で叫んだりはしない。

 今日こそは怒られないで済むかも。

 そんな希望を胸に抱いた健だったが、もちろんそんなことはなかった。


 紗奈は昨日と同じように、健の胸倉をつかんできた。紗奈の手は怒りで震えている。


「私の履いてるパンツの色で、私の好きな色を決めるのは、やめてくれないかな?」

「ご、ごめんなさい」


 紗奈のいる賑やかな夏が始まろうとしていた。

 物語が大きく動く回。

 この作品のプロットを作り始めたときに、最初のほうにできたプロットだった。

 ここまで書けたことが、素直に嬉しい。

 

 ここまで書いて気づいたことが、執筆前にイメージしたキャラクターと、実際のキャラクターのイメージが、少なからず変わったことだ。


 ナナセは、人をからかうことが好きなところは変わりないのだが、執筆前は子供っぽいイメージだった。

 それが、チェルナダのリーダーをするために、大人っぽく、頼りになるキャラクターへと変わった。


 レイナは、他のチェルナダのメンバーと差別化を図るために、執筆前は無口で冷たい女の子をイメージしていた。

 しかし、冷たい態度をとらなせることができなかった。

 結果として、無口だが心は温かくて、風変わりな女の子へと変わった。


 そして紗奈だけは、執筆前にキャラクターをイメージすることができずに、不安な気持ちを抱えて、この作品を書くことになってしまった。

 書いているうちに、じょじょに紗奈のイメージができあがっていった。

 紗奈は年相応の女の子で、嬉しければ笑って、悲しければ泣いて、ときには激しく嫉妬もする。

 問題が起これば困り果てて、問題を一人で解決する力もない。

 だが、素直で優しくて、なんでも一生懸命な紗奈のために、みんなが手を差し伸べて、問題は解決されてゆく。


 紗奈をヒロインにして、良かったと思った。

 良いところも、悪いところもあるけれど、感情がとても瑞々しくて、私は紗奈みたいな女の子が好きだ。


 健、お前に紗奈は渡さん!

 お前は最後、金魚と結婚する運命だ!

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