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歌う君短編集  作者:
5/7

真夜中に鳴くフクロウ

鷺本と颯の出会いの話。高一の初夏頃。


 ――ゼツボーって、こういう音なんだ。


 そう、思った。






 春海はるみ芹羽せりはに引っ張っていかれた路上で、初めてソレを聴いた時、ガシャン、てまるで世界が割れる音がした。

 古くて安い、チューニングも手入れも滅茶苦茶なアコギの、調子っぱずれなその音が耳障りで、頭が痛くなりそうだった。なんで、春海や芹羽はこんな音わざわざ聴かせるんだよ、って思った。

 その、声を聴くまでは。


 かぶりつきでソイツの正面に座る二人を気にもとめないで、小さな体から、馬鹿みたいな音が零れた。

 聴いたことない、曲。

 コードとまったく合ってない不安定な旋律。

 なのに、聴く者すべてを一瞬で虜にする。

 夜空に突き抜けるような、歌声……!

 

 だけど……!

 ギター……!


 だから、なんだ、この、ギター!


「だーッ!! やめろよッ!! ソレ!! その、ギター!!」


 気づいたら、春海たちを掻き分けてずかずか近づいて、ソイツのアコギのネックをがっちり掴んでいた。ギィン、と弦が不穏な音を響かせた。


「あぁん?」


 掴まれた方は長い前髪から、ぎろりと大きな黒い目を覗かせて俺を睨んだ。

 あ、いや、そうだよな、途中乱入したんだから、そりゃ、睨むわ。

 正直、睨み上げられたことにびびってるが、やっちまったもんはやめられねぇ。

 何より、許せねえんだよ、そのギターが!


「何しやがるんだ、てめぇ。ケンカ売ってんのか?」


 可愛い顔してるくせに、地獄の底から響くみたいなドスのきいた声で、ソイツが低く呟いた。その声まで、耳がもう、聞き逃そうとしないのが、恐ろしい。


 なんだ、この、声。

 やべぇ。


「下手くそなギター弾いてんじゃねえって、言ってんだよ!」

「あぁん?」


 だ、だからさぁ、いちいち威嚇すんの、やめて。


鷺本さぎもとー……」


 あちゃー、というカンジで春海と芹羽が俺の名を呼ぶのが後ろでしたが、積極的に止めようとはしてないみたいだ。うん、春海のヤツ、内心ぜってぇにやにやしてやがるのだろう。止めてよ。

 いや、でも、俺も男だ。ケンカ売っちまったからには、尻尾巻いて逃げるわけにはいかないぜッ!


「貸せよ」

「あぁん?」


 さっきから、「あぁん?」しか言ってませんけど、この人ッ!

 怖いんだよ、その目が!


「ギター!」

「はぁ?」


 俺は掴んだままのネックに力を入れた。

 睨み上げる黒い目に逆に顔を近づけて、ガツンと額に額を当てた。

 目の前で、比喩じゃなく星が散った。


「……ッ! てぇー……ッ! 何しやがる!」


 ソイツが唸ったが、頭突きした俺だって痛い。二人一緒に額を押さえて座り込んだ。

 後ろでとうとう吹き出してゲラゲラ笑う春海の声が聞こえた。うるせえ!

 チビが座り込んだ隙に、緩んだストラップを肩から抜いて、ギターを奪い取る形になる。


「あっ……!」


 意外と簡単に奪い取れてしまって、相手が怒りに任せて掴みかかって来るのをひょいと避けた。素早くストラップをかけてギターを抱え込んで、同時に思い切り弦を弾いた。

 びくり、とソイツが動きを止める。


「お前弾きたいの、こういうんだろッ!?」


 そのまま、一気にさっきの歌声の旋律を弾いてやった。

 ぽかん、と大きな黒い目が俺を見上げていた。



 おおお、キ、モ、チ、が、悪、いッ!

 

 チューニング……! チューニングする時間くれ!


 ――でも、仕方ない。そんな時間、ない!

 とにかく、弾けよ、弾くんだ、俺ッ!

 狂いまくった音でも、できる限り弾けッ!



 不安定。不穏。揺れる、音。

 俺の中にはない、音。

 

 すぐにわかった。

 俺たちみたいに、クラシックのピアノの基本が染み込み過ぎてて、普通ならこうだろ? っていうんじゃなくて、微妙にズレてるから気持ち悪いんだ。でも、不思議と嫌でもないんだ、あの旋律自体は。――そう、壊滅的なコイツのギターさえなければ。

 むしろ、初めて聴く音に、かきたてられる。走り出したくなるような。それを、補正するんじゃなくて、補足する。

 バラして、組み立て直して、でも直しすぎないように。

 不安定さを、残して。


 なんで。

 なんで、こんな滅茶苦茶なのに?


「弾いてやるから歌え!」


 その場でアレンジして、コードを弾いてやれば、ぽかん、とした顔がふいに、にやり、と不敵に笑ったのが見えた。


 ――そうだ、歌え!

