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11 見ちゃった その③

 今日は終業式だった。

 健が学校へ登校していると、健の隣に紗奈が走って来る。


「おはよう」

「おはよう。今日も大野は元気だな」


 元気よく紗奈が挨拶をしてきたので、健も紗奈に挨拶を返した。

 健が挨拶を返すなり、紗奈のほうから話を振ってきた。


「原田は得意科目とかある?」

「得意科目は数学だな。小学生のときから、算数は得意だったんだ」

「本当? じゃあ、苦手科目は?」


 紗奈が食いつくように聞いてきたので、健は少し体を引いた。

 なぜ紗奈は、そんなに興奮しているのだろう?


「英語だよ。単語も文法もサッパリだ」


 紗奈が嬉しそうに笑う。

 苦手科目を聞いて笑う人間なんて初めて見た。いったい紗奈は、なにが嬉しいのだろう? 今日の紗奈は、なんだか変だ。


「私は英語が得意なんだよね。逆に数学は、ちょっと苦手でさ」


 健は、ふんっと鼻を鳴らす。


「数学が苦手? 数学の先生に難しい問題を当てられても、スラスラ満点の回答を黒板に書いてる大野が? 嫌味にしか聞こえねぇな」

「そんなつもりで言ったんじゃないもん」


 紗奈が頬を膨らませる。

 健には、紗奈がなにを言いたいのか見当もつかなかった。だから、正直に紗奈に聞いてみることにした。


「じゃあ、どういうつもりで言ったんだよ?」

「お互いに得意科目と苦手科目が真逆だったら、勉強を教え合えるでしょ?」


 健はバカバカしくて笑った。

 頭の良い紗奈が、どうしてこんなバカなことを言っているのか、不思議でならなかった。


「俺が大野に、勉強を教えられるわけがないだろ。自分よりも頭の良いヤツに、なにを教えろって言うんだよ」


 紗奈は口を開いて、なにか言おうとしたが、けっきょくなにも言わずに口を閉じた。それから、不満そうな顔で唸っている。

 勉強を教え合えないことの一体なにが不満なのか? 健にはサッパリわからなかった。


 紗奈が黙っている今が、聞きたいことを聞くチャンスだと思うのは早計だ。

 今の紗奈に不用意に話しかけると、紗奈の不満が怒りに変わって、その怒りが勘の悪い健に向かってきかねない。


 ナナセと同じように、アイも芸能コースのある高校へ転校するのかを、紗奈に聞こうと思っていたが、それは後にしよう。

 触らぬ神に祟りなし。健は紗奈を横目でうかがいながら、校門を抜ける。


 前庭に入ると、プランターに植えられている花に、健の目は吸い寄せられた。サルビア、マリーゴールド、ベゴニア、色とりどりの花が、前庭を歩く生徒の目を楽しませている。

 学校の先生が、プランターの花に水をやっていた。散水ノズルの噴出口からシャワー状になった水が勢いよく噴出され、花や葉に降り注ぐ。


 ここ最近は日照りが続いていたから、植物たちには恵みの雨になったはずだ。

 だが蜜蜂にとっては、そうではなかった。せっせと花の蜜を集めていた蜜蜂は、いきなり降ってきた雨に驚いて、サルビアの花から飛び立った。


 突然目の前に現れた蜜蜂に、今度は先生が驚く番だった。驚いた拍子に、先生の持つ散水ノズルの噴出口が、プランターではなく道路の方へ向く。

 運悪く道路を歩いていた健と紗奈に、シャワーが降り注いだ。


