7 プレゼント その①
校舎を出て鉛色の空を見上げた健は、傘を持って来ていないことを後悔した。
今朝はスマホで調べものをしていたせいで、天気予報を見ていなかった。家を出たときは晴れていたし、最近は天気も良かったから、今が梅雨だということを、すっかり忘れていた。
休み時間になるたびに健は空を見上げ、見上げるたびに増える雲の量に、健は不安を募らせた。下校時間になると、西の空を除いて、空は灰色の雨雲に覆われていた。それでもどうにか雨だけは降らずに持ちこたえている。
スマホで天気を確認すると、今日の降水確率は50パーセントだった。雨が降っても降らなくても、天気予報は責められない。
「傘忘れたの?」
心配そうに空を見上げる健に、紗奈が話しかけてきた。
紗奈とは推し変のことで喧嘩までしたが、今はすっかり仲直りして、以前と同じように帰り道を共にしている。元通りの関係に戻れるのか健は心配していたが、むしろ喧嘩をして本音をぶつけあったことにより、紗奈とは、より気安く喋れる関係になっていた。
「うん。今日は出かけようと思ってたんだけど、こんなときに限って天気が悪いんだよな」
「どこに行こうと思ってたの?」
「百貨店の化粧品売り場だよ」
健が答えると、紗奈は口をあんぐりと開けた。
「原田、まさかスキンケアにでも目覚めたの?」
健は噴き出した。
「俺みたいな男がスキンケアなんてするかよ」
「じゃあ、なんで化粧品売り場になんか行くの?」
「もうすぐアイの生誕祭だろ?」
生誕祭とは、アイドルの誕生日を祝うイベントのことだ。ライブの途中で、みんなでハッピーバースデートゥーユーの歌を歌ったり、今日が誕生日のアイドルに他のメンバーがケーキをプレゼントしたりして、アイドルの誕生日を祝う。
生誕祭ではアイドルにプレゼントを贈るファンも多かった。健もアイの生誕祭には、アイにプレゼントを贈ろうと決めていた。
「今朝、ネットで調べたら、アイドルがもらって嬉しいものの上位に化粧品があったんだ。だから、アイにプレゼントする化粧品を買いに行こうと思ってさ」
アイドルをしていたら、人一倍、美容にも気をつかうだろう。だから、化粧品は良いプレゼントになると思っていた。
紗奈も同意してくれると思っていたのだが、紗奈は心配そうな声で健に尋ねてきた。
「化粧品って、すごく高いものもあるけど、なにを買うのかは、もう決めてるの?」
「いや、決めてない。俺は化粧品には詳しくないから、店員さんに教えてもらおうと思ってる。高いものって、いくらくらいするんだ?」
「何万円もするものだって、あるんだよ」
たしかに何万円は高い。しかしアイには、なるべく良いものをプレゼントしたかった。
なんと言っても一年に一度しかない特別な日だ。来月になれば夏休みになり、バイトだって、たくさん入れられる。
「二万円で足りるかな?」
「私も一緒に行くよ」
健が不安を口にすると、紗奈は健について来ることを勝手に決めてしまった。
「なんで大野まで来るんだよ?」
「私はアイが使ってる化粧品にも詳しいから、私がプレゼント選びを手伝ってあげるよ」
使わない化粧品をアイにプレゼントしたら、喜んでもらうどころか困らせてしまうことにもなりかねない。だから、紗奈が一緒にアイのプレゼントを選んでくれるのなら、健としても安心してプレゼントを購入することができる。
「それは助かるな。じゃあ、よろしく頼む」
こうして健は、紗奈と一緒に、アイに贈るプレゼントを買いに行くことになった。
健と紗奈が駅を出ると、空からポツポツと雨が降ってきた。
傘を持っていない健は顔をしかめる。
すると紗奈が、傘を持っている手を上げて、健に傘を見せてきた。
「私の傘を一緒に使う?」
「一緒に使うって、それって……」
一つの傘を二人で使う、それはつまり相合傘だ。一人用の傘を、二人で体を寄せ合って使うとなると、肩や腕が接触することだってあるだろう。そうなった場合、今は互いに夏服で半袖だから、肌同士が触れ合うことになる。
紗奈とは友達のような付き合いをしてきたが、紗奈は女性だ。
男の健と肌が触れたら、紗奈は嫌な気分になるのではないか?
