歩道橋
私のネット小説第2作目。
今回は短編です。
それでは、お楽しみください。
目の前は真っ暗闇だった。電灯はちらほらあるのみで、町の中心部がいやに眩しく感じる。そんな場所を懐中電灯もなしに歩くのは初めは少し危険だと思っていた。しかしもう目が慣れてしまった今となってはどうでもよくなっていた。
――いた。
その存在に気がつくと、自身は急に行動を取った。だがそれでも、間に合わなかった。
***
「――大丈夫?」
ふと気がつけば、右側から声をかけられていた。
どこか独特な臭気の漂う屋内、壁や床が白色を基調としている部屋。その中に両手を広げても余裕なベッドが六つある。頭側を壁に接するようにして三つずつ整然と並べられている。
私は右側、薄暗がりな方を見ると、声の主である男性の顔がよく窺えた。男性は見た目若く、多少日焼けをしていた。
「どうも」
「……こんにちは」
挨拶された。そのままでもなんなので、とりあえず返しておく。すると男性は微笑んでくれた。
私は彼のことを知らない。
それもそうで、私がここに来て――というよりも、私が目覚めてからあまり時間が経っていないうちに出会った隣人さんなのだ。なので男性がどこの誰で、何をしているかなんてことは、知る由もない。
男性は上体だけを起こしていた。手元の雑誌を閉じつつ脇に置き、こちらに顔を向けてきていた。どうやら、話を継続する気らしい。
「さっきの看護師さん、少し声を荒らげていたようだけど、何かあったの?」
看護師……。そのような存在が今以前に登場していたのだろうか。ふと頭をかしげていると、それを察したのか、男性は先程の補足をしてくれる。
「ああ、看護師ってさっきあなたのところに来ていた人のこと」
「えっ……?」
覚えていない。少し宙を眺めてみる。すると真っ白な部屋の中に揺れる白い影が思い浮かぶ。
「もしかすると、いたかも……でもよく覚えてない……」
そう呟くと、男性は「もしかして」と相槌を打ってきた。
「記憶が……ないんですか?」
いえ、そんなはずは――。そう返そうとしたが、咄嗟には出ていかなかった。さっきも起きている感覚はあったが、その看護師でさえ出てこない。恐らくぼんやりとでもしていたのだろうが、記憶にあまりないことは確かだ。
それに加えて、それ以前の出来事がぱっと出てこない。普段どこで食事をしていたのかさえもだ。
確かに、これはおかしい。
「えっと、その……たぶん」
自信のない返しをする。さっきまで吐き出しそうになっていた勢いなど、とうに消えてしまっていた。
「そうですか」
だがそれでも、男性は優しくうなずくだけだった。そしてベッドに背中を預けるようにして寝転ぶと、ふっと口元が弛んだ。
「まあ俺だって、たまに物忘れが酷い時がありますし」
「それはなにか違う気が……」
そこで場の雰囲気が少しだけ柔らかくなった。なんだか体がぽかぽかとしてきた気がする。
「すみません、俺は藤田竜也って言います。しばらくの間、よろしくお願いします、篠崎さん」
「えっ……?」
「あなたの名前ですよ。さっきの看護師さんがそう呼んでいたので」
「あー、なるほど……。篠崎、ですか」
思わず知ることのできた自分の名前、と思われる単語。どうせ思い出せないので、しばらくそれで行くことにした。
しかしなんだろう。このすっきりとしない感覚は。なにかを見逃しているような……。そんな、もどかしい気持ちだった。
その時の私が気付けるはずもなく、ただ天井を見上げるしかなかった。
窓の向こうに広がる青々とした空に一筋の飛行機雲が現れる。木々の枝先は大幅に揺れ動き、大気の流れが感じ取れる。しかし一方で、室内の空気はその窓ガラスと引き戸でもって滞っている。
思わず私は自身の上に掛かっていた毛布を足元に寄せる。
「冷房、強くしますか?」
すると、壁際のスイッチを意識しながら藤田が訊ねてきた。だが、私はそれを制した。
「いえ、大丈夫です。それよりも窓を――うっ……!?」
上体を起こそうとした時、体の中をわずかに電流が走った。
「大丈夫ですか!?」
「え、ええ……、ちょっと、痛みが……」
「じゃあ動かないでくださいっ。俺が開けますから」
私が腰を押さえて唸っていると、藤田は室内靴をパタパタとさせて窓枠へと向かう。
「とりあえず、ここだけ網戸にしときます」
「あ、ありがとうございます……」
少し情けなく思った。ただ起き上がろうとしただけなのに、体が言うことを聞かない。どうしてこんな状態になってしまったのか。それとも元々なのか。やはり、分からない。
心地よい風が網戸を通り抜ける。それを感じた藤田は移動して部屋の入り口を全開にした。
「これでよく通る」
言った通りに今度は風が室内を行き交い、先程までの滞りが解消されていく。
「……涼しい」
その微かに湿度を帯びた流体が妙に自身と合い、自ずと瞼を閉じてしまう。
