6 うそつき その②
健は、レストランの入り口のドアの開く音に、いちいちビクビクしていた。
今日は金曜日で、健のバイトするレストランに、紗奈が見学に来ると言っていた日だ。見学に来ないように紗奈には言っておいたが、紗奈が約束を守るとは限らない。
レストランの玄関のドアの開く音がして、健は背筋を伸ばした。
大野じゃ、ありませんように。
健は来店した客を出迎えるために、レストランの入り口へ小走りで向かった。
健のレストランでの仕事は、接客と片付け、それにレジだ。
レストランでのバイトは、なかなかに大変だった。
ファミレスなどの大手チェーン店では、タッチパネルを導入している店も最近は増えてきている。しかし、健の働くレストランは個人経営の店で、タッチパネルなんてなかった。
客から注文をとる際に、メニューにある料理名を、あらかじめ覚えていないと、客から矢継ぎ早に料理名を言われた際には、とても注文を覚えていられない。
また、客から「このメニューは、どんな料理ですか?」と聞かれることもあるので、料理名だけでなく、その料理が、どんな食材で、どのように調理されているのかも、覚える必要があった。
それに、慣れない敬語を使うことも大変だった。使い慣れない言葉を使うと、舌がもつれそうになる。
大変なことは多かったが、学校では経験できないことを経験できることは、良い刺激にもなった。なにより自分が成長できている実感があり、バイトは楽しかった。
店主や他の従業員も、ぶっきらぼうなところはあるが良い人たちばかりだ。健は今のレストランで働けることを喜んでいた。
店の入り口へ向かいながら、健はアイに思いを馳せる。
アイも健と同じぐらい若そうだが、アイドルとして立派に働いている。俺もアイに負けないように、一生懸命働こう。
気分を引き締めた健は、店の入り口に着くと、できる限りの笑顔で客を出迎えた。
「いら――」
客の顔を見た瞬間、健の笑顔は驚きの顔へと変わった。
健の前にいる客は、チェルナダのリーダーであるナナセだった。
「やっほー」
ナナセが健に向かって、気安く手を上げる。
健は敬語をかなぐり捨てて、ナナセに疑問をぶつけた。
「なんでナナセが、ここにいるんだよ?」
しかし、ナナセは健の質問には取り合わず、呆れたように首を横に振って見せた。
「この店は接客がなってないね。お客さんが『やっほー』って言ったら、『やっほー』で返すのが常識でしょ?」
店員に「やっほー」なんて言う客に、常識について説かれたくなかった。
ナナセは、健の推しているアイドルグループのリーダーだ。アイドルオタクなら誰しも、憧れのアイドルと話せることは嬉しいことだろう。
しかし、真面目にバイトをしている最中に突然現れて、なおかつ、ふざけた態度をとるナナセに、健はイラついていた。
この時点でナナセに会えた喜びよりも、いら立ちが勝ち始めていた。
「『やっほー』に、『やっほー』で返すのは山だろ。俺は山じゃなくて、人間なんだよ。それより、なにしに来たんだよ?」
「ここはレストランでしょ? ご飯を食べに来る以外に、他にすることはあるの?」
健は、いら立ちのあまり笑ってしまった。
健の笑顔は、見ていて恐ろしくなる類の笑顔だったはずだが、ナナセは、そんな健の笑顔を見て、むしろ喜んでいた。ナナセが健をからかって楽しんでいるのは明白だ。
食事をすることだけが目的なら、この店でなくてもいいはずだ。健がナナセに聞きたいことは、なぜナナセは健に会いに来たのか、その理由だった。
健は、ナナセが来店したことに驚いた。しかしナナセは、健がこの店で働いていることに驚かなかった。つまりナナセは、健がこの店でバイトしていることを知っていたことになる。
健は残りわずかな自制心をフル動員して、辛抱強くナナセに質問を重ねた。
「誰から、俺がここでバイトしていることを聞いたんだ?」
「紗奈から聞いたの。紗奈って、本当に原田のことを話すのが好きなんだよ? 聞きもしないのに、原田が何曜日の何時に、この店で働いているのか、全部ペラペラ喋るんだもん」
紗奈は、チェルナダのメンバーが通うダンススクールに通っており、チェルナダのメンバーとも親しかった。
紗奈が健のことをナナセたちに、楽しそうに話す姿を思い浮かべると心が和んだ。学校で会っていないときでも、紗奈が健のことを考えていてくれたことが嬉しかったからだ。
しかし、そのおかげで、とんだ厄介な客が、この店に来ることになってしまった。こんなに面倒くさい客は初めてだ。まともに相手をしていたら、いつまでたっても接客が進みそうにない。
健は、いちいちナナセにかまうのはやめて、さっさとナナセを席に案内することにした。
「お席へ、ご案内いたします。どうぞ」
