6 うそつき その④
特典会場は賑やかで、ライブの盛り上がりが、そのまま特典会場にも、なだれ込んできていた。
今はアイがチェキに書き込みをしてくれる時間で、アイと喋ることができる時間でもあった。
健はアイに、二人の共通の知人である紗奈のことで、相談をしていた。
「大野が俺に、『勉強を教えてあげる』って言ったんだ。でも俺は、大野に迷惑をかけたくなかったから、『大野の手は煩わせない』って返事をしたんだ。そしたらなぜか、大野が怒ったんだよ。なぁ、聞いてるのか?」
健の目の前にいるアイは、どこか上の空で、健の話も聞いていないようだった。
思い出せば、アイはライブのときから様子がおかしかった。もう極度の緊張はしていないようだったが、なにか別のことに気を取られているようで、パフォーマンスに精彩を欠いていた。
健が呼びかけたことで、ようやくアイの目が健に焦点を結んだ。
「えっ? なに?」
「おい、しっかりしてくれよ。どこか体の具合でも悪いのか?」
「ごめん、ごめん。だいじょうだよ」
そう答えるアイの声には、いつもの覇気がなかった。
アイから少し離れたところにはナナセがいて、ナナセも先ほどまではファンとのチェキの撮影に応じていた。しかし、今はフィルム交換のために、チェキの撮影を一時中断していた。
することのないナナセは、健とアイの会話を聞いていたようで、元気のないアイを助けるために、健とアイの会話に口を挟んできた。
「たぶん、紗奈は原田と一緒に、勉強したかったんじゃないのかな? それを断られたから、紗奈は怒ったんだと思うよ」
「なるほど。そういうことだったのか」
健が納得していると、ナナセがアイに同意を求めた。
「そうだよね、アイ?」
「うん。私もそうだと思う」
それだけ言うと、アイは、また口を閉ざしてしまった。やはり、今日のアイは変だ。健と、まともに会話することも難しいらしい。
ナナセは、そんなアイを見かねたのか、アイに代わって健に話を振ってきた。
「ねぇ、原田。私ともチェキを撮ろうよ」
「嫌だよ。金の無駄遣いだ」
「そう言わずに、一枚だけでもいいからさ。私、髪形を変えようと思ってるんだよね。そのための美容院代が必要なの」
ライブアイドルの主な収入源は、チェキの売り上げによるチェキバックだ。
チェキによる売り上げの、およそ半分が、チェキを撮ったアイドルの収入になる。たとえば、一枚千円のチェキを撮れば、チェキを撮ったアイドルには五百円の収入になる。
しかし健は、ナナセの売り上げに貢献するつもりはなかった。貼りつけたような笑顔で、ナナセの誘いを遠回しに断った。
「ナナセは今の髪形が似合ってるから、美容院に行く必要はないよ」
「ひっどいなぁ」
そんな健とナナセの気を使わないやりとりを、アイは冷めた目で見ていた。
「健とナナセって、仲が良いんだね」
健は、その声がアイの声だと最初は信じられなかった。いつものアイの声に比べて、その声は低く、抑揚がなかったからだ。そして、その声には、人を責めるような響きが含まれていた。
なぜ、ナナセと仲が良いことを、責められなければならないのか? ナナセと仲が良いことの、なにが悪いのか?
