2 二十二時
二十二時三分、指令室は弛緩した沈黙に包まれた。数分前までの喧々囂々(けんけんごうごう)が嘘のように静まり返り、居る者は皆肩を休めている。無機質で冷たい壁に包まれた指令室では心の休まりようもないが、体だけは休めなければ残り二時間を乗り切れない。
そんなひと時の休憩の中、指令室の入口からひときわ大きな声が響く。
「遅れてすみません!」
指令室の目が一斉に声の方へ向けられる。入ってきた人影は、田子の待ち望んだものだった。
「東止、待ちくたびれたぞ」
田子は言葉では咎めたが、その口調には安堵が滲む。遅参の理由を説明しようとした東止を、田子は手で制した。
「話は後でいい。それより、二十二時の全体指令を東止に投げようと思う」
田子は指令室全体に聞こえるように言い放つ。東止は困まり顔で応じた。
「えぇ……」
異論は東止からだけであった。運輸指令長役を経験すること五回、すでに指令室の信頼は得ていた。
「まだそこまでの腕はありませんよ」
「経験を積んだお前さんなら、少しはやれるかもしれない。やるだけやってみ」
田子は半ば強引に押し切ったが、東止もそれ以上考える猶予はなかった。運行再開時刻が迫っているのだ。
「わかりました。やってみます」
そう言うと、東止は足早に慣れた仕事場――運輸指令長の席に座した。
二十二時七分。二十二時台の初発まで残り二分のことである。
しかし東止の初陣は、なかなかに厳しいものになるのであった。
「07Kと15Kの折り返しは、間に合わないかもしれんな……」
田子が声を漏らしたのは二十二時十五分のこと。運行再開から六分しか経っていない。
瀬田電鉄線内の遅れもあって、二つの列車は三分の遅れで走行している。終点での折り返し時間は三分。最速でも折り返しは二分欲しい。単純な計算。三足す二引く三で、折り返しても二分遅れる。
一分の遅れなら、自社線内で回復できるようにダイヤは組まれている。余裕時分というものが、各駅に十秒から二十秒ほどで設定されているのだ。
だが一分を超えれば、遅延回復は運転士の技量に左右される。そしてそれに頼るのは、指令室の仕事を放棄したようなものなのである。
さらに悪いことに、烏倉駅手前で信号が切り替わらず、07K運用の列車が立ち往生してしまった。幸い信号トラブルはすぐ復旧したものの、当該列車の遅延は五分に拡大してしまった。
通常の指令業務なら、五分程度の遅延で緊迫することは無い。信号やポイントは自動で開通するので、指令員がわざわざ操作しなくても期待通りの動作をする。
ところがこの演習は全て手動であった。一列車が遅れると、他の動作を時間通りこなしつつ、遅れた方にも対応せねばならない。これはかなりの忍耐を要求する仕事であった。
「東止、どうする」
田子は問いかけた。
「このまま行けば、07Kは智美丸子で折り返しても六分遅れになる。烏倉で切るか、丸子まで行って運用を変えるか」
烏倉駅で運用を切れば、遅れなしで折り返しはできる。また終点の智美丸子駅まで運行し、一つ後ろの列車で折り返せば、これもまた遅れはなくなる。
十秒ほど考えた末、東止は
「07Kは烏倉返しにします」
そう宣言した。
――烏倉返し。
それは南若部返しと並ぶ、倉急烏倉線の切り札である。直通先の瀬田電鉄線は、若部駅を出ると終点の瀬田駅まで折り返し駅がない。一方で倉急烏倉線は途中に南若部駅と烏倉駅の二つの折り返し駅がある。これを活用して遅延を吸収させることができるのである。
末端区間の列車は運休になってしまうが、それよりも大都市圏である瀬田方面輸送を優先して遅延回復するという、会社の方針である。
「いいだろう」
田子は控えめに賛同した。だが手放しで喜べる状況ではない。東止が数秒ずつためらうごとに、倉急線はその後も微遅延を重ねていく。
そして遅れはついに全線で五分を超え、瀬田電鉄線内に影響が出るレベルに達してしまった。
二十二時二十二分。
「東止、少し代われ。一度ダイヤを立て直す」
田子は落ち着き払って言った。
「……わかりました」
東止の顔に悔しさと疲労が滲む。しかしこの状況では致し方なかった。二十二時台の開始以来、東止は遅延に翻弄されるままだった。