「なによ、その暗い声は? 墓場にでも案内する気?」
ナナセは軽口を叩きながらも、健の後ろをついて来る。
健はナナセを空いている席へ案内した。
ナナセが、またなにか話しかけてくる前に、健は急いでナナセのもとを離れた。それから、お会計伝票とお冷を持って、ナナセの席へ急いで戻る。
「ご注文は、なにになさいますか?」
ナナセはテーブルの上にあるメニューをパラパラめくると、健の顔を見上げた。
「オムライスを、ちょうだい。原田がケチャップでハートを描いてくれるんでしょ?」
この一言で、健の最後の自制心は、きれいさっぱり消滅した。
「ここはメイド喫茶じゃねぇんだよ。ごちゃごちゃ言ってると、お前の血をケチャップの代わりにするぞ」
「怖いこと言わないでよ」
口ではそう言っているが、ナナセは怖がるどころか、今日一番の笑顔を見せている。ナナセが健と期待していたのは、こんな軽口の応酬だったようだ。
言いたいことを言うと、健も気持ちがスッキリした。ナナセに気を使うのは、もうやめよう。
健が、お会計伝票に注文を書いていると、ナナセが健の邪魔をするように話しかけてきた。
「あと店員さんの素敵な笑顔も、お願いできるかな? さっきから店員さんの笑顔が足りていないから」
健は軽蔑の目で、ナナセを見降ろした。
「足りていないのは、お客様の常識ではございませんか?」
ナナセは嬉しそうに手を叩いた。喜んでもらえて、なによりだ。
「これは一本とられたね。でも私は、店員さんの素敵な笑顔が、どうしても見たいんだよね」
「お客様、当店のメニューに『笑顔』は、ございません」
突然、ナナセは立ち上がった。それから厨房のほうに向けて、良く通る声を張る。
「店主さん!」
「ちょっと待て」
健は止めたが、もう遅かった。
ナナセの声に気づいた店主が、厨房から出てくる。巨漢の店主は、険しい視線をナナセに落とした。
「どうかしましたか?」
ナナセは店主に、とびっきりの笑顔を向けた。
「この店員さん、接客が、とても素敵ですね」
店主は、じろりと横目で健を見た後、ナナセに視線を戻す。それからナナセに向かって、無骨に頭を下げた。
「ありがとうございます」
口下手な店主は、それだけ言うと、厨房へ引っ込んで行った。
ナナセが席に腰を下ろしたので、健は止めていた息をはき出した。
「ナナセは、なにがしたいんだよ? 俺をクビにでも、したいのか?」
「そんなことはしないよ。だって、原田の稼いだお金が、私たちの収入にもなるんだから。私たちのためにも、しっかり働いてもらわないとね」
健は舌打ちをした。
「働く気が失せるから、やめてくれ」
「でも、あまりにも接客態度が悪かったら、ちょっと我慢できないかもね。だから、店員さんの素敵な笑顔が見たいな」
ナナセはテーブルに頬杖をついて、甘えるような上目遣いで健を見ている。
先ほどはヒヤリとさせられたが、冷静になって考えてみると、ナナセが店主に健のことを悪く言うとは、とても思えなかった。ナナセは冗談でも、一線を越えるようなことはしない。
だが、健がナナセの要望に応えない限りは、この押し問答は続くだろう。ナナセは健が、いつまでも自分に、かまっていられないことは知っている。だから、こうして時間を引き延ばして、健が折れるのを待っているのだ。
健は大きく息をはいた。
背に腹は代えられない。さっさと笑顔でも、なんでもいいからナナセに見せて、終わらせてしまおう。
健は瞼を閉じて深呼吸をした。それから精一杯の笑顔をしてみる。
健の笑顔を見たナナセは、失礼にも噴き出した。
「ぎこちない笑顔だね。アイに見せる笑顔とは大違いだよ」
「ナナセだから、しかたないだろ」
ナナセは、これ見よがしに肩をすくめて見せた。
「それを口に出すのはマナー違反だよ。今日のバイトも九時には終わるの?」
「ナナセが余計なトラブルを起こさなければな」
「じゃあ、九時半に近くの公園で待ち合わせできないかな? ちょっと原田と話したいことがあるんだ」
健は訝しげな目でナナセを見た。
「なんの話だよ?」
「それは待ち合わせ場所に来てからの、お楽しみってことで」
ナナセはそれだけ言うと、それ以上のヒントを健に与えようとはせず、ニヤニヤ笑って健を見ている。
ナナセの瞳を覗き込んでも、目的は笑みに隠されていて、ナナセの真意は読み取れなかった。
今日、健に会いに来たのも、おそらく、その話とやらをするためだろう。大した用もなくナナセが、わざわざ健に会いに来るとは思えなかった。だから健は、ナナセの話を聞いてみることにした。
「まぁ、いいけど。近くの公園って、どこの公園だ?」
健はナナセと待ち合わせの約束をすると、ナナセのオーダーを厨房に届けに行った。




