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歌う君短編集  作者:
4/7

芹羽のその後




 春海がこれ見よがしに目の前で紙片をひらひらさせてくるから、何気なく目をやる。チラッと見えた結果に、目を疑った。


「にじゅう、ばん………?」


 慌てて奪い取ったテスト結果に、私は愕然として声を上げた。


「ま、俺が本気出せばこんなもんよー」


 にやり、とする春海に私は釈然としない。

 学年末試験の結果が、春海は二十位だった。前回は七十位くらいだったから、五十位も上がっている。そんなに急に成績なんて上がるものなんだろうか。


 春海は、年明けてしばらくして髪を切った。気のせいか、こざっぱりとしている。二月にあったマラソン大会では並み居る運動部員に混じって十三位だった。帰宅部の春海が。たらたら走る姿しか見たことない春海が。それどころか、最近毎朝早く起きて近所をランニングしてるっぽい。マラソン大会、もう終わってるのに。あの春海が。ギリギリまで寝てたいって寝坊気味だった春海が。体育のバスケでも野球でも、なんだか楽しそうに全力で参加してる。隙さえあれば端っこで休もうとしていたあの春海が。それどころか、宿題ばかりか予習復習までしている。あの春海が!


「頭でも打ったのかしら……」


 この間おばさんは、真剣に心配していた。

 ――本当に。何があった、春海。


「あ、それから俺、予備校行くことにしたから」

「予備校?」

「芹羽がバイトしてるビルの横に新しくできただろ。ていうか、もうあそこ、行ってる。受験、本格的に力入れることにしたから。二十位なんかで驚いてるなよ。志望校のランク上げることにしたし、これからもっと成績も上げてく」

「ランク……」

「もう今からだと推薦は厳しいから、一般入試に絞って受けるつもり。そうすると、ウチの学校で上位でも厳しいんだよ」


 ウチの高校は生徒の大半が進学する一応の進学校だが、かといって東大早慶に何十人も受かる、というほどの進学校ではない。ほどほどなのだ。ほどほどの進学校で、ほどほどの成績の私たち――なんだと思ってたんだけど。

 何、この暑苦しさ……。


「芹羽、それ何」

「ああ、うん。今日、日直だから先生からノート集めて持ってくの頼まれてて」


 もうひとりの日直は日誌を書いてくれた。部活があるというので、日誌とノートの提出は請け負ったのだ。


「職員室?」

「うん」


 春海が無言で、私の手からノートの束を取り上げた。当たり前のように持ってくれる。……別のクラスなのになあ。


「芹羽、今日、バイトだろ? 間に合う?」

「うん、大丈夫」


 日誌とノートを提出すると、流れで春海と一緒に帰ることになった。

 家の最寄り駅に着いて、バイト先のビルの前で別れる。


「……そうだ、芹羽」


 歩き出していた私は、戻ってきた春海に腕を掴まれた。


「……何?」


 春海の顔が近づく。ふわり、と軽いシトラスの香りがした。

 ……距離が、近い。


「バイト終わったら、連絡しろよ。俺、自習室で勉強してっから」

「え、いいよ、大丈夫だよ。春海は勉強してなよ」


 きゅっと、腕に少しだけ力が入った。

 真面目な顔になる。


「……いいから。芹羽のこと心配する方が集中できないから。これから毎日、講義ない日も予備校来てるから、バイトある日は連絡入れろ」

「講義終わる方が遅くなる日もあるんじゃない? あと、シゲさんとことか鷺本のとことか行かなくていいの」

「勉強してえから、学校帰りは寄らないことにした。休みの日とか昼間、時間あれば行くよ。講義は……、どうせお前バイト後も店見てたりすんだろ。ちょっとくらい待ってろよ。迎え行くから」

「心配しすぎじゃ……」

「ない。芹羽の阿呆。自転車なんてな、自分が怪我すること考えないヤツにとってはどうってことないんだよ。タイヤの進行方向になんか転がせば簡単に転ぶし、不意打ちで横から蹴れば倒れるし。世の中にはヤバいヤツってのはいくらでもいるんだ」