言葉を失って驚く健だったが、いち早く立ち直ったナナセが、場を取りなそうと口を開いた。
「そんなに仲良くはないよ。バイト終わりの原田と、ばったり駅で会って、電車が来るまで、ちょっと話していただけだよ。そうだよね、原田?」
ナナセの言っていることは嘘だ。ナナセは健と二人で話をするために、わざわざ健のバイト先のレストランまで訪ねて来た。
平然と嘘をついているナナセを見て、健は感心すると同時に怖くもなった。ナナセだけは敵に回したくない。
「そうだよ。ちょっと話をしただけだって」
アイの気分を逆なでしたくない健は、ナナセと話を合わせた。
すると、今まで口数の少なかったアイが、急に饒舌に喋り出した。アイの瞳には生気が戻っていたが、その生気の元になっている感情は、どす黒く燃えるマイナスの感情だった。
「ナナセ、もしかして私から健を取ろうとしてない? ナナセ、前に言ってたよね? 同じグループ内で、ファンの取り合いは、やめようって」
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったの」
ナナセは強風に傾ぐ柳のように、アイのなすがままに、アイに首を垂れていた。
いつも仲の良いアイとナナセの間に、不穏な空気が漂っている。
アイはナナセのもとに歩み寄ると、ナナセの耳元で、なにかささやいた。
はっとした顔で、ナナセがアイの顔を見る。ナナセはアイに、なにか言おうと口を開きかけたが、そこで邪魔が入った。
ナナセのチェキを撮るチェキスタッフが、フィルム交換を終え、ナナセにチェキの撮影に戻るよう指示を出した。
ナナセはアイの様子を気にかけながらも、しかたなくチェキの撮影に戻る。
アイはこの日、ブーツを履いていた。アイが健の前に戻って来るブーツの足音が、コツコツコツと、不気味に健の耳に響いた。
緩衝材の役割を果たしてくれるナナセは、もういない。健はアイと一対一になった。
まるで蛇の前にいる蛙のような気分だった。
「健、もしかして推し変したの?」
推し変とは、推しを変更するという意味の言葉だ。
アイは健が、アイからナナセに、推しを変更したかどうかを疑っているようだった。
「するわけないだろ。俺を信じてくれよ」
そのとき、チェキスタッフの持つタイマーが鳴った。
もっとアイに話を聞いて欲しかったとも思ったし、ここから逃げられることが嬉しくもあった。
チェキに書き込みをしていなかったアイは、のんびりとチェキに書き込みを始めた。
チェキスタッフも、アイの迫力に飲まれて、事態の成り行きを黙って見ている。
チェキへの書き込みを終えると、アイは息がかかりそうなほど近くまで、健に近づいて来た。それからアイは、つま先立ちをして、健の耳元に唇を近づけると、身も凍るような声で健の耳にささやいた。
「金曜日の夜、ナナセが健と会うために、健のバイト先のレストランに行ってたでしょ? 紗奈が店の外から、二人がレストランで喋っているのを見てたんだよ」
アイは、つま先立ちをやめて、正面から健の顔を見る。彫像のように固まった健に、ニッコリ微笑むと、アイは健の手にチェキを押しつけた。アーティスト写真に使えそうなぐらい、アイはキレイな笑顔を浮かべている。
この天使のような笑顔のアイから、先ほどの冷たい声が出るとは、とても信じられなかった。
「あの、すいません」
チェキスタッフが、帰ってくれと、目で健に言っていた。
健は、チェキスタッフに小さく頭を下げると、逃げるようにして特典会場を後にした。
特典会場を出ると、空はどんよりと曇っており、いつ雨が降ってきても、おかしくない天気だった。梅雨の蒸し暑い空気が、冷房で冷えた健の肌を温める。
チェキに目を落とすと、写真の上の白い部分には、今日の日付が書かれてあった。ただの数字の羅列でしかないはずなのに、その数字に、不吉な、なにかを感じてしまう。
写真の下の白い部分には、「うそつき」と書かれていた。
どうやらアイには、完全に誤解されてしまったようだ。
紗奈は金曜日の夜に、健のバイト先に来ていたのだ。そして、健がナナセと一緒にいるところを、レストランの外から見ていて、そのことをアイに伝えたのだろう。
ナナセは健に、アイのことで、お礼を言いに来ただけだ。
しかしアイは、アイのファンである健に、ナナセが手を出したのではないかと、ナナセを疑っているようだった。
これから自分とアイの関係がどうなるのか、健は不安になってきた。
それにアイとナナセの関係も気にかかる。二人は仲直りできるのだろうか?
健の気持ちは、今日の梅雨空のようにスッキリとしなかった。