 先生が散水ノズルのレバーを離したことで、すぐにシャワーは止まった。しかし、そのときにはすでに、健も紗奈も頭からシャワーを浴びて、頭や肩が濡れてしまっていた。

 先生があわてて健たちに頭を下げに来る。


「すまん。蜂に驚いて、手元が狂ってしまったんだ」


 先生が本当に申し訳なさそうに謝るので、謝られている健のほうが気の毒な気持ちになった。

 紗奈も健と思いは同じなようで、励ますような笑顔を先生に向けた。


「気にしないで下さい。暑かったんで、ちょうど良かったです」


 紗奈の優しさは、先生だけでなく健の心も温かくした。

 とはいえ紗奈の前髪は水で濡れて、眼鏡にベッタリと張りついている。紗奈のためにもタオルを借りに行ったほうが良さそうだ。

 怒っていないことを示すために、健も先生に笑顔を向ける。


「俺たちは保健室に行って、タオルを借りてきます」


 もう一度頭を下げる先生に、健と紗奈は目を合わせて苦笑した。

 それから健は、紗奈と共に、濡れた頭をお互いにからかいながら、保健室へと向かった。


 保健室に着いた健たちは、保健室の先生に事情を説明して、タオルを貸してもらう。

 健が濡れた頭をタオルで拭いていると、紗奈は保健室の壁際へと移動した。健に背中を向けて、眼鏡を外し、タオルで髪や顔を拭いている。紗奈はどうしても健に顔を見られたくないらしい。


 二か月ほど前に、なぜ紗奈が前髪で目を隠しているのかを聞いたとき、紗奈は「恥ずかしいから」と答えていた。

 紗奈と親しくなるにつれて、紗奈の目を見たいという気持ちは募るばかりだった。しかし、紗奈が見られたくないものを、無理に見ようとは思わない。みょうなスケベ心を出して、紗奈に嫌われたくはなかった。


 だから健は、紗奈から視線を外そうとしたのだが、そのときに見てしまった。

 保健室にある薬品棚のガラスに、紗奈の顔が映っている。

 紗奈の目は大きな垂れ目をしており、吸い込まれそうなほどに美しかった。小さな顔に、人形のように整った顔のパーツが、バランス良く配置されている。


 頭についた水滴を、タオルで拭いていた健の手が止まった。

 健は自分がどこにいるのか、そしてなにをしているのかも忘れるほどに、紗奈の美しさに心を奪われた。

 こんなに美しい人を見るのは初めてだ。紗奈の顔を表現するのに、これほどふさわしい言葉はないだろう。


 だが、その言葉が頭にひっかかる。

 いや、初めてではない? 俺は、この顔をどこかで見たことがある?

 さほど考えるまでもなく、紗奈が誰に似ているのか思い至った。これほどキレイな顔の持ち主を、健は一人しか知らない。


 大野がアイに似てる? なんで大野が、アイに似てるんだ?

 健が一目ぼれをしたアイドルのアイに、紗奈はそっくりだった。そんなわけがないと思って、目を凝らして紗奈の顔を見るが、見れば見るほど紗奈はアイにそっくりだ。


 真相をたしかめるために、もっと紗奈の顔を見ていたいところだったが、時間切れだ。紗奈が頭と肩を拭き終えて、眼鏡をかける。それから、いつものように前髪で目を隠した。


 紗奈がこちらを向きそうだったので、健は急いで紗奈から顔を背ける。健は自分の頭と肩を乱暴に拭くと、紗奈に続いて保健室の先生にタオルを返した。それから、二人揃って保健室を出る。