「アホウって……」

「じゃあ、まぬけ? 無自覚? 鈍感? 馬鹿?」

「うるさい」


 それにしたって急に過保護じゃないか。どうした。

 

「お前がさ、他に頼れる人がいるってんなら、いくらでもそっちに頼ればいいけど。いないだろ、今、そういう人」


 春海は私が颯に振られたことを知っている。そんな簡単に、他に彼氏なんかできないことも。親が迎えになんてこないことも。

 ――ひとりでも、大丈夫なんだけど、な。


「俺、もうさ、そういうのわかってて放っておくのはやめたんだ。なんかあってから後悔するの嫌だから。悦子さんにも頼まれてるし」

「お母さん? 何か言われた?」

「年末に。『ウチの子をよろしく』って」

「私のいないところで勝手によろしくされないで」


 真剣な目が、私をじっと見た。

 いつも茶化すみたいな春海がそんな目で見るから、少し落ち着かない。


「……少しは頼れよ」

「……わかった」

「うん」


 春海の手がやっと離れて、それが軽く振られる。

 今度こそ本当に別れて、私は従業員用の入口に向かった。


 本当にどうしたんだろう、春海。年明けくらいから変わった気がする。

 お母さんになんか言われたってだけじゃないんじゃないかな。


 なんかそれに……、最近無闇に距離が近い。

 物理的距離も、精神的距離も。

 どちらかというと春海は一歩引いて見てることが多かったのに。

 幼馴染みの距離って、こんなんだったっけ?


 強い力で掴まれたわけじゃないし、コートの上からだったのに、春海の手の感触がいつまでも残っている気がした。





「そりゃあさあ。欲求不満だよ」


 珍しく鷺本が本屋に来ている。参考書を選びに来たようだ。シュリンクかけをしている脇であれこれ話しかけてくるので、面倒になって一緒に参考書を選んでやる。ウチの書店はシュリンカーがバックヤードではなくフロアにあるので、シュリンク作業中に気軽に話しかけられてしまう。


 適当な参考書を数冊選び、レジまで行くついでに通った音楽系の本の棚からこっそり抜き取ったロバート・プラントの本も間に差し挟んでおいた。私について歩きながら、それに気づかない鷺本が近場の本をパラパラ捲っては首を傾げている。

 何の気はなしに、最近春海がちょっと変だ、と言ったら鷺本からはそんな言葉が返ってきたのだ。


「欲求不満?」

「そう。お前と付き合えないせいで無駄に有り余ってる欲求不満をだな、勉強とかスポーツに振り分けたらああなったんだよ、たぶん」

「はあ?」


 鷺本はわけのわからない自説を披露する。

 何、それ。


 レジ横で手伝いながら、素早く袋に本を入れた。鷺本は案の定、余計な本が入っていることには気づかない。素直にお金を払っている。お買い上げ、ありがとうございます。

 

 シュリンクかけに戻ると、鷺本はまだ話しかけてくる。


「……お客様、まだお探しの本がございますか?」


 邪魔しないでくれるかな? という意味でにっこり営業スマイルを見せると、鷺本は肩を竦める。でも、まだ話し足りないらしい。


「本はもういいよ。それより芹羽さあ、もう少し春海のこと、ちゃんと見てた方がいいぜ」

「何、それ?」

「……芹羽、前に『私たちはモブだから』って言ってたことあるけど」


 鷺本なんかにそんなこと言ったっけ?