 

 ソイツがすぅっと、大きく息を吸った。






 その頃、兄貴たちのバンドでボーカルが辞めてしまって、仕方なくギター片手に俺が歌ったりしてた。別に悪くなかったと思うよ。俺、音感はいい方だし、まあまあイケるんじゃないかって思ってた。あの日、いぶきの歌を聴くまでは。

 


 ――ゼツボーって、こういう音なんだ。



 その時、俺はそう思ったね。

 だってさ、違うんだ。

 俺と、何もかも。

 小さな頃から音楽にどっぷり浸かってた俺が、楽譜も読めなくてギターもまともに弾けないヤツが作り出した歌声に、絶望した。

 それまで当たり前だと思ってた世界が砕ける音がした。


 コイツ、なんで、何にもないところからこんな音を作れるんだ?

 神様なんて真面目に信じたことはなかったけど、この時ばかりは不公平だって思った。

 

 神様、なんで俺にはこの音をくれなかったんだ。

 なんで、こんな、まだ人生の初っ端にさしかかったばかりの俺に、気づかせるんだよ。

 

 才能、って言葉はキライだけど、それでもそれが目の前にちらついた。

 

 ――俺は、もう、歌える気がしない。


 でもさ、絶望すると同時に、どうしようもなく喜びに心が震えたんだ。

 割れた世界から、眩しくてキラキラした新しい世界が見えた。

 もっと、ずっと、広い。広くて、明るい世界が。


 神様、ありがとう。

 こんな音に出会わせてくれて。

 感謝する。俺は、一生感謝するぞ!






「だーかーらー! いやだって言ってんだろッ! 誰かと一緒にやるとかムリだって!」


 だーッと廊下を全速力で逃げる颯をこちらも全速力で追いかける。


「コラァ! お前ら、廊下は走るな!」

「すいませーん!」


 すれ違った先生に怒鳴られるが、今止まるわけにはいかないのです。すみません。

 まかせろ、百メートル十一秒台の俺から逃げられると思うなよ。


「鷺本、運動部ならもっと活躍できるのに」

「才能の無駄遣いだよね」


 うるさい、春海に芹羽。

 途中で見ていた二人を一気に置いていく。


 グイグイ近づいて、制服のシャツの背中を掴む。


「あッ、やめ……!」


 うめく颯に構わず、そのまま廊下の壁にダン、と颯を追い詰めた。

 はあはあ肩で息をしながら、小柄な颯を囲い込む。

 汗だくの颯が心底嫌そうに顔を背けた。


「なあ、やろうぜ……? 颯? なんで、逃げるんだよ……?」

「お前がキモイんだよ!? 壁ドンしてんじゃねぇよ!?」


 そのまま颯の細い顎をグイっと掴む。

 なんで、こんな細い顎であの声出るんだ?


「こないだ一緒にやった時、お前もキモチイイって思ったんだろ……? もう一度やろうぜ……?」

「う……」


 颯が俺の目の前でだらだら冷や汗を流してふるふる顔を振る。

 ははは、まるで子犬だな?

 よしよし、手懐けてやるぜ、これから。


「なあ、もっとキモチよくしてやっから、俺らと一緒にやろうぜ……?」

「や……ッ、やめろっ」


 震えた子犬かと思った颯にギロリと睨まれて、アレ? と思った時には遅かった。前回俺が頭突きしたお返しとばかりに、颯の拳が鳩尾にめり込んでいた。


「ぐふっ!?」

「だから、キモイんだよ、てめぇはよ!」


 その場に沈みこんだ俺に颯は捨て台詞を吐いて去っていった。


「馬鹿だねぇ、鷺本」


 トコトコと追いついてきて、うずくまる俺のそばで、春海と芹羽がしゃがみこんでツンツンしてくる。


「ぐふ。いや……ねえ、助けて?」


 うめく俺に二人は笑った。ひでぇな、鬼か。


「颯が落ちるか、賭けようか、春海?」

「お。芹羽は?」

「ん、じゃあ私は逃げられる方にジュース一本」

「おう。じゃあ俺は落ちる方だな」


 賭けてんじゃねえよ。たすけて。


「ジュースがかかってるからなあ。鷺本、頑張って路上通えよ。アイツ、毎週金曜にあそこで歌ってるから。鷺兄とシゲさんも巻き込めよ」


 春海が笑いながら、そんなことを言った。


「あ、ずるい、春海。そんなの落ちるに決まってるじゃん」


 むくれたように芹羽が言ったが、どうなんだろうな。突撃するか。

 

「頑張れー」


 無責任に手を振って、うずくまった俺をそのままに楽しそうに二人は去っていく。うん、だから、置いてかないで……。


「うー、いてぇ……」

「こら、鷺本、そんなところで寝てるんじゃない。授業始まるぞ」


 ごろり、と廊下に寝転んでたら、先生に怒られた。すみません。痛くて、しばらく動くのムリっす……。






 次の金曜、兄貴とシゲさんを連れて路上ライブに突撃した。


「トモ、言われた通り持ってきたけど」


 シゲさんはキーボード、兄貴はベースを担いでやってきた。俺はもちろん、お気に入りのレス・ポール持参だ。キーボードスタンドやらアンプやら、大荷物を熊みたいなシゲさんが軽々担いでいる。


「本当に、そんなにいい声なのか?」


 兄貴が期待しない、というように訊いてくる。 


「とにかく聴けばわかるから」


 俺は勇んで駅前に突撃した。


 前回よりだいぶ早い時間だ。この前颯がいたスペースに向かうと、ギターケースからアコギを取り出したヤツがいた。ピックを口に咥えたまま、ストラップを肩にかける。アコギを抱えた颯が俺らに気づいてギロリと不穏な目を向けた。

 既に到着していた春海と芹羽が面白そうな顔で俺らを見る。おう、わくわくした顔しちゃって。


「よう」


 なるべく軽快に手を挙げて挨拶してやったのに、むっつりとした顔しやがってコノヤロウ。


「ストーカーかよ、てめぇは。やらねえって言っただろ」


 不機嫌丸出しで、颯が低く呟く。

 だ、だからさあ。いちいち怖いんですけど!