 アイの顔をした紗奈が、健にいつもと同じような笑顔を向けてきた。


「夏で良かったね。冬だったら、風邪をひいてたかも」

「そうだな。明日から夏休みなのに、今さら風邪をひいても学校を休めないもんな」


 健は紗奈と話しながら、紗奈の顔をそれとなく観察してみる。

 紗奈の鼻や口や顎の形は整っていて、その形はアイに似ていた。紗奈の目については、前髪で隠れていて今は見えない。


 保健室で偶然に見てしまった紗奈の目を、健は思い出してみる。

 西洋人のように大きくて、優しげな印象のする垂れ目は、アイのチャームポイントだ。その瞳に一目ぼれをした健が、見間違えるわけがない。

 紗奈の目は、アイの目と瓜二つだった。


 少し似ているだけなら、「大野って、アイに似ているんだな」と話すこともできただろう。

 しかし、他人の空似なんてレベルではなかった。あまりにも似すぎていて、恐ろしいぐらいだ。まるでドッペルゲンガーでも見たような気分だった。


 そして、そのドッペルゲンガーは、健と一番親しい女性の友人で、知り合ってからは、家族や同性の友人たちよりも会話をしていた。憧れの存在であるアイにそっくりな顔をした女性が、いつも隣にいたのだ。

 これで驚かないわけがない。こんなことがあれば、誰だって驚くに決まっている。


 健の頭に思い浮かんだのは、二つの可能性だった。


 一つは、紗奈とアイが双子の姉妹であること。

 しかし、過去に紗奈から聞いた話では、紗奈は一人っ子のはずだった。だから、紗奈の言葉を信じるのなら、その可能性はあり得ない。


 残る一つは、紗奈がアイであることだ。

 いやいや、俺はなにを考えてるんだ? 今、俺の隣にいる大野が、チェルナダのアイだって? チェルナダは今一番勢いのあるアイドルだぞ? いくらなんでも、それはありえない。


 健は激しく混乱した。

 アイの出演するライブに足しげく通った健だからこそ、アイの凄さを肌に感じて知っている。アイは自分とは違う世界の住人だ。そんなアイが、こんなにも自分のすぐそばにいるわけがない。


 しかし、誰よりもアイに熱い視線を送ってきた健だからこそ、見間違えるわけもなかった。

 混乱する健に気づいていない様子の紗奈は、ため息を吐いた。


「原田は学校をサボることしか考えてないの? ちゃんと勉強しないとダメだよ?」


 紗奈が喋るたびに、紗奈とアイが結びついてゆく。

 紗奈の声は同年代の女性より低かったが、可愛らしい声をしていた。この声を高くすると、アイの声に似ているのではないか?


「『勉強しなよ』って注意は、昨日も聞いたぞ。何回言えば気が済むんだよ。もしかして大野は、ボケてきてるんじゃないか?」

「私は今月16になったばっかりだよ? まだボケるわけがないでしょ」


 紗奈が語気を強める。

 今月16になったか。

 アイの生誕祭があったのも今月だ。生誕祭を開いて、みんなでアイの16歳の誕生日をお祝いしたのは、まだ記憶に新しい。


 紗奈とアイは、誕生日が共に7月で、年齢も16歳で同じだ。

 否定しようにも、肯定の材料しか見つからない。


 紗奈は、地味な格好をしていて、目立つのを恐れるように、いつも人の後ろに隠れていた。

 アイは、派手な格好をしていて、大勢の人が観るステージの上で、堂々とパフォーマンスをしていた。

 二人の放つ印象が真逆で比べたこともなかったが、二人の外見はそっくりだし、性格だってよく似ている。まるで紗奈が、自分の正体がチェルナダのアイであることを隠すために、わざと地味な女子高生を演じているようにさえ思えてきた。


「そうだな。ボケてるのは俺のほうだ」


 健は乾いた笑い声を上げる。

 本当に俺はボケてるんじゃないか? 大野がアイだなんて、本気で考えてるのか?

 教室が近づいて来て、紗奈の声が不意に真剣になる。


「原田に話したいことがあるんだけど、今日の放課後いいかな?」

「いいけど。あらたまって、なんの話だよ?」


 健の声が上ずった。嫌な予感がした。

 もし、もしもの話だ。もし、紗奈がアイであるのなら、その話に心当たりがあった。


「ごめん。ここではちょっと話しにくいことなんだ」

「わかった。じゃあ、また後でな」


 健は平気な顔を装ったが、心はミシミシと軋んでいた。

 大野が……転校する?

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