 何言っちゃってんだ、私。


「油断してると、春海、あっと言う間にモブじゃなくなるからな」

「は?」

「……あいつのこと、モブとか言ってるお前の気がしれねえ、って言ってんの」

「……どういう、意味」

「中学ん時から春海がわざと手ぇ抜いてんの、気づいてなかったのかよ」

「……え」


 呆れたように鷺本が私を見た。


「まあ、勉強はずっとサボってたから受験に間に合うのかどうかは知らねえけどよ。……勉強だけじゃなくて、あいつの人懐っこさは異常なんだよ。懐に入りこむのがうまいんだよ。じゃなきゃ、颯があんなに心許すわけねえだろ。あの、難しいヤツが」

「鷺本だって、友達じゃん」

「……俺はさあ、友達っちゃ友達だけど、バンド仲間だからさあ。音楽挟まないで友達でいられるか自信はねえよ。お前らがちょっとおかしいんだよ。いや、颯のことは今はどうでもよくて。――とにかくさあ、芹羽、油断しすぎんなよ。あっという間に横から誰かにかっ攫われるぞ。『私たち』とか簡単にくくってるんじゃねえぞ、ってこと。いいな、俺、忠告したからな」

「……忠告って」


 何しに来たんだ、鷺本。

 じゃあな、と言って鷺本が軽く買った本を持った手を挙げた。


「ZEPの本ありがとな。読んでないヤツだったからちょうど良かった。読んでみるよ」


 あ、気づいてたのか、と鷺本を見送った。





 

 バイトが終わって合流した春海と自転車を引きながら並んで帰る。


「お前、そりゃ、店員としてやっちゃ駄目だろ」


 鷺本が買う本にロバート・プラントをこっそり混ぜてやったことを話せば、春海が吹き出した。そりゃ、駄目だよね。鷺本以外にはやらないよ。


「でも面白くない本は薦めないよ。結局バレてたし」

「そっか。鷺本が読んだら俺も借りよう」


 鼻歌歌うみたいに春海が楽しそうに言う。


「読んでる暇あるの?」

「芹羽の薦める本は別」


 少しだけ、くすぐったい。けど、素直に嬉しがるのも悔しくてそれ以上何も言えない。しばらく黙って二人で歩いた。

 春海といると、沈黙も気が重くない。無理してなんかしゃべる必要もない。

 てくてく歩きながら、ふと春海が私を見る。


「……芹羽はさ、進路決まってるの」

「家から通える短大で、推薦もらえそうなとこ適当に」

「そうか」

「春海は? ランク上げるって言ってたけど。もう決めてるの?」

「うーん、いくつかは。工学部で考えてる。国立と、私立いくつか」

「ああ……、どっちかと言えば理系だもんね」

「まあ、強いて言えば、ってカンジだけどな。今さらだけど理系クラスにしといて助かったよ。なんとなくそうしてただけなんだけど」


 ウチの高校は二年生から進路別にクラス分けがある。私と颯は私立文系だが、春海は国立・理系クラスだ。昔から春海は理科とか数学なんかは私より得意だった。私は数字よりも本の方がわかりやすかった。


「滑り止めじゃなくて、ぜんぶ、行ってみたいとこちゃんと選んでみる。今年ダメなら、来年かな。……間に合うといいんだけど」


 浪人も覚悟しているらしいが、軽く笑って前を見た。その視線が強く遠くを見る。


「でも、最初から逃げるつもりはねえよ。やれるだけやってみる」


 最近走ってるからか、春海は体力がついて背筋が伸びた。真っ直ぐ前を見る目がしっかりとしていた。

 春海は隣を歩いているのに……なんだか、少しだけ置いていかれるみたいな気持ちになった。

 鷺本の『もう少し、春海のこと、ちゃんと見てた方がいいぜ』という言葉が思い出された。……見てるだけなら、きっとこのまま置いていかれるのかもしれない、とふと思った。

 春海が、どんどん前を見て、進んで行ってしまう。

 置いてかれるのが悔しいのか、寂しいのか、自分でもよくわからなかった。

 私には「待って」と春海の手を掴むことも押し留めることもできない。私はただの幼馴染みだ。そういうのは、ずっと横に並んで歩くつもりのある子がすることだ。春海を好きでもない私がそれを望むのはきっとおかしいし、ずるいことだ。