 でも、めげねえぞ。


「べーつーにぃ? 隣で俺らが何弾こうと関係ねえだろ?」

「はあ?」


 俺は兄貴とシゲさんに目配せして、楽器をサクサクセッティングする。


「お前はお前で勝手に歌ってろよー」

「……ジャマすんなよ」

「しませんよー。あ、それとも俺らが隣で弾いてるだけで負けちゃうのかなー、颯くんはー? 繊細だなあ?」

「……あぁ?」


 腹立ち紛れとでもいうように、颯がギターの弦を思い切り弾いた。

 ビョオォン、という間抜けな音が響いた。

 そのまま、一気に歌い出す。


 ――ああ。……この、声。


 兄貴とシゲさんがセッティングしていた手を止めて、思わず、というように颯を振り返った。二人とも、大きく目を見開いて颯を呆然と見つめる。


 ……だろ? だから、言っただろ? すげぇんだって、コイツ。


「これ……、このところ毎日トモが弾いてた曲か?」


 兄貴が俺に囁いた。

 俺はあの日家に帰ってから、颯が歌ってた曲を繰り返し弾いた。

 どんなアレンジがいいのか。いろんなバージョンを試してみた。

 アイツの歌声を生かすには。すげぇ、考えたよ。

 でもさあ、そんなことより、とにかく何度も弾きたかったんだ。

 ……まるで、中毒みたいだ。俺はあの曲に取り憑かれていた。

 なんで、こんなに惹かれるのかわからなかった。

 ただ、楽しかったんだ。


「そう。生歌は全然違うだろ?」

「ああ……」


 聴き入る兄貴はそこで、ふと苦笑した。


「ひでぇ歌詞だな。なんだこりゃ」

「歌詞?」


 シゲさんもクックと笑っている。

 歌詞……、歌詞かあ。声と音が気になりすぎて歌詞の意味なんて考えなかった。

 聴いてても頭に入ってこない。

 どうでもいいよ。……ああ、いや、よくはないんだけど。

 俺には全然邪魔してるようには思えなかった。


「……狂気の片想いだな」


 シゲさんが笑いを堪えられないように漏らす。


「これ、実体験ならかなりヤバいヤツだぜ? なあ、ヒロ?」


 シゲさんが兄貴と目を合わせて肩を竦める。

 兄貴が真面目な顔で頷いた。


「ああ。……でも、言葉の選び方が独特。妙に引っかかるんだよ。音に合わせると不思議と不快感がない。……面白いな、でも」


 兄貴がそこで言葉を切った。

 シゲさんも頷く。


「な? ひでぇよな? あれだけはねえだろ?」


 俺も思わず同意を求めてしまう。次に「せーの」もないのに三人の声が揃った。




「あの、ギター!!!」




「……やるしかないな、これは」

「だなあ。こりゃ、キーボードじゃなくてドラムでやりたいなあ。路上じゃなくて」


 シゲさんが残念そうにぼやいた。


「そう? シゲさんなら、どんなんでも合わせられるだろ?」

「うん、まあ、やってみるか」


 ガシガシと豪快に頭を掻いて、シゲさんがキーボードを軽く弾いた。

 兄貴が颯を眺めながら、ベースのチューニングを細かくする。


「さて。向こうはどう合わせてくるかな?」

「兄貴、思いっきりやれよ? アイツ、絶対負けないから」

「マイクもないのに?」

「必要ねえだろ、あの声量!」

「かもな」


 二人はにやり、と笑った。






 颯が歌い終わる。

 見物客からパラパラと拍手が上がる。


 ――今、だ。


 間髪入れずにシゲさんに合図する。

 頷いたシゲさんは歌うようにキーボードを鳴らす。

 繊細な音。さっきの颯の声を追うように、そのサビを静かにゆっくり奏でる。

 見物客が俺たちを振り返る。

 ……もちろん、颯も。驚いたように、俺たちを見る。

 

 颯の真正面にいた芹羽と春海がわくわくした顔で立ち上がる。


 ――そうだ、見ろよ。これからだぜ?


 兄貴を見ればにやりと笑う。ドロップDの激重い音が心地良い。

 ここ最近、ずっと俺が弾いてたから兄貴もわかってる。どう合わせたらいいか。

 颯の声を聴いて、カッチリ嵌まったはずだ。やべぇ、気持ちいい。

 兄貴が俺を見てクイと顎を引いた。


 やれよ、という合図。


 俺はレス・ポールを抱いた。一気に走らせるリフ。


 

 ――さあ、颯。


 お前のためだけの演奏だぜ?


 黙ってられるのか、お前。


 歌いたく、なるだろ?

 


 座り込んでぽかんと俺らを見上げていた颯の腕を、春海がグイと引っ張り上げる。

 芹羽がその背をドン、とこちらへ押した。


 よろめいて俺らの前に颯が飛び出した。


 見物客たちの期待した顔。



 ――さあ、颯、歌え!



