6 うそつき その①
「原田、バイトしてるの?」
健が紗奈に、バイトをしていることを伝えると、驚いた紗奈は健に向き直った。
その拍子に、紗奈の持つ傘と、健の持つ傘がぶつかった。健は自身の持つ傘を、紗奈から離して、紗奈の傘とぶつからないようにした。
6月も中盤に入り、今は梅雨まっただ中だ。灰色の雲は空を覆い隠し、生ぬるい雨を降らせている。
下校する生徒たちの持つ傘が、雨に咲く紫陽花のように揺れていた。
「チェルナダのライブに行くのにも金がかかるだろ。だから、バイトを始めたんだ」
バイトすると言っても、週に二日、一日に三時間ほど働くだけだ。
健にとっては、週に六時間バイトすることは大した負担ではなかった。
しかし、心配性の紗奈は、健のことが心配でしかたないらしい。
「バイトなんかして勉強はしなくていいの? アイの追っかけをしたせいで、大学受験に落ちちゃうかもしれないよ? もし、原田が大学に落ちたら、私、原田のお母さんに、なんて謝ればいいの?」
最近の健は、学力を心配されてばかりだ。以前、チェルナダのライブに行ったときにも、アイから勉強するように注意された。
アイの追っかけをしたせいで、勉強が疎かになり、健が大学受験を失敗することについて、アイが責任を感じることは、まだ理解できた。
しかし、紗奈まで責任を感じることは理解できなかった。
「大野が責任を感じることじゃないだろ? アイが責任を感じるんだったら、まだわかるけどさ」
紗奈は口を開いて、なにか言おうとしたが、思いとどまったように口を閉じた。
少しの間、考えた後で、紗奈はもう一度口を開いた。
「だって、原田にチェルナダのライブを教えたのは、そもそも私なんだし。私だって責任は感じるよ」
紗奈は責任感の強い性格らしい。
心配してくれるのは、ありがたかったが、そんなに心配させたくはなかった。
だから健は、紗奈の心配を笑い飛ばした。
「勉強には支障が出ない範囲でバイトするから、だいじょうぶだって」
健がそこまで言うと、ようやく紗奈は、健の学力について心配するのをやめた。
そして紗奈の関心は、健の学力から、健のバイトへと移った。
「原田は、どこでバイトしてるの?」
「レストランだよ」
「そのレストランって、他にも働いている人は、いるんだよね?」
「いるに決まってるだろ」
健は、紗奈のおかしな質問に首を傾げた。
いったい紗奈は、なにが聞きたいのだろう?
「女の子も働いていたりするの?」
健は、共に働く従業員たちの、むさ苦しい顔を思い浮かべた。健の働くレストランでは、女性は一人も働いていなかった。
「俺のバイト先のレストランでは、男しか働いていないぞ。店主の奥さんが、店主の浮気を心配するから、男しか雇えないんだってさ。むさ苦しい男ばっかりだから、俺が接客を任されてるんだぞ?」
健は自分の目つきが鋭いことも、物腰が柔らかくないことも自覚している。だから、レストランで働くことになったときに、接客ではなく、厨房での仕事を任されると思っていた。
しかし、健の働くレストランにいたのは、いかめしい顔つきの、いかにも味にうるさそうな料理人ばかりだった。そんなわけで、健が接客を任されることになったのだ。
「そっか。それじゃあ、浮気される心配はないね」
紗奈が楽しそうに笑ったので、健も紗奈と一緒に笑った。
店主の奥さんは、店主の浮気を心配しているが、そんな心配は、店主の容貌を見て考えれば、そもそも不要だと思う。
店主は、健と同じく眼光の鋭い男だった。常に味を探求しているのか、店主の眉間には、いつも皺があり、重い調理器具を、やすやすと使いこなす腕は丸太のように太かった。
「店主は料理人って言うより、見た目はヤクザだぞ。包丁を持ってたら、料理人じゃなくて犯罪者に見えるからな。だから、そもそも浮気の心配なんてないんだよ。それより大野は、なんでそんなことを俺に聞いて来るんだ?」
「私も原田と同じところでバイトしようかなって思っただけだよ」
もし紗奈が、健と同じバイト先で働いていたら、今よりもずっとバイトが楽しかったに違いない。
しかし、いくら紗奈が三つ編み眼鏡で地味だとはいえ、紗奈も女性だ。紗奈が店主と不倫することなんて、天地がひっくり返ってもなさそうだが、店主の奥さんの意向には逆らえない。
「残念だったな。俺のバイト先では女性は働けないんだ」
「原田のほうが残念そうだね。顔に出てるよ?」
紗奈の口元には、意地悪な笑みが浮いていた。
健の気持ちが本当に顔に出てしまっていたのか、それとも紗奈にからかわれただけなのか、健にはよくわからなかった。
「そうだな。大野がいたら、もっとバイトが楽しかったのにな」
健が正直に認めると、紗奈は口をポカーンと開けた。
それから紗奈は、前髪を指でいじりながら、健から顔を背けた。
「まぁ、私がいなくても、一人でバイトがんばるんだよ」
「なんで上から目線なんだよ」
健が鼻で笑うと、紗奈は咳払い一つで、その話を強引に終わらせてしまった。
「それで原田のバイトするレストランって、なんて名前のレストランなの?」
健は紗奈に、バイト先のレストランの店名を教えた。
すると紗奈は、スマホをポケットから取り出して、なにやらスマホを操作し始めた。
「何曜日に働くかは決まっているの?」
「だいたい水曜と金曜だな」
「働くのは何時から何時なの?」
健に質問を続けながら、紗奈はスマホに、なにかを打ち込んでいる。
気になった健は紗奈に、なにをしているのか聞いてみた。
「夜の6時から9時の間の、3時間だけど。さっきから、なにしてるんだよ?」
「メモしてるの。じゃあ、今週の金曜日に、原田がバイトしているところを見学しに行くね」
一緒にバイトをするなら、お互い様だから気にならない。
だが、自分だけがバイトしているところに、紗奈が見学に来るとなると話はべつだ。慣れない接客に四苦八苦している情けない自分の姿を、健は紗奈に見られたくなかった。
「いや、来るなよ。そんなことしている暇があるんだったら、大野のほうこそ勉強しろよな」
紗奈は眼鏡を、指で、くいっと持ち上げた。
「私は、だいじょうぶだよ。私、けっこう成績良いし。もし、原田が勉強でわからないところがあるんだったら、私が原田に勉強を教えてあげてもいいんだよ?」
「安心しろ。大野の手は煩わせない」
紗奈に迷惑をかけたくなくて健はそう言ったのだが、健の気づかいは間違いだったようだ。
なにが気に食わないのか、紗奈は口をへの字に曲げて見せた。
「やっぱり、原田ってバカだよね」
「なんで俺がバカなんだよ? 俺の成績、見たことないだろ?」
紗奈は、いらだったように頭をかきむしった。
「ああ、もう嫌になる! 接客業で人に対する気づかいを、しっかり学んで来てね」
紗奈は健を後ろに残して、早足で歩いて行く。
健には、なぜ紗奈が怒っているのか、わからなかった。
「ちょっと待ってくれよ。なんで怒ってるんだよ?」
置いて行かれないように、健は紗奈の背中をあわてて追いかけた。