 




 春海は、言っていた通りに、私がバイトがある日はほとんど毎回迎えに来てくれた。バイトが終わると連絡をする。春海が先に店内で待ってることもあるし、私が春海が終わるのを待つこともあった。

 その日のバイトは、夜七時までの予定だった。

 予定ピッタリに上がれることもあれば、仕事の都合によっては時間通りに終わらないこともある。急に休みを取ったバイトがいて、少しバタバタして八時近くになっていた。

 仕事が終わって、バックヤードでスマホを見ると、春海から連絡が入っていた。


『店にいるよ』

 

 大抵音楽雑誌なんかを立ち読みしているから、着替えてタイムカードを押し、一度退店してから改めて店に入る。雑誌コーナーへ向かうと案の定、春海が立ち読みをしているのが目に入った。春海は私に気づかない。近づいてから声をかけようとしたら、春海が誰かに声をかけられるのが見えた。なんとなくどきり、として慌てて書棚に隠れた。


 可愛い女の人だった。二十代前半くらいの、小柄で栗色のボブの女の人。

 親しげに声をかけて、春海が笑顔になる。柔らかい笑顔だった。

 ……春海が、あんな風に笑うのを初めて見たような気がした。

 知らない男の子みたいだった。


 その人のほっそりとした指が春海の腕に触れた。楽しそうに、何か話していた。

 ……そういえば、春海、前にも綺麗な年上の人と一緒にいたことがあった。あの人は夏兄ちゃんの元カノだったけど。今いる人は私の知らない人だ。


 私は踵を返す。なんで、そうしたかはわからない。


『ごめん、先帰ってる』


 歩きながら春海にラインを入れると、店を出て、止めてあった自転車を引き出して乗った。

 鷺本が『芹羽、油断しすぎんなよ。あっという間に横から誰かにかっ攫われるぞ』と言ったことを思い出すけど、そもそも春海は私のモノじゃない。かっ攫われるとかされないとか、私に言う資格はない。春海を占領している今の状況はおかしいのだ。春海が好きな人がいるなら、その人を優先すべきだし、そういう人ができそうなら邪魔はしたくない。


 自転車が、夜の風を切る。

 三月の終わり、春休みの夜風は、少しだけ寒さが緩んで、もう凍えはしない。

 でも、まだ暖かいというほどでもなくて、頭が冷える。


 春海は、優しい。

 ――知ってる。昔から、可哀想な子を放っておけないヤツだ。

 春海の家は居心地が良くて、暖かかった。

 三兄弟の中でも、春海は特に要領が良くて気が回る。私と一緒にいるのも、ウチの家庭環境がドライだったからだと思う。お父さんもお母さんも仕事が忙しくて、そのせいで私の中にどうしても埋められない隙間があるのを、春海はたぶん放っておけなかったんだろう。それが、高校まで続いていただけだ。

 あそこの家は暖かくて、居心地が良くて、だから少し申し訳ない。

 春海がそばにいることに慣れすぎていて、それを当たり前に思いすぎていて、それがなくなる、ということに実感がわかない。でも、手放すことに慣れていかなければならないのだと、頭では理解している。


 ――諦めることは、慣れてる。

 

 お父さんやお母さんのことも、颯のことも。手に入らないモノを求めても無駄だ。変わらず好きだけど、私が望んでいいものじゃない。私だけが欲しいと思っても、どうにもならないものはあるのだ。

 だから――。


 その先は、考えられなかった。

 暗い道を自転車で走りながら、ふと前方の暗がりが気になって、思考が止まった。


 ――あれ、人、だよね?


