霧の戯れ
三輪車をこぐわたしに導かれながらわたしは家に着く。
「ただいま」
「おかえり」
母とふたりで荷物をわたしの部屋まで運ぶ。部屋には今まで本棚があったところに柵の付いた小さなベッドが置いてある。前回来た時にみんなで選んだのだった。このベッドできっと、わたしたちの赤子はたくさん泣くのだろう、そんなことをそれぞれが思ったのだと思う。これからしばらくまたこの家に住む。この家を再び去る時、わたしはもう母になっている。
妊娠がわかって最初は喜びしかなかった。喜びで涙が出た。初めての体験だった。世界はコインランドリーで回されたように再び鮮やかになった。だけど、時が経つにつれ深々と現実的になっていった。不安と責任が背中に静かに積もってくる。最近では寝付けなかったり、夜中に目が覚めたりするのだった。暗闇の中、妙に透き通った意識で夫の寝息を耳にしながら、夫を起こさないように独りでじっとしていることがある。膨らんだお腹にそっと触れる。赤子も寝ているような気がするのだった。
ふたりを起こさないようにしながら、わたしは眠るためにできるだけ明るい未来を具体的に描こうとする。でも上手くいかない。これからどんな瞬間に幸せを感じるのだろうか。わからない。結果、いつも乳白色の明るい霧の中にいるぼんやりとした自分が想像されるのだった。
霧の奥からはこどもの笑い声がする。わたしの子だ。わたしたちはかくれんぼをしている。もしくは鬼ごっこかもしれない。やっぱりどんなルールも邪な鬼もいない、純粋な戯れといった方がいいのかもしれない。手を伸ばしその声を頼りにわたしは進んでいく。
楽しいんだねえ、いいねえ、ママも楽しいねえ。わたしは見えないこどもに声をかける。こどもの声は近づいたり遠ざかったりする。霧の中は暖かく柔らかくしっとりしている。ふとわたしはこどもを見つけ、つかまえて抱きしめる。こどもの笑い声が一段と高まる。よろこびしか知らないかのような。幸福の叫び。ひとしきり抱きしめると満足してわたしはこどもをそっとおろす。こどもはまた霧の奥へと入っていく。わたしはまた子供を探す。