7 プレゼント その④
健は、ビルとビルの間にある狭い路地に、紗奈を連れて来た。ここなら他の人が来ることもないだろう。
紗奈からもらった傘をビルの壁に立てかけ、健は紗奈と向かい合う。
紗奈はボロボロのポーチを大事そうに両手で持ち、涙で頬を濡らしていた。
ほんの少し前は紗奈を幸せにしていたポーチが、今は紗奈を不幸にしている。
「そのポーチは俺に返せ。俺が大野の代わりに捨ててやるよ」
「嫌だよ。このポーチは私が持ってるから」
「なんでだよ? そんなボロボロのポーチなんか持ってても、なんの役にも立たないだろ?」
また紗奈の瞳から涙があふれだす。
その涙は一滴残らず健の心に落ち、健の心を焼いた。
「ボロボロでも、私にはすごく価値があるの。これは原田が私にプレゼントしてくれたものだから」
ポーチを握る紗奈の手に力がこもり、紗奈の指先が白くなる。汚れたポーチを持っていることで紗奈の両手は塞がっており、汚れた手では涙を拭くこともできないようだった。
紗奈の辛そうな様子を見ていられなくて、健は手を伸ばすと、紗奈の頬を伝う涙を指で拭った。紗奈の温かさだけでなく、悲しみまでも指から伝わってきて、健まで泣きそうになった。
紗奈は健の指を拒もうとせず、ただ感情にまかせて泣いている。健が涙を拭えば拭うほど、紗奈の心はいっぱいになって、涙はあふれてきた。
健は内にこもった熱い吐息をはき出した。
今わかったことがある。
もしポーチが一つしか売っていなかったら、たぶん俺は、アイじゃなくて紗奈にポーチをプレゼントしたはずだ。
健はリュックから、アイへプレゼントするために買っておいたポーチを取り出した。
「このポーチをやるよ」
健が紗奈にポーチを見せると、紗奈は健を叱った。
「それはアイのために買ったポーチでしょ?」
「アイのプレゼントは、また買えばいいだろ」
「そんなことしたら、また原田のお金がなくなっちゃうじゃない」
そんなことを言われると、余計に紗奈にポーチをあげたくなった。
鼻水まで垂らして泣き、健からもらったポーチがボロボロになったことを、紗奈は悲しんでくれている。
そして、ひどく落ち込んでいるのに、健のお金のことを紗奈は気にしてくれていた。
紗奈の健に対する思いの強さや、紗奈の健に対する優しさが伝わってきた。
紗奈が拒むのならば、強引に行かせてもらおう。幸い、今の紗奈は両手が塞がっている。
健は紗奈の背後に回り込んだ。
「ちょっと開けさせてもらうぞ」
紗奈のリュックを勝手に開けるのは抵抗があったが、今だけはしかたない。健は紗奈の許可も得ずに、紗奈のリュックを開けた。ギフト巾着からポーチを取り出し、リュックの中にポーチを押し込む。
そんな健を、紗奈は肩越しに見ていた。
「なにしてるの?」
「ポーチを入れてるんだよ」
「なんで私なんかのために、そこまでしてくれるの?」
健は紗奈のリュックを閉めると、紗奈の正面に戻る。正面に戻るときに、油断している紗奈の手から、ボロボロのポーチは取りあげておいた。
本来の用途とは、だいぶ違うだろうが、健はギフト巾着で紗奈の鼻を拭いた。まさかポーチを包装した店員も、こんな形でギフト巾着が使われるとは、夢にも思っていないだろう。
紗奈だって、こんなもので鼻を拭かれて、嫌な気分になっているかもしれない。だが、鼻水を垂らす紗奈を、健は黙って見ていられなかった。
健は気持ちを整えると、いつにない真剣な口調で紗奈に語りかけた。
「『私なんか』のためじゃない。大野だから、そこまでするんだ」
「私だから?」
聞き返した紗奈に、健は思い浮かんだ言葉をそのまま口に出してみた。
「いつも大野にはチェルナダのことを教えてもらってるし……」
喋りながら健は、これが正しい理由ではないと思った。
「大野にはチェルナダのライブの話をよく聞いてもらってるし……」
これも違う気がする。
そんな理由で、こんなにも胸が熱くなって、はき出す呼吸にさえ熱を感じるようになるとは思えなかった。
目の前にいる紗奈は健だけを見て、一言も健の言葉を聞き漏らすまいと、神経を集中させている。そんな紗奈に、偽りの言葉を聞かせたくはなかった。
「俺は大野が……」
健は自分の心に問いかける。
この感情は、なんなのだろう?