 少し先の道の端に、誰かがいる。

 前方の左端。

 歩行者なら気にはならなかったと思う。

 でも、違う。歩行者じゃなくて。

 ……立ってる。何もしないで。

 スマホを見てるわけじゃなくて。

 電柱の影になったところに、暗い色の服を着た男の人が、ただ、立ってる。


 嫌な感じがした。


 住宅街の細い道だ。中央線はない道路で、車がやっとすれ違えるか、というくらいの幅。歩道はなくて、等間隔に電柱と街灯が、ぽつりぽつりと並んでいる。

 大通りに比べて、車通りは少なくて、人も歩いていなかった。


 ――私、ひとり、だ。


 誰か待ってるとか……、そういう風に思いたかった。

 

 そう、大丈夫。自転車でサッと通り過ぎてしまえば。


『芹羽の阿呆』


 春海の声が、急に思い出された。

 ――春海の、馬鹿。あんなこと春海が言うから怖くなっちゃったじゃないか。

 春海のせいだ。

 怖いのは、春海のせい。考えすぎだ。


 心なしか離れて走ろうと思って、あ、でも自転車って左側通行だから左端走んないといけないんだっけ? とか思ったのがまずかった。


「――あっ」


 急に、人影が自転車の進行方向に飛び出してきた。

 慌てて、ブレーキをかけて右にハンドルを切った拍子に右のブレーキを強く掴み過ぎてしまった。前輪がロックしてつんのめるように自転車がバランスを崩し、ふらついた重心をとっさに制御できなかった。


 かろうじて飛び出してきた人は避けたけど、そのまま勢い余って自転車ごと転ぶ。


 ――こういう時って、本当にスローモーションみたいに感じるんだなあ……。


『まぬけ? 無自覚? 鈍感? 馬鹿?』


 転びながら、春海のたたみかけるような罵倒が頭の中に響く。

 うん……、私、馬鹿、なのかもしれない……。


 ガシャーン、と威勢良く倒れる音がして、地面に膝とか擦ったり打ちつけたりして、具体的にどこだかわかんないけど、とにかく痛い。自転車で転ぶのなんか、小学生以来だ。前籠に入れてた鞄は飛び出していた。

 

「い……ッ、たぁっ……!」


 自転車が体の上にあって、痛い。地面に打ったとこが痛い。

 なんだ、コレ。なんでこんなことになってんの?

 起きようとしてもがいたら、横からぬっと誰かの腕が伸びてきた。

 自転車が、ガシャリ、と起こされる。

 一瞬、「大丈夫?」って、声をかけられるんだと、思った。「飛び出しちゃって、ごめんね。君、大丈夫?」って。……そう、期待した。


 男の人に持たれた自転車はそのまま、無造作に反対側に倒された。

 まるで邪魔なものを避けたみたいに。


 ……みたいに、じゃ、ない。


 そのまま、無言で腕を掴んでくる。


「……え」


 生臭くて、荒い息遣いが近くで、した。

 ……顔、がよく、見えない。


「……や」


 やめて、って声を上げたかったけど、のどに絡まったみたいに声が出なかった。


 ――春海。


 黒い影が、のしかかってくるのが、気持ち、悪い。


 ――春海。たすけて。


「……は……」


 出ない。声。

 こわい。

 たすけて。


 助けて、春海!


「……芹羽!」


 ドン、と。何かが黒い影にぶつかるのがわかった。


「芹羽! 大丈夫か!?」


 ふわり、と安心できる、香りがした。

 私の前に、よく知ってるダッフルコートの背中が見えた。


「お前、何やってんだよッ!?」


 至近距離で、春海の本気の怒気がこもった怒鳴り声が響いた。


「ご、ごめ……」


 びくり、と震えたが、その怒りは、私に向かってじゃなかった。

 春海が、細かく震えている。

 私を背にかばうように座った春海がうずくまった闇に向かって、怒鳴っていたのだ。

 春海が振り返って、私を抱き起こしてくれる。


「芹羽、立てる? 逃げれそう?」

「む、む、り」


 絡んだ、掠れた声しか出ない。

 