田子は指令盤へ目を向けたまま、諭すように東止へ語りかける。
「俺たちは瀬田電に比べれば、自由度は高い。選択肢も多い。でも自由ということはそれだけ責任がついて回るんだ。選ばなくても責任を取らなきゃいけないなら、さっさと選んで責任を取った方がいいだろう」
他人はそれを「やっちまったわ精神」と蔑称したが、田子は気にしないどころか好んでその名を使ったという。今回も田子は、そのやっちまったわ精神を遺憾なく発揮する。
彼は交代して一分で、四つの列車に指示を出した。指示待ちで立ち往生していた列車が次々と動き出す。指令盤上に描かれた路線の上を、列車の位置を示す電球が走る。それはさながら流れ星のようである。
一分後、瀬田電鉄指令から連絡が入る。
「瀬田電指令管内も全線で五分遅延だそうです」
「なら無理に遅延回復することも無いか?」
全線で遅れているなら、今すぐに遅延回復せずとも、ダイヤの余裕時分で自然回復させられる。つまり、東止と交代する必要もなかったことになるが――。
「まあ、なっちまったもんしょうがない」
田子は一人呟き、頭を掻いてごまかした。
それに倉急線内の遅延は均等ではない。定時で走っている列車から十分弱の遅延になっている列車まで様々だ。これをひとまず均等にしなければならない。
ダイヤグラムと指令盤を見比べた田子は、ダイヤの隙を見つけた。
「09Kと13Kの運用を切替だ。準備にかかれ」
「指令から09Kの乗務員へ。あなたの車は遅れておりますので、本日に限り普通智美丸子行きとして走行してください!」
「09Kの乗務員応答願います。あなたの車は南若部駅で運転を打ち切りまして、折り返し408C普通瀬田行きとして運行してください」
すぐに指令室から指示が放たれる。
09K運用の列車も13K運用の列車も若部駅に停車している。現在の遅延はそれぞれ十分、五分となっている。このままでは倉急線内で遅延を回復できない。だが、この運用を切り替えれば遅延は回復する。南若部返しと運用変更を併用した、熟練の技である。
しかし田子の読みは外れる。突如起きた信号故障が、田子の完璧な計算を狂わせたのである。さらに悪いことは続く。
「若部から南若部の間で衝突事故が起きました!」
「……なに?」
信号故障からの連鎖で、衝突事故が起きたというのだ。
若部駅から南若部駅の間は単線であり、常に衝突事故の危険と隣り合わせではある。しかし、今、このタイミングでの事故に指令室は騒然となる。
田子は思わず舌打ちした。彼は教官役ではあるが出題者ではない。意図せずランダムに発生するトラブルに、その場で模範解答を示さねばならない。損な役回りであった。
二分の後、指令室に続報が入る。
「現場から連絡、当該は衝突寸前でなんとか止まったそうです」
指令室に数瞬安堵が満ちる。だが田子の表情は険しいままであった。幸い紙一重という所で衝突を免れていたが、これを処理するまで列車を止めなければならず、遅延は拡大する一方である。
傍らでダイヤグラムを睨んでいた東止は、しかめっ面の指令長に提案する。
「どうします? 09Kと13Kの運用、もう一回入れ替えますか?」
「いや、やめておこう。ここで切り替えると後で滅茶苦茶になる」
田子は結局、十分遅れに舞い戻った二列車を、そのまま瀬田電鉄線へ送り返した。結局序盤の遅延は、じわりじわりと拡大する一方であった。
ひと段落した後、田子は疲れた声で呟く。
「いよいよもって、焼きが回ったな」
「いえ、そんなことはありませんよ。こんなにトラブルがあっても、なんとか回しきったじゃないですか」
なだめる東止の顔を見て、田子は苦笑する。
「そう困った顔をするな。それにずるずる遅延したのは、トラブルのせいにはできんよ」
ダイヤ・信号設備・指令室という、運行管理全般を預かる田子にとって、それは矜持とも言えるものだった。無理と分かってはいても、もっと遅延を減らせたのではないか、と考えを巡らしてしまう。
ともかくも、二十二時台の運行はこうして終了した。そしていよいよ最終段階、怒涛の二十三時が始まる――。