 繰り返し、同じフレーズを誘うように弾く。



 歌え、颯!


 歌え!!



 颯は、思わず、というように大きく息を吸った。






 一声、響くだけで震える。

 何が、なのかはっきりとはわからない。

 体の中で。どっかが。

 兄貴に聴けば、颯の声のどこがすごいか、細かい理論を披露するに違いないけど。俺には解析はできない。たぶん、理屈はあるんだろうけど。

 そんなの今はどうだっていい。

 ただ、楽しいから。

 だって、そうだろ。見ろよ、あの芹羽と春海の顔。集まった見物客の顔。

 俺だって、きっと同じ顔してるはずだ。

 こんなの、楽しくないはずがない。

 一緒にやれば……俺たち、最強だろ?

 やりたい。もっとたくさん、やりたい。

 もっともっと、コイツの、まだ知らないたくさんの曲を弾きたい。何度だって。


 路上だからギターもベースも限界まで音量を抑えてはいる。

 だからといって、小さくもない。アンプから伝わる音は普通の生声を掻き消す。

 でも、颯の声はマイクがなくたって、負けない。

 絶対的な声量。低音でも、響く、恐ろしいくらいの。

 

 もっと。

 もっと、思いっきりやりたい。

 大音量で。たくさんの客の前で。思いっきり。

 シゲさんが全力で叩くドラムで。俺も兄貴も手加減しない音量で。

 そうしたら、コイツはどこまでできるんだろう?

 どんなにか、気持ちいいに違いない。

 どこまでも、行ける気がした。






 颯の歌声と共に最後の一音を弾き終えた俺たちは満足して颯を見た。

「どうだ、一緒にやろうぜ?」と声をかけようとしたんだ。


 ――さて、結果は?


「春海、ジュース一本ね」

「えー。期間決めてなかっただろー? もう少し様子見ようぜ」

「期間決めてなかったから、私の勝ちでしょ? 今回はダメだったじゃん」

「えぇー?」


 がっくり膝をつき、走り去った颯の残像を俺の伸ばした手が虚しく掴もうとしていた。

 そう、結果としては芹羽が春海からジュースをせしめることになった。

 アイツ、終わった直後に声掛ける間もなく走って逃げやがった。なんなんだよ!

 

 近くの自販機で買ったコーラをグビグビ飲みながら、芹羽が「すごく良かったよ」と言ってくれるが、うん、なおざり感半端ないから!


「じゃあさー、今度は期間入れて賭けようぜ」


 悲しそうに財布を覗き込みながら、春海が呟く。


「俺は二週間にジュース一本」

「じゃあ私は一カ月」


 また賭けかよ。これ以上、俺を追い詰めるのはやめてくれ。


「賭けって……、彼が俺たちのバンドに加わるかどうか、だよな? せっちゃんも春海も、期間はいいけどどっちに賭けてんだ?」


 颯がバンドに入るか入らないか。シゲさんが不思議そうに二人に訊けば、二人は当たり前のように声を揃えた。


「バンドに入るに決まってるじゃん?」


 兄貴が軽く吹き出した。


「『決まってる』? 逃げられてるんだけど?」


 春海はこくり、と頷く。


「だって、こんなにいいのに。入らないはずがないよ」


 春海の言葉に芹羽も頷く。


「だって、もっと聴きたいに決まってるよ、こんなの」


 そして、二人はにこりと笑った。


「次も、楽しみだね」


 ……うん。まだ、諦めたりしない。


 来週も来襲してやる。






 それから、金曜日ごとに俺たちは颯が路上で歌うその横に陣取った。

 合わせる度に楽しくなる。颯がどんな歌を歌ったって、意地でも俺たちは合わせた。歌ってる颯が、気持ち良さそうにしてるのもわかった。時々、「これは?」とでもいうように挑戦的に俺たちを見る颯に軽々と合わせて、逆に驚いた顔を何度もさせる。アイツもそのうち、行けば俺たちがいるってことには慣れたらしい。

 でも、頑なに最初からは俺たちの中では歌わない。横にいて、たまたま側にいただけだ、みたいな風を崩さない。そして、終わると俺たちが楽器を置いてけないことをいいことに自分だけアコギを担いで走って逃げてしまう。

 なんなんだよ!

 