 ――春海。来て、くれた。


 街灯の明かりに、春海の顔が青白く見えた。

 春海の、胸元のダッフルコートの懐を掴もうとして、手が震えてうまく動かないことに気づいた。全身に震えが走る。

 何、これ。どうしよう。無理。


「は、はる……」

「うん」


 春海も震えていた。

 ザリ、という相手の靴が砂利を踏むような音がした。

 うずくまっていた黒い影が起き上がっていた。

 はっとして、春海が私を背にかばって、それに対峙する。


「芹羽、スマホ」

「か、かばん、の、中」

「俺のポケット。ケーサツ呼べ」

「う、うん……」

「あっ……! 逃げ……!」


 春海が思わず声を上げた。黒い影はそのまま逃げ出していた。


「待っ……!」


 春海が追いかけようと立ち上がったが、私は怖くなってそのダッフルのフードを掴む。


「うぐっ……!? せ、芹羽……っ! 苦し……!」

 

 すてん、と春海が転んだが、離さなかった。


「やだ……!」


 追いかけるとか、やめてよ! 怖いから!

 

「や、でも、アレ……!」

「ひとりにしないで!」


 その時、私たちの脇を風が通った。

 

「え」

「美咲さん……!?」


 あっという間に男の背に追いつくと、その背中の服を掴んで引き止め、驚いて振り返った男の懐に入りこんで、一瞬小さな姿が消えた。


 次の瞬間、ふわり、と男が宙を舞っていた。


 ドッと、音がして、男を抑えこんでいる美人がそこにいた。


「痴漢の現行犯、確保ォッ!」


 いとも簡単に男を抑えこんだまま、がばりと顔を上げ、呆然とする私たちに向かって、女の人が怒鳴った。


「春海くん、110番!」

「は、はい!」

「芹羽ちゃん、大丈夫!? 怪我は!? なんかされてない!?」

「えと、だ、大丈夫です、たぶん……」

「間に合った!? 私、間に合った!? ちゃんと間に合った!?」

「美咲さん、ちょっと黙って! 今、電話してるから! え、じゅ、住所? え、ええと、ここ、どこ?」

「春海くん、電柱! 番地書いてあるから、それ言って! あと、早く応援呼んでって頼んで! 電話早く済ませて一緒に抑えて!」

「は、はい!」


 バタバタしてるうちに警察の人がやってきて、男を連れて行った。

 男を投げ飛ばした小柄な美人が、さっき春海と店にいた女の人だって思い出して、なんで私の名前知ってるんだろう、とぼんやりと思った。


 そこで、とうとう緊張の糸が切れて、目の前がブラックアウトした。





 気づいたら、病院だった。


「芹羽……!」


 目覚めると、枕元にお父さんとお母さんがいた。

 二人にぎゅうっと、手を握られていた。

 ――仕事。二人とも、仕事どうしたんだろう。

 お母さんが目に涙を溜めている。


「芹羽……、芹羽ごめんね、怖い思いさせて……」

「お母さんのせいじゃ……」


 お母さんの顔を見たら、急に涙が出てきた。

 お父さんの大きな手が何度も頭を撫でた。無言で何度も。


「お母さん……、お父さん……」

「芹羽、もう、怖い思いさせないからね。お母さん、芹羽のそばにいるから」

「そばに……? 仕事、は」

「芹羽は気にしなくていいから」

「……いやだ」

「芹羽?」


 涙が零れた。

 自分がどうして泣いているか、わからなかった。

 ただ、それはいやだ、と思った。


「……いや。お母さん、やだ」


 両手を伸ばして、覗き込むようにしていたお母さんに抱きつく。


「仕事、やめるの? やめて。いやだ、やめてよ」

「せ、芹羽?」

「ちがう。やめないで。いやだよ、諦めたり、しないで」