紗奈は健が雨に濡れることを心配して、気を使って言ってくれているのだろう。しかし健は、紗奈に無理をして欲しくはなかった。
「いや、いいよ。少しくらい濡れたって、俺は平気だから」
「私が良くないの。夏の雨だからって油断してると風邪ひくよ。ほら、原田のほうが背が高いんだから、傘持ってよ」
紗奈が健の前に傘を差し出してくる。
見たところ紗奈は、いつもと変わりない。相合傘をすることにも抵抗はなさそうだ。
俺が意識しすぎているだけか?
「わかった」
健は素直に紗奈に従い、紗奈から傘を受けとった。
健と紗奈が向かっているのは、少し歩いた先にある百貨店だ。百貨店まで、それほど距離があるわけでもないし、相合傘をするにしても、ほんの数分だろう。
健が傘を開いて、傘を上に向けると、紗奈が傘の下に入ってきた。
健は、紗奈の全身が傘の下に入っていることを確認すると、紗奈と一緒に百貨店に向けて歩きはじめた。
梅雨の湿った匂いとはべつに、紗奈の髪から良い匂いがする。シャンプーの匂いだろうか? 健はその匂いに覚えがあった。アイと同じ匂いだ。
特典会でアイが健に耳打ちをしてきたことがあったが、そのときに嗅いだ匂いと、同じ匂いだった。
紗奈もアイと同じシャンプーを使っているのだろうか?
口に出して聞こうとして、寸前でやめた。紗奈の髪の匂いを嗅いだことが知られたら、紗奈に気持ち悪がられるかもしれない。
紗奈は、健と距離が近いことを嫌がっていないのだろうか?
紗奈の表情が気になった健は、そっと紗奈の横顔を伺ってみる。紗奈の表情は、いつもと変わりなく、みょうに意識してしまっている自分が恥ずかしかった。
そして、紗奈の横顔を間近で見て、今さらながらに気づいたことがある。
紗奈の鼻筋は通っており、口や顎のラインもキレイだった。見える部分のパーツだけを見れば、紗奈は顔立ちが整っている。前髪で隠されている目もキレイだったら、紗奈はかなりの美人だろう。
間近でみる紗奈の肌はキメが細かく、白く透き通っていた。男の健の肌とは明らかに違う。
触れ合う肩や腕からは、紗奈の体温だけでなく、女性の柔らかな感触までも伝わってきた。
匂い、見た目、感触、そのすべてが健の男としての本能を揺さぶった。
理性がどれだけ抗っても、本能はその理性をたやすく上回り、体中の全神経を紗奈に集中しようとする。
健はそんな自分に対して、嫌悪感と危機感を覚えた。
紗奈は健の友達だ。その友達に対して、こんな下品な感情を持つのは、紗奈に対する裏切りだ。
もし、紗奈が健の下心に気づけば、紗奈は健に幻滅するだろう。そうなれば最悪、紗奈を失うことになるかもしれない。
健は、なけなしの理性を振り絞って、紗奈に触れない程度に少しだけ紗奈から体を離した。紗奈が雨に濡れないように、傘を持つ手だけは紗奈の近くに置いておく。
しかし紗奈は、健が距離をとったことに目ざとく気づいたようだ。
紗奈は前かがみになり、健の肩を見た。傘からはみ出ている健の肩の上では、雨粒が跳ねている。
「雨に当たってるよ。もっと、こっちへ来なよ」
「あんまり近いと、体がぶつかって歩きにくいだろ?」
「ぜんぜん」
紗奈は即答した。
とってつけたような理由では、健が雨に濡れることを、紗奈は許してくれそうにない。そこで健は、少しだけ正直に気持ちを打ち明けてみた。
「大野は意識していないのかもしれないけど、俺だって男なんだ。男女の友達同士で、こんなに体を寄せ合うのは良くないんじゃないか? 友達の域を超えてるっていうかさ」
「私は原田を信用してるから、体が触れても平気だし、嫌な気分にはならないよ。原田は、私と近いと嫌なの?」