 俺たちは歌う颯に合わせては、走って逃げられるということを繰り返した。


 二週間経って春海が芹羽に悔しそうにジュースを奢り、一カ月経って今度は芹羽がぶつぶつ言いながら、ジュースを奢っていた。

 呆れたように芹羽に文句を言われる。


「何やってんの、鷺本。早く説得しなよ」

「いや、説得ってもなー。学校でも追っかけてるんだけどさあ」


 会う度に追いかけて追い詰めて壁ドンしてる。

 俺がそう言えば、芹羽は若干体を引いて、俺を冷たい目で見た。


「……追うから逃げるんじゃない?」

「えぇ? じゃあ、引いてみるか?」

「いや、引いたら興味失うかも?」

「どっちだよ!」

「知らないよ、もう。じゃあ、押し倒せば?」


 面倒そうに芹羽が呟いた。ふむ。


「……そうか」

「いや、待て待て待て、鷺本! 早まるなよ?」


 早速颯を探しに行こうする俺の肩を春海が掴んだ。


「止めてくれるな、春海」

「そうだそうだー! 私はバンドで颯の曲を聴きたいぞぉー!」

「芹羽! 適当に囃すな! 鷺本、冗談通じないからな!? 事件になるぞ」

「男同士なら、ならなくない?」

「そういうの男女差別。なるから、立派に」


 いや、事件て。俺を何だと思ってるんだ春海は。


「そうかー。……うぅん。でもさぁ。そろそろ颯も観念してると思うんだよねぇ。じゃなきゃ、とっくに歌う場所変えてると思うし……」


 考え込むように芹羽が唸る。そうなんだよ。それは俺たちもそう思ってる。


「とにかく、颯とちゃんと話せよ。鷺本、会う度に興奮しすぎて、俺でも逃げるわ、あれじゃ」

「でも、話せってもなー。アイツ、話す隙なく逃げるからよぅ」


 俺も、実は薄々気づいてはいた。でもさあ、逃げられるから追うんだぜ?

 追っかけてると、捕まえた時、つい捕まえたことに舞い上がっちゃってあんまり冷静でいられてないのは認める。すまん。


「あ、うーん、じゃあさあ。昼休み、確実に颯がいる場所教えてやるよ」

「え」

「他のヤツには内緒だぜ?」


 声を潜めて春海がウィンクしてくる。いや、可愛くないからやめて。

 そして、昼休み、俺は案内する二人にくっついてある場所へ向かった。






「……旧校舎?」

「そう」


 入口で俺は三階建ての建物を振り仰いだ。

 二人はひとつだけ開いている昇降口で、なぜか置きっぱなしの上履きに履き替えている。え、二つ目なの? 学校に二つ上履き置いてるの? 俺、普通に新校舎に置いてきちゃったよ。

 春海がどっからか出してきてくれたスリッパに履き替える。


 旧校舎は、特別教室などを特定の授業で使うほかは、放課後いくつかの部活動が使うくらいで、ほとんど使われなくなっている。俺は授業でたまに入るくらいで、数回しか立ち入ったことがなかった。

 生徒のいない教室が並ぶ昼休みの廊下はひっそりとしていた。学校の敷地内でも奥まったところにあるため、昼休みの喧騒は遠かった。

 軽い足音の二人と違って、俺が歩くたびペタペタと間抜けな音がする。


 校舎の端っこにある階段を三階まで上る。


「え、まだのぼんの?」

「黙ってついて来いよ」


 春海が言って、芹羽は口元に指を一本立てて笑う。


「静かに、ね。とっておきなんだから、さ」


 三階の階段脇には古めかしい文字で「生徒会室」と書かれた札がかかった小さな部屋がある。今は新校舎に生徒会室があるから旧生徒会室だ。ドアに嵌まったくすんだ窓からは物置と化した狭い部屋が覗けた。それを横目に更に上へと続く階段を上る。


「屋上?」


 先を上る二人は踊り場に差しかかったところで振り返る。


「そう。ちょっと前に春海が屋上出れるようにしてくれたんだ」

「鍵をちょこっと、ね」


 器物損壊だ。


「だから、黙ってろよ」


 まあ、言わないけどさ。


「……あ」


 踊り場で俺は思わず足を止める。


 ――歌、だ。


 歌が、聞こえる。


「颯、昼休みはだいたいここで歌ってるから」

「とっておきでしょー?」


 階段の行き止まりは、ちょっとした空間になっていた。もっとも、いつ使われたのかわからない文化祭だか体育祭だかの立て看板や、積み上がった机や椅子、それによくわからない怪獣みたいな張りぼてなんかが置かれていて、屋上へのドアにはなかなか辿り着けない。


 春海が抱きつくようにして、色あせた緑色の怪獣もどきを少し動かすと、ようやくドアを発見した。おう、ドアノブ。どうやって壊したか、なんとなく想像できるひしゃげ方。怒られる時はどうか俺を巻き込むなよ。


 建て付けが悪いらしいドアをギギギ、と音を立てて押し開けると、颯の歌声が一気に零れた。


 隙間を作ってくれた春海が「行けよ」というように外を指差した。

 頷いて俺は、眩しい光の下に出た。声の主を口説くために。






 ――天気が、いい。


 眩しくて一瞬目がくらむ。

 くらり、と目眩を感じたような気がして目を閉じて開ければ、青空があった。


 フェンスの方を向いて座った颯が歌っていた。

 だから、すぐには俺に気づかなかった。

 

 ドアのそばで立ち竦んだまま、思わずその歌を聴いてしまう。


 二人がドアをくぐって来て、トン、と俺の背を突いた。


 ドアの前に仁王立ちになった二人がにやにやと笑う。

 おう、出口は死守するってか?


 ならば、突撃あるのみ!


 完全に颯は油断していた。

 ドアが開いた音は聞こえていたかもしれないが、どうせ春海と芹羽だと思ったんだろう。歌い終わると何か話しかけようとしたのか振り返った。そこにいるはずのない俺を見つけてぽかんと、大きな黒い目を見開いた。


「う、裏切ったな……!」


 アコギを放り出して、わたわたと颯が立ち上がろうとする。


「別にどっちの味方でもないし」


 春海がにやにやしながら呟いた。


「逃げるなよ、颯!」


 叫んで俺は駆け出した。


 すると颯も怒鳴り返す。


「嫌だ!」

 

 スリッパがすっぽり脱げて、荒い旧校舎の屋上を、靴下の足の裏が思いきり踏む。痛いし、熱い。ただそれを気にしてる余裕はなかった。

 立ち上がった颯が屋上ドアと反対側のフェンスに突進したんだ。


 え!? いやお前、よじ登ってどうするよ!?