「それはよかったです」
「――っ」
気付けば、藤田が自分のベッドに腰掛けてこちらを見下ろしていた。
「……ふ、藤田さんは、優しいんですね」
咄嗟にかくついた言葉が出た。どういう訳か、額に冷たい感覚が流れる。
だが藤田の顔は対称的に温かい印象を与えた。
「ええ、そんなことないですよ」
はは、と軽く笑って照れ隠しするその姿は自然そのものだった。
「(はぁ、私って元々こんな感じなの……? だとしたら、友達なんて少なかったんだろうなぁ……)」
少し自分自身に対して嫌悪感を抱く。一体何を考えているのか、と。
そのせいで、折角の心地よい風が台無しに思えた。
「……ごめんなさい。ちょっと眠くなってきたので、少し休みます……」
「ん? ああ、じゃあそっとしておきますか――よっと」
藤田は再び床に靴底を付けると、ぱったぱったとゆったりめな音とともにどこかへと行ってしまった。しかしどこに行ったかまでは、既に瞼を閉じていたので分からなかった。
眠くなってきたとは言ったものの、実際には眠れなかった。ずっとこの姿勢だからか、飽きがきている。急に動かしても痛いが、しばらく同じ格好でも疲れる。一体どうしたものか。
……ぱったぱったぱった。
あの音が次第に大きくなって近付いてくる。音が室内に入ってくると、案の定お決まりの位置で跳ねたとともに急に止む。
「……よっこいせっと……」
その声に似つかわしくない言葉が軽く吐き出される。私は思わず体を揺らしてしまう。
「早く老けますよ」
「――うわっ!? まだ起きてたんですか……?」
藤田は意外にも、その肩を一瞬だけ跳ねさせた。そこまでびっくりするものなのか。そもそもさっきからさほど時間は経っていないだろうに……。
そんな藤田に対して「ごめんなさい」と軽く謝罪してから、気だるく呟いた。
「いえ、なんか寝付けなくて……」
ほんのりと黒ずんでいる天井をぼうっと眺めながら、はぁと一つ溜め息をつく。藤田も同じように上を見つめていた。
しばらく無言の間が生まれ、生暖かい風が忙しなく目の前を往来していた。
「……少し、昔話をしましょうか」
だが、そんな空気を変えたのは、藤田だった。
一瞬、何を言っているのか分からなかった。それでも藤田の方を窺うと、それが無意味な発言でも、また不真面目でもないことが伝わってきた。
「どうして急に?」
一応訊ねてみる。藤田ははにかみながらもちゃんと答える素振りを見せる。
「いや、退屈だったらなんか話そうかなって思ったんです。ほら、この部屋ってテレビもないでしょう?」
言われてみれば、確かに。ベッド脇に台はあるものの、カードで視聴するタイプのはおろか、テレビ自体がどこにも見当たらない。なんとも娯楽に欠けた病院だ。
「まあ……。でも、いいんですか?」
話せることでもあるのか。支障はないのか。そう問うたつもりだった。
すると藤田は多少間を置いたあと、息を整えて実に朗らかに告げてきた。
「大丈夫ですよ。それに……少しは興味の持てる内容かもしれません」
「それってどういう意味ですか」
「まあ、一人の男の、恋の話、なんですけど」
「あー」
なるほど。それで一応女子である私がその手の話に関心があるものだと思ったのか。
「あっ、もしかしてあまり……?」
「い、いえ、別に嫌い、というわけではないと思います」
「それはよかった……。でもまあ、ただの独り言だと思ってもらっても構いません。篠崎さんが眠くなってくれれば、それで……」
「なんか、すみません」
「いえいえ、俺の方こそ、いきなり……」
二人で小さく微笑みあう。室内の空気が多少ざわめきだし、吹き込んでくる風は一瞬だけ静まり返った。
俺には恋人がいる。
その語り出しから始まる世界は、今からさほど遠くない過去の物語。
俺はサイクリングが趣味で、学生ともなると町の周りをぐるっと一周することが休日の楽しみになっていた。
そしていつも通り郊外を走っていると、とある歩道橋の上に佇む一人の人物が目に留まった。セミロングの黒髪がそよ風の中に舞っていた。街路樹の多い道路に跨がるその歩道橋はどこか力強く神秘的に感じられたこともあって、彼女はより魅力的に見えた。
そして初めは、多少の恐怖もあった。なにせ歩行者はおろか車でさえあまり通らない場所だったため、そこにただぽつんといる彼女を不審に思っても無理はなかった。
そんな感覚を抱きつつ同様に過ごしていたとある土曜日、いつもの場所に彼女はいなかった。
だが俺は少しだけ足を止めるだけで、すぐに自転車を漕ぎ出した。
するとその歩道橋から少し離れた道に、彼女は倒れていた。それは遠目からでも危険な状態であるということが分かった。俺は慌てて駆け寄った。
意識はあったが、身を丸めて低く唸っていた。しかし不謹慎にも、その右目下の泣き黒子を艶かしく思ってしまった。俺はすぐさま病院に電話を掛けると、五分も経たずに救急車が現場に到着した。