今、健の目の前にいて、不安そうに両手を握り泣いている紗奈を見て、沸き起こるこの感情はなんなのだろう?
紗奈の涙を止めるために、アイのために買ったはずのプレゼントを、紗奈へあげてしまった。
それなのに、なんの後悔も感じない。そして今も、紗奈の涙を止めるために必死で言葉を探している。
俺は大野が好きなのか?
俺はアイが好きなはずじゃなかったのか?
たしかに健はアイに一目ぼれをした。アイのことが好きなのは今も変わりない。
変わったのは紗奈に対する気持ちだ。
アイと比べて、紗奈と過ごしてきた時間はとても長かった。
その長い時間の間に、紗奈の存在は健の中で膨れ上がり、健の気づかない間に、アイよりも大きな存在になっていた。
そしてそれは、アイドルなんていう遠くにある憧れの存在ではなくて、生活の一部と言ってもいいほどに身近な存在になっていた。
空気のように当たり前にあるからこそ、その存在の大切さに気づかない。家族が病気になったり、亡くなったりしたときに、初めてその存在の重さに気づくのに似ていた。
紗奈が泣いている姿を見て胸が痛み、ようやく健は、紗奈の存在の大きさに気づくことができた。
しかし、その事実は健をひどく混乱させた。
大野は俺にとって、なんなんだ?
今まで経験したことのない感情を、健は言葉に表すことができなかった。好きという感情が、これほど多くの感情を呼び起こすことを、このときの健は理解できていなかった。
だから健は、今わかっていることだけを口にした。
「俺は大野が笑ってくれたら、それでいいんだ」
紗奈の笑顔を願う言葉は、逆に紗奈を泣かせた。
健はつくづく自分のバカさ加減に嫌気がさした。こんなことを言えば紗奈が泣くことは、わかっていたはずだ。
健は助けを求めるように、ボロボロのポーチに目を落とす。そしてようやく、紗奈を笑顔にする言葉を思いついた。
「アイのプレゼントなんだけどさ……」
健は紗奈の反応を伺うように、そこで言葉を止めた。
すると紗奈は、小首を傾げて健の言葉の続きを待っている。
「買いに行くときに、また大野も一緒に来てくれないか?」
健は紗奈が目を見開く音を聞いた気がした。
健の言葉が紗奈に染み込むのに、たっぷり数秒かかった。
紗奈は大きく頷き、その拍子に紗奈の涙が宙を舞ったが、それは喜びの涙だった。
相合傘の場面を追加した以外は、ほぼプロット通りだった。
この話を書いていて思ったのが、傘はうっとうしいということ。
健が両手を自由にするために、傘の持ち手を肘にひっかけたり、傘を壁にたてかけたり、色々と面倒くさい。
作中では梅雨という設定なので雨が多くて傘が必要になっているのだが、梅雨明けを一番楽しみにしているのは作者だと思う。
もう一つ面倒くさいのが、紗奈の目が前髪で隠れているという設定。
健視点の話では、健からは紗奈の目が見えないので、〝紗奈は目を見開いた〟などの表現が使えない。
目に関する表現はたくさんあるので、これがわりと大変だ。
まぁ、表現の幅を広げる修行と思って、がんばるしかない。
がんばるぞい!