 

「ややや、やめろよ! 飛び降りる気かよ!?」


 ガシャリ、とフェンスに手をかけた颯の背に慌てて追いついて掴んで引きずり下ろす。引っ張り下ろした颯ともんどり打って屋上に転がり、さらに逃げようとする颯を掴んで、その手を捕まえた。屋上に縫い止めるように押し倒す。

 おぅ……、図らずも押し倒す形になってしまった……。


「……っ、飛び降りるとか、馬鹿か!?」

「どけよッ! 何、押し倒してんだ!? 変態!」


 お、お、俺だって、押し倒すなら可愛い女の子がいい!

 毎度毎度汗臭い野郎を壁ドンしたり押し倒したりしたくねえよ!


「おー。ホントに押し倒したー!」

「鷺本ー! それ以上やると、ホント事件だぞー!」


 うるせぇ、外野! 楽しんでるだろ!?


「俺だって、押し倒したくて押し倒してんじゃねえよ! お前が『うん』って言わないからだろうが! 言えよ『一緒にやる』って!」

「い、嫌だッ」

「だから、なんで!? 理由言えよ、理由を!」

「嫌だ!」

「だって、楽しんでんだろ、毎週毎週! 絶対、楽しいだろ!? やろうぜ!? なんで、駄目なんだよ!?」

「なんでって……ッ!」


 顔を背けた颯に腹が立つ。


「好きなんだよ! 好きだ、好きだ、好きだ……!」


 好きなんだよ、俺は、お前の歌が……!


「何度でも言う! 好きなんだよ、お前の歌が! それじゃ、駄目なのか!? 俺たちじゃ、駄目なのか!?」


 わけもわからず、好きだ、を繰り返した。


 なんでだよ。


 なんで、伝わらないんだ?


 なんで、こんなに好きなのに。


「好きなんだ……」


 繰り返す俺の目の前で、颯がくしゃり、と顔を歪めた。

 

「ど……けよッ……!」


 次の瞬間、颯が腹を蹴り上げるようにして俺を押しのけた。

 痛みと共に横に転がされた俺がうめいて目を上げれば、屋上ドアの前に陣取っていた春海が殴り飛ばされ、芹羽がひょいと脇に避けたところだった。

 そのままドアにぶつかるようにして、颯が階下へ駆けていく。


「ち、くしょ……! 逃がすかぁ!」 


 グッと、屋上へ手を突いて無理やり跳ね起き、伸びている春海を乗り越えて、颯を追った。階段を踊り場まで一気に飛び降り、さらにもう一度。三階についたところで、颯の後ろ姿を微かに捉える。

 廊下に飛び出せば、まっすぐの廊下のその先で、ふいに颯の姿が消える。

 どっか入った……!

 野郎、姑息な! 隠れる気か……!


 ヤツが逃げ込んだのはトイレだった。個室に籠もる作戦か!?

 ふーはーはー! 馬鹿が! 個室に逃げ込むとは、袋の鼠も同然!


 三階の男子トイレの個室はひとつだけドアが閉まっていた。それで隠れたつもりか、颯!?


 ダン、とドアを叩こうとして、手を振り上げたとこで俺は中から颯のうめき声を聞いた。


「え、え!? い、颯!? だ、大丈夫!?」

「……ぅー……」

「えぇ!? お、お腹痛い!? お腹痛いの!?」

「……うるせぇ……ほっとけよ……あっち……いけ……」


 蚊の鳴くような弱々しい声と、水を流す音。まじか!

 急にどうしていいかわからなくなって、コンコン、ドアを小さく叩いてしまう。


「く、薬いる? 保健室からもらってくるか?」

「ほっとけよ……!」

「ほっとけるかよ!? 俺のせいか!?」

「そうだよ……!」


 個室に籠もったまま、颯が深く息を吐く声がした。

 ドア越しに、小さな声が響く。


「……だから、ムリだって、言ったんだよ……」

「え、ど? どういう意味? 腹痛と何の関係が……」

「…………」


 長い、沈黙。

 え? し、死んだ? 死んでない、よね?


「……キンチョー……」

「キンチョウ?」


 金色の蝶々?


「……キンチョーすると……」


 あ、緊張か!


「……腹が痛くなるんだ……」

「は?」

「だから、誰かと一緒にやるとか、ムリだって言ってんの」

「へ?」


 言われたことの意味がわからなかった。

 緊張で腹が痛くなるからバンドやるの無理?

 ……文字にしてみても、意味がわからない。


「で、でも、俺らと毎週やってるじゃん。歌ってる間、別に大丈夫だったじゃん?」


 あ、でも、いつも終わったら走って逃げてたか! え!? あれって、腹が痛かったから!?

 トイレに駆け込んでたの!?


「あれは……、だから、たまたま一緒になっただけだと思おうとして……」


 だから、頑なに前じゃなく横で歌ってた!?


「人前で、ひとりで歌ってたじゃん!」

「ひとりなら大丈夫なんだよ……!」


 やめたい時にやめることができるから?

