8 生誕祭 その①
土曜日の午後3時過ぎ、チェルナダのライブに行くために、玄関で靴を履いていた野原英樹は、母に呼び止められた。
「英樹、アンタに良い話があるのよ」
振り返って母を見ると、母はこころなしか緊張した顔をしている。
英樹が視線で母に話の続きを促すと、母はおそるおそる話を切り出した。
「アンタ、お見合いしてみない?」
それは英樹にとって、良い話どころか悪い話だった。
英樹はチェルナダのアイが好きだ。心に決めた人がいる英樹に、他の女性を勧めてくる母は、英樹からすれば自分の恋愛を邪魔する邪魔者にさえ見えた。
これからチェルナダのライブがあり、英樹の心は高揚していたのに、その気持ちが母のせいで台無しだ。
「なんで俺が、お見合いなんかしなきゃいけないんだよ」
「アンタもいい年なんだし、そろそろ結婚も考えたほうがいいでしょ?」
英樹は今年で32歳になる。同級生たちが続々と結婚し、子供をもうけるのを横目で見て、英樹だって焦ってはいた。
しかし、今の英樹はアイとしか結婚する気にはなれなかった。好きでもない女性と結婚したところで幸せになれるわけがないし、相手の女性にも失礼だ。
「俺には好きな人がいるんだよ。勝手に俺の結婚相手を決めないでくれ」
「あきらめなさい。アンタがアイドルと結婚できるわけがないでしょ?」
諭すような母の口調に、なおさら怒りがかき立てられた。母は英樹がアイと結婚できるわけがないと決めつけている。
たしかに今のアイは、英樹に対して恋愛感情を持ち合わせてはいないだろう。
それでもライブに行くと、アイはいつだって笑顔で英樹を歓迎してくれる。少なくとも好意ぐらいは持っているはずだ。その好意が恋愛感情に変化しないなんて、神様でもない限り、誰が言い切れる?
「そんなこと、なんで母さんにわかるんだよ?」
「わかるわよ、自分の子供なんだから。若くてかわいい子には、いくらでも良い男が寄ってくるのよ。アンタより若くて、カッコいい男の子がね。アンタには、アンタに釣り合った相手がいるのよ」
俺より若くてカッコいい男。
英樹の頭に、一人の男の顔が思い浮かんだ。その男はアイのお気に入りのファンで、アイはその男のことを、親しみを込めて〝健〟と呼んでいた。
健に向けられる笑顔と、英樹に向けられる笑顔では明らかに差があった。アイのことをつぶさに見てきた英樹には、その違いがわかっていた。
母の言葉は英樹の痛いところを突いていた。だから英樹は言い返したくても、すぐには言い返せなかった。
母は英樹に良い話と思わせたいのだろう。ことさらに明るい声で、さらに話を続けた。
「アンタと同じで、アイドルが好きな女の子がいるのよ。同じアイドルオタク同士なら、上手くいくと思わない? 一度会ってみたら、どう?」
上手くいくとは思えなかった。
英樹と同じ考え方の持ち主なら、英樹と同じように、自分の好きなアイドルとしか結婚する気にはなれないはずだ。お見合いなんかしようとしている時点で、その女性は英樹と考え方が異なっている。
母はなにもわかっていない。そんな半端なアイドルオタクと一緒にされて、どれだけ英樹が腹を立てているのか、それすらも理解していなかった。
「俺のことは放っておいてくれ!」
はき捨てると英樹は家を飛び出した。
外は雨が降っており、英樹は傘を持って家を出なかったことを後悔した。
勢いよく家を飛び出した手前、傘を取りに家に戻るのには抵抗があった。
しかたない。どこかでビニール傘でも買うか。
英樹は雨が目に入らないように目を細めて、チェルナダのライブへ行くために駅へと急いだ。
英樹の前には、憧れのアイドルであるチェルナダのアイがいた。
先ほどアイとチェキを撮り、今はアイとお喋りを楽しむことができる時間だ。
英樹はいつもチェキ券を複数枚買って、アイと長時間のお喋りを楽しむ。しかし、いくらチェキ券をたくさん買ったところで、アイを独占することはできない。そろそろ時間切れが近づいていた。
そうだ。聞いておかないといけないことがあったんだ。
アイとの会話に夢中になり、危うく忘れるところだった。今日の英樹には、アイに聞いておかなければならないことがあった。
「もうすぐ生誕祭だけど、アイは欲しいものとかある?」
さり気なさを装ってアイに欲しいものを聞いたところで、この時期に聞くとなると、さすがに生誕祭のプレゼントのことを聞いていることはバレバレだ。だから、英樹は包み隠さずに尋ねた。
するとアイは用意していたかのように、スラスラとその質問に答えた。おそらく同じような質問を他のファンからもされて、そのたびに同じ答えを返してきたのだろう。
「消費できるものがいいかな。ぬいぐるみみたいにかさばるものだと、部屋に置いておける場所もないしね。あと消費できるものでも、食べものはあんまり嬉しくないかな。野原さんだって、太った私は見たくないでしょ?」
アイドルのプレゼントに、ぬいぐるみが良くないことは、アイドルオタクの間では有名な話だ。アイが言ったように、ぬいぐるみは場所を取る。それにアイは口に出さかったが、ぬいぐるみには盗聴器を仕掛けられる危険性もあった。
「じゃあ、俺はアイに食べものを贈ろうかな。アイが太ったら、アイを狙うライバルが減りそうだし」
英樹が冗談めかして言うと、アイは疑いの目を英樹に向けた。
「野原さんまで、いなくならないか心配だなぁ」
チェキスタッフの持っているタイマーが鳴った。もう少しアイと喋りたかったが、アイからプレゼントの話を聞くことはできた。
「誕生日のプレゼント、期待してるからね」
アイが英樹にチェキを差し出して、にっこりとほほ笑む。
英樹は自信に満ちた顔でアイに応えた。
だいじょうぶ。俺は誰よりもアイのことを知っている。アイの欲しいものを、俺が外すわけがない。
「楽しみにしててよ」
英樹はアイからチェキを受けとると、特典会場の出口へ向かった。