 なんにも。私のために何かを諦めたりしたら、いやだ。


「お母さんが好きでやってる仕事、私のために諦めたりしないで」

「芹羽……」

「私のために、今、諦めたりしたらいやだ」

「芹羽……、芹羽より大事なことなんてないよ」

「お母さんが、楽しくなきゃやだ……。仕事してるお母さんが好きなの……やめちゃやだ……」


 なんで泣いてるんだろう。

 どうして、こんなにも強情に言い張ってるんだろう。


 ――寂しかった。ずっと。


 春海の家で一緒に過ごしてても、寂しさは紛れるけど、埋められない穴はあった。なんで、お父さんもお母さんもそばにいてくれないんだろう、って。

 でも、それでも、私のためにお母さんが犠牲になるのはちがう、って今なら思う。やりたいことを諦めたりしないでほしい。

 私のことを一番に思ってくれてるのはわかるから。


「芹羽。もっとわがままになっていいのに。ごめん……、こんな時くらいそんないい子でいないでいいから」

「いい子なんかじゃない。私は、私のために何かを諦めてほしくないだけなの。お母さん、諦めないで」


 じゃないと。

 私も、諦めなくていい、って、思えなくなるから。

 

 ――これは、わがままだ。


「……春海」

「え? 春くんがどうしたの」

「春海に会いたい」


 お父さんが慌てて病室の外の春海を呼んだ。


「芹羽? 目、覚めた?」


 入ってきた春海が枕元に寄ってくる。

 手を伸ばすと、春海が手を握ってくれた。

 ぐしゃぐしゃに泣いている私の顔に、近くにあったミニタオルを押し当ててくれる。


「春海……春海。来て、くれて、ありがとう」

「……うん」

「ごめん……春海の言う通りだった……」

「もう、忘れろよ。無事だったんだから、それでいいよ」

「うん……」


 いろんなことが、ぐちゃぐちゃで、感情がコントロールできない。

 ただ、春海がそばにいると安心した。


 お父さんも、お母さんも好き。

 春海のことも、家族みたいで。家族よりずっと近くて。

 いてくれると、安心する。


「芹羽……? 寝ちゃった、かな……?」


 優しい声が、遠くに聞こえた。握った手がずっと温かかった。






 あの大の男を軽々投げ飛ばした小柄な美人は、美咲さんという名前だった。夏兄ちゃんの婚約者だった。ふわふわとしたハムスターみたいな可愛い人なのに。私のことは夏兄ちゃんから聞いていて知っていたらしい。夏兄ちゃんが結婚することは聞いていたけど、そういえば会ったことがなかったのだった。

 美咲さんは家族でもないのに、翌日から警察の人に話を訊かれたり、いろいろしないといけない手続きなんかにも、お父さんやお母さんと共に同行してくれた。

 

「夏生さんの妹みたいな子だって聞いてたから。会ってみたかったのー。私にとっても妹みたいなものでしょう? 警察の人、怖いでしょ? こっち、被害者なのにね。なんであんなに手続きとかあるかなー。私も関係者だから、絶対一緒に行くからね! なるべく芹羽ちゃんが大変じゃないように、私も頑張るからね!」


 ……とても意気込んでくれていた。

 幸い春休みだったし、警察の人も私に気を遣ってくれて、なるべく私に負担がないように考慮してくれたようだ。簡単な聞き取りが済むと、なるべく警察に足を運ばなくてすむように取り計らってくれている。いろいろなことは私の周りの大人が代わりにやってくれた。


 怪我はたいしたことなかったけれど、一週間くらいバイトは休ませてもらって様子を見た。その間はお母さんも休みを取ってくれて、珍しくゆっくりと過ごしてくれた。入れ替わり立ち替わり、春海の家族や美咲さんも家に来てくれる。いまだかつてないくらい、賑やかだった。