「それで、彼女は助かったの?」
篠崎は話の腰を折るとは思いつつ、藤田にその先を急かした。
問われた藤田は急に入られ焦るものの、一つ気になることがあった。
「結局、寝てないですね」
「え? あ……確かに。集中してました」
くすくすと笑いがその場に起こる。
「――結局、彼女は助かりました。ちょっとした貧血で倒れただけだと彼女は言っていました」
「それはよかった……」
息を整えてから、藤田は過去語りを再開する。
当時はただの貧血ということで、女性は点滴を受けるだけで済んだ。入り口まで同伴し、そこで別れることになった。俺は駐輪場に向いつつ振り替えると、女性の足取りがまだ軽くないことに気が付いた。
そのまま帰ってもよかった。だがそこで、いつものツーリングルートが頭を過った。中心地と郊外とを隔てる河川、左右に広がる田園、心地よく自身に当たる風、そして、緑に囲まれた歩道橋。
ようやく最近出会うことのできた一輪の華が枯れてしまうのではないか。
そう思うと、サドルに腰を下ろすことはしなかった。
俺は言葉に詰まりつつも、勇気を振り絞って声を掛けた。女性は最初は驚きを見せたが、俺だと分かるや否やその警戒を解いた。そのお陰か、俺自身の妙な緊張も解れてしまった。
家の近くまで送ります――とは流石に言えなかったが、帰る方向が同じだということで途中まで同伴することにした。しかしその本心は、今思うと初めからばれていたのかもしれない。
どうやら女性はこの近くに住んでいるということが分かった。空気が綺麗で澄んでいるということで、女性の両親がこの地域を選んだという。とても優しい親御さんに違いないと思った。
代わりに俺の方からも情報を与えた。町中のこと、自転車が趣味なこと、と。
女性とは十分も経たないうちに別れることとなった。決して長いとは言えなかったが、互いに、相手の気持ちに触れるためには十分だった。
顔色も比較的よくなった。そう判断した俺は、手で軽く挨拶をしてから自転車に跨がった。
翌日も休日だったので俺はいつも通り愛車を転がした。しかし昨日のこともあり、そこに女性の姿はなかった。一応周辺の道路にも目を配ったが、倒れている人影もなく安堵した。
とりあえずその場は日課をこなした。
そこまでの内容をざっと話終えると、藤田は台に置かれたお茶のペットボトルに手を伸ばした。
それに釣られて私も一息ついた。
しかし、眠くなるどころか意外と意識はしっかりとしていた。やはりその手の話が好きなのだろうか。それとも、自分に記憶がない分、そのような過去の話に興味が沸くのだろうか。いずれにせよ、その先が気になり出していた。
「それで、その後は……」
「――んん? んあー」
私に尋ねられた藤田はきりのいいところで口を離して口内に残るお茶を嚥下した。
「でもまた次の休日には会うことができまして、連絡先を交換したりよく話をするようになりましたよ。それで、気が付けば付き合っている状態でした」
「おおー、それはよかったですね」
「はい、本当に……」
藤田は目を細めた。その顔は慈愛に満ちていて、本当に幸福だったことが窺える。なんだかこちらまで気持ちが浮わついてしまう。
藤田は再度ペットボトルに口をつけ、その底に溜まった濁りの濃いお茶を飲み干し、起き上がる姿勢を見せた。が――
「さて、と……、ちょっと買い出――」
「じゃあ、今でもその方が藤田さんの彼女さんなんですね。羨ましいです」
私が声を弾ませてそう言うと、藤田の動きが止まった。
「……その先も、聞きたいですか」
それを、あまり気にも気にとめなかった私は微笑んで返答した。
「はい、是非とも」
すると、藤田は少し考える素振りを見せた。しかし一方で、手元の空のペットボトルは不規則に揺れていた。
「じゃあ、少し休憩してからにしましょう。長くなると大変でしょうから」
ようやくその腰を上げて伸びをする藤田。私がトイレに行こうとすると、「立てますか」と声を掛けてきた。
しかし私だってちゃんと自立しなければならない。ゆっくりと動けばなんとかなるかもしれない。とりあえずやってみることにしよう。
「いえ、大丈夫です」
「……そうですか。分かりました」
寂しそうにして藤田は病室を後にした。少し悪いことをしたかなと思いつつ、私は全身を意識しながら力を込める。
「――っ」
不意討ちの先程に比べればまだ痛まなかったが、それでも背面にじんじんとした感覚が訪れる。だが痛みが分かるということは生きている証拠なのだと前向きに捉え、やっとのことで床の上に両足で降り立った。それだけで、ほんのりと発汗してしまう。
そこで吹き抜ける風のことを思い出す。体を慣れさせるためにも一度、網戸に近付いた。
涼しい……。先程感じた心地よさと変わらないことに安