 でも、バンドだとそれが無理だから?

 

 ――颯は、いつでも喧嘩腰でふてぶてしくて、歌ってる時も堂々としているからそんな緊張しいだとは――そして、それを気にしてるなんて思わなかった。


「な、なんだよ、それ……」


 俺は一気に力が抜けた。

 ……そんなこと?

 俺らと音楽性が合わない、とか、俺がしつこくて嫌だ、とかそういう理由じゃなくて?


「それに……」


 まだ、あるの!?

 小さく言いかけた颯の声はそこで途切れた。


「なんだよ? この際、気になること全部言えよ。聞くから」


 またずいぶん黙った後、しぶしぶ、というように颯が口を割った。


「お前ら、ちゃんとしてるだろ」

「ちゃんと?」

「ちゃんと、音楽がわかってるヤツらだろ。……そういうヤツらは、俺の曲はガマンできないだろ」

「がまん? て、何?」

「ちゃんとしたヤツらは、俺みたいな曲は『ちゃんと』させたくなるんだろ?」

「ちゃんと……」


 颯が言いたいことが、なんとなくわかった。

 確かに、直したくなる気持ちはわかる。

 颯の曲も歌詞も、滅茶苦茶だから。

 でも、その不安定さが俺は好きだった。

 それを直しすぎると、別のものになってしまう。収まりはいいかもしれないけど『颯らしさ』がなくなって、つるっとした聴き心地のいいだけの曲になる。気持ち悪さがあっても、それを直してしまって颯が思い切り歌えないのでは意味がない。それは、俺も兄貴もシゲさんもわかっていた。


「……誰かに、そう言われたことがあるのか?」

「……」


 颯は答えなかったけど、きっと『ちゃんとしたヤツ』に『ちゃんとしたまったく別の曲』にされたことがあるんだ。だろ?


 ――ちゃんと、って、何だよ?


 ……見くびるなよ! そんな頭の固いヤツらと俺たちを一緒にするなよ!


「お前……、俺らのアレンジ、嫌だったのか? そんなに、窮屈だったか?」

「……い、……いや、じゃ、ない……」

「だろ!? 楽しかったろ!? お前が楽しくないと意味ないだろ!?」


 ダン、とドアを叩く。


「そうだろ!? 誰かになんか言われたんなら、そんなこと忘れろ! そんな馬鹿なヤツらの言葉なんて聞かなくていい! 全部、忘れろ!」


 悔しい。

 颯の歌を見下したヤツらが。

 コイツの自由を奪おうとしたヤツらが。

 俺たちだったら、もっと自由に歌わせてやれるのに!


「お前は、ただ歌ってればいいんだ。自由に、歌え! 俺が……、俺たちが、もっとお前を自由にしてやるから!」


 俺は、もう一度だけ、小さくドアを叩いた。


「お前が腹痛くなったら、俺らがいくらでもつないでやっから。それくらいのこと、なんともねえよ。好きなだけ個室に籠もれよ。……どんだけでも、待ってるから。薬も水もちゃんと用意してやるし、なんなら腹巻きだって編んでやってもいいぜ?」


 ザーッと水を流す音がして、ギィッとドアが細く開いた。

 半分だけ顔を覗かせた颯が視線を落とす。


「……お前の手編みとか、キモイからいらない……」

 

 なんですって!? 失礼な!


 手を洗ってトイレを出て行く颯の後ろ姿に、俺は声をかけた。


「練習スタジオ、予約してあるから来いよ……!」


 颯は足を止めず、返事も振り返りもせず行ってしまう。その背中に声をかけた。


「土曜日、三時からだから……! もっと思いきり歌えるから、絶対来いよ……!」






 予約したスタジオで、俺と兄貴とシゲさんは、颯を待った。

 

「本当に来るのか、トモ」

「来る。……たぶん」


 兄貴に訊かれて、俺は曖昧に頷いた。

 ……きちんとした約束はしていない。例の如く、俺が一方的に颯に告げた形になっている。アイツは『行く』とは言わなかったけど、前みたいに『行かない』と即答もしなかった。――来る、と思いたい。


 颯の名誉のために、なぜ颯が俺たちのバンドと一緒にはやらないと言い続けたかを、俺は兄貴とシゲさんには話していない。あ、腹痛の方だ。話すなら颯が自分で話したいと思った時にすればいいし、どうせすぐにわかることだ。小学生じゃないんだから、心配することはあるかもしれないが、兄貴やシゲさんがそんなことを馬鹿にしたり気にしたりするとは思えなかった。

 二人とも緊張しすぎるヤツは慣れているはずだ――身近にひとりいるから、な。誰だ……ってのは置いておいて。


 アイツの曲を極端にいじらない、というのも俺じゃなくても兄貴の方がもっとよくわかっている。もし変えるところがあるなら、話し合ってきちんと本人が納得する形にする。当たり前のことだ。そういうのは、俺は兄貴に教わった。