 バイトにも復帰して、春休みが終わる頃、春海が思い出したように訊いた。


「なんで、あの日先に帰ったの」

「その……、美咲さんと春海が仲良さそうに話してたから、邪魔しちゃ悪いかなって……」

「美咲さん、むしろ会う気満々であの日来てたのにな。声かけてくれれば良かったのに」

「そうだね」


 春海が仲良くしてる年上美人はたいてい夏兄ちゃん関連だと学習した。


「今度から、そうする。というか、まずラインする。話しかけてまずい時は、教えてよ」


 春海が軽く笑った。


「好きな人ができたら一番に芹羽に言う。だから、安心しろよ」

「うん」

「……まあ、だから、もう少しの間は俺に頼れば」

「うん。――あ、でも、美咲さんに柔道習うことにしたから大丈夫」

「……は?」


 美咲さんは柔道の黒帯、有段者だった。空手もやっていたそうで格闘技には造詣が深い。美咲さんに柔道の基礎を教えてもらっている。


「あと、キックボクシング一緒に習いに行くことにした」

「キ、キックボクシング……?」

「美咲さん、最近習い始めたんだって。そこのジムに誘われて」

「……あの人、あれ以上強くなってどうすんだ……?」

「基本的に体鍛えるの趣味らしいよ」

「俺より確実に強ぇよな。俺、結局震えちゃって、何にも役に立たなかったし」

「……そんなことないよ。あの時、春海、来てくれて良かった」


 でも、春海に頼るばかりじゃなくて、自分でちゃんと身を守れるようになりたい。誰かに頼るばかりじゃなくて、ちゃんと自分で立てるようになりたい。支えてもらったり、助けてもらったりするばかりじゃなくて、私がまず、私ひとりでも大丈夫なようになりたい。

 

 置いていかれることを怖がるだけじゃなくて。

 手に入らないものをただ、望んだり諦めたりするんじゃなくて。

 諦めることに慣れるんじゃなくて。


「……まだ、全然、強くはなれないけど」

「まあ、そりゃそうだろ。助けを求めることは重要だろ。強くなったからって大丈夫、って思うことも逆に危ないからさ。用心することに重点置けよ」

「うん。美咲さんがいろいろ防犯グッズも教えてくれた」


 問答無用で、怖いことってある。

 こちらの想像の範疇外の。対処しようのないこと。

 助けてもらわないと、全然追いつかないことばかり。

 そういうのは、どうしても誰かに助けてもらわないとならない。

 でも、頼りきりってのは、やっぱりいやだ。

 ちょっとずつでも、ちゃんと、自分でも頑張らないと。

 置いていかれることをただぼんやりと見ているだけでいたくない。

 助けられることをただ待っているだけじゃなくて。それを僻むんじゃなくて。

 私は、私でまず立てるようになりたい。


「春海も一緒にやる? キックボクシング」

「あ、うーん……、考えとく」


 どちらかというとインドア派の春海は歯切れが悪い。

 予備校も忙しいだろうしな。


「ま、今でも時間ないもんね」

「うん、いや、そんなにガチじゃないなら、気分転換にはいいかも。美咲さんに訊いてみるよ」

「お試し体験行ってみたけど、結構楽しかったよ?」

「ふーん」


 興味あるのかないのかわからない相槌を打ったあと、春海はふっと笑った。


「……何?」

「ああ、いや。芹羽のそういうとこ、いいなと思って」

「そういうとこ?」

「誰かに頼りすぎないで、自分でなんとかしようとするとこ」

「……それは、褒めてるの?」

「褒めてる。そういうとこ、好きだよ」

「……は」


 急にそんなことを春海が言うから、固まった。


「助けにならない俺が、ざんねんだけどなー」


 軽く言って、肩を竦めた春海が悪戯っぽく、こちらを見る。


「芹羽の、そういうとこ、俺は好きだよ」

「う、うん、あ、ありがとう?」


 春海が吹き出した。


「な、何、笑ってんの」

「だって、芹羽。真っ赤だから。……だからさあ、あんまりそう過剰に反応するなよー。ただ褒めてるだけなんだからさあ」

「……うるさい」


 春海がいつまでも笑っているので、脇腹を殴っておいた。

 春海と一緒に歩く駅からの道の、路上に植えられた桜が満開だった。

 綺麗。

 ――綺麗だ、とちゃんと感じられるようになっている自分に少しだけ安心した。


 

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