信用されているのは嬉しかったが、本当に信用して良いものなのかどうかは疑わしかった。
紗奈は「近いと嫌なの?」と健に聞いてきたが、その質問に正直に答えるのならば、「近いと嬉しい」が質問の答えだ。そして、そんなことを正直に言ってしまえば、紗奈に嫌われてしまうだろう。
かといって「近いと嫌だ」なんて嘘をつけば、紗奈から離れられる代わりに、紗奈を傷つけてしまう。
けっきょく健は、紗奈に自分の気持ちを知られたくなくて、曖昧に答えるにとどめた。
「……嫌じゃないけど」
「だったら、いいじゃない」
紗奈は自分の肩で、健の腕を押し返しながら体を寄せてきた。紗奈の感触が洪水のように押し寄せてくる。今の自分の顔を見られたら、紗奈は健の下心に気づいてしまうかもしれない。
うろたえて泳いだ健の目に、コンビニが映った。
そうだ。コンビニで傘を買えば、相合傘をする必要もなくなる。
「俺、コンビニで傘を買って来るよ」
「いや、買わなくていいよ。もう少ししたら雨も止みそうじゃない?」
健は傘から顔を出して、空を仰ぎ見た。たしかに、西の空からだんだんと晴れてきていて、そのうち雨は上がりそうだった。
紗奈は、さらに畳みかけるように続ける。
「私と一緒にいる間は、私の傘を一緒に使おうよ。私と別れるときに、まだ雨が降っていたら、傘を買えばいいんじゃない? ビニール傘なんて、どこにでも売ってるでしょ」
紗奈の言うことは、もっともだ。しかし健としては、一刻も早く紗奈と体を離したかった。そのために、どうしても、もう一つ傘が必要だった。
「相合傘だと、傘からはみ出て濡れてしまうかもしれないだろ? だから、やっぱり傘を買ってくるよ」
健は足を止めて、紗奈に傘を差し出した。
しかし、紗奈は傘を受け取ろうとしない。
「大野?」
健が呼びかけると、紗奈は顔を伏せた。
「原田は、私と相合傘をするのが嫌なの?」
健があまりにも必死に傘を買いに行こうとしたせいで、健が相合傘をしたくないのだと、紗奈は勘違いをしてしまったらしい。
紗奈を悲しませたくない健は、あわてて紗奈の言葉を否定した。
「嫌じゃない。変な誤解をあたえて、わるかった。許してくれ」
嫌なのは相合傘をすることではなくて、紗奈に下心を気づかれることだ。
「だったらなんで、そんなに傘を買いに行こうとするの?」
健は嘆息した。もう正直に言うしかなさそうだ。
「大野は俺を信用してくれてるみたいだけど、俺だって男なんだよ。だから、こんなに近いと色々意識してしまうんだ。そういうの気持ち悪いだろ?」
「原田は私を異性として意識してるってこと?」
「まぁ、そういうことになるな」
健は紗奈に嫌われたと思った。
すると健の予想に反して、紗奈は楽しそうに笑った。
「もし原田が私を襲ってきたら、蹴り上げるから、だいじょうぶだよ」
健はとっさに股を閉じた。
「蹴り上げるって、どこを蹴り上げるんだよ?」
「どこだろうね? 試してみる? とにかく私はだいじょうぶだから、ほら行こうよ」
紗奈は健に明るく笑いかけてきた。健が正直に気持ちを打ち明けたのに、紗奈は嫌がっていないようだった。
健が思うより、紗奈は大人なのかもしれない。だから、男が下心を持っているのは、しかたないと割り切っていて、その程度のことでは、いちいち目くじらも立てないのかもしれない。
安心すると、とたんに気まずさが消えた。
「わかった。今は傘を買うのは止めておくよ」
傘の下で、健は紗奈と体を寄せ合う。
残り少ない百貨店までの道が、もっと長ければいいのに、と健は思った。