 ――だからたぶん、始めてしまえばそんなこと全部、大丈夫なんだ。


 ただ、颯が自分からちゃんと来てくれさえすれば。


 時間になっても颯は来なかったから、俺たちは中で練習を始めた。

 ……今日は、来なかったか……。

 落胆しながら、それでも颯の曲を弾いた。


「……トモ」


 集中していたら、兄貴が突然曲を止めて、声をかけた。顔を上げればそこに――颯が、いた。


「……思いきり、歌えるって」


 にこりともしないで、颯が低く呟いた。

 兄貴がふっと、笑った。


「ああ。……やろうか。――すぐに、歌える?」


 颯はこくり、と頷いた。






 ――楽しい。

 楽しい二時間だった。

 すぐに予約時間が終わってしまって、俺たちはロビーに出た。


「奢ってやるから、ちょっと付き合えよ」


 シゲさんが颯の頭をガシガシ撫でながら、スタジオの近くにあったコーヒーショップに颯を誘えば、思いのほかおとなしくついてきた。


 颯はトッピング盛り盛りの甘いなんとかフラペチーノ(聞き取れなかった)とか頼んで、テーブルの端っこに座り黙って飲んでいた。


「……楽しかった?」


 兄貴が颯に訊けば、無言でこくり、と頷く。


「これからも、来る?」


 颯は、また小さく頷く。

 

 ……兄貴やシゲさんが穏やかに誘えば、おとなしくついてくるのか。


 ――も、もしかしなくても、悪いのは俺か……!?


『追うから逃げるんじゃない?』という芹羽の言葉が思い出される。

 俺は、ちょっと遠い目になった。


 ……い、いや、でもそれだけじゃない、はず、だ……。

 颯が、自分から来た、というのがたぶん重要なんだ。


 うん、でも、もう全力で追うのはやめよう……。


「バンド……」


 その時、ぽつり、と颯が呟いた。


「ん?」


 兄貴が聞き返す。


「バンド名……、あるんだろ? なんて、いうの」


 兄貴とシゲさんが目を合わせた。

 そして、兄貴がふ、と息を吐く。


「前にやってたバンドの名前はあるけど。――君がボーカルをやるなら、別のをつけるよ。……まったく、新しいのを」


「……新しい、の?」


 颯の問いかけに兄貴はふっと笑った。


「Owl at midnight――っていうのは、どうだろう?」

「なんだ、それ?」


 颯は意味がわからなかったらしい。簡単な英語だぞ? 大丈夫か? よく、ウチの高校受かったな?


「――真夜中のフクロウ」

「……真夜中のフクロウ? なんか意味あんの?」

「さあね」


 シゲさんと兄貴がにやにや笑って俺を見る。

 その視線につられて俺を見た颯が訝しげな目を向ける。

 見るなよ。俺にはちょっと苦い思い出なんだ。

 視線を逸らして黙りこんだ俺を尻目に、兄貴は丁寧な口調で説明し出した。やめて。


「初心者向けのピアノ曲のタイトル。……Andante misterioso、歩くような速さで、神秘的に。そんな注意書きがある。真夜中に森の中で鳴くフクロウを表現した簡単な曲だよ」

「ふぅん?」

「トモが初めての発表会でやらかしちゃった曲だったな」


 あっ、シゲさん!

 言うなよ、それを!

 

「へぇ?」


 颯がにやっと口元を緩めて、途端に面白そうな顔になる。


 ……そう、あれは忘れもしない、幼稚園年長さんの頃。

 一生懸命練習して、完璧な状態で挑んだ初めてのピアノの発表会で、俺は。


 緊張しすぎて――途中で曲が飛んだんだ……。


 曲の途中で、完全に空白になり……、十分間固まった後――強制退場させられたんだよ! 縁起悪すぎるだろッ! なんで、そんな曲の名前をバンド名なんかにできるんだ!?


 颯に負けず劣らずの緊張しいは、他ならぬ俺なんだよ……。


 ――俺は一生からかわれるんだろうか。ひでぇな、兄貴たちは。

 これだから後から生まれた方は割に合わないんだ。

 一生、年の差は埋まらないんだから。


「いいんじゃねぇ? それで」

「やだよ、俺は!」

「じゃあ、多数決。いいと思う人ー」

「はーい!!!」


 うっ……、三対一!


「ハイ、けってー!」


 三人がにやにやしながらパチパチと拍手した。

 がっくりくる俺に兄貴が乱暴に肩を組んできて、正面からシゲさんのゴツい手にガシガシ頭を撫でられる。

 兄貴が耳元で囁いた。


「緊張しいのトモにはちょうどいいだろ?」

「戒めかよ……」

「あとさ、颯っていかにも真夜中のフクロウって感じだろ?」

「そんな知的さ欠片も感じられねえよ、俺には……!」

「うん、まあ、知的、ではないけど。アイツ、なんだか真夜中の森みたいだろ? 目と、声が」


 不穏で、怪しくて。

 真夜中の、真っ暗闇でも、真っ直ぐに進んで行けそうで。

 夜に、どこまでも響く声、で。


「どんな暗闇だって飛んでけそうじゃないか?」


 囁く兄貴の声に、俺は黙りこんだ。

 シゲさんがガハハ、と笑った。


「ピッタリだな!」


 そして、シゲさんと兄貴は颯を振り返って、サムズアップ。

 いや、全然カッコ良くないからッ!

 しかし、颯もつられてサムズアップした。

 駄目だ、コイツら!


「じゃあ、バンド名はそういうことで。これから、よろしくな、颯」


 兄貴とシゲさんに背中を叩かれて、痛そうにしながら颯はこくり、と頷いた。


 ――こうして、俺たちのバンドが始動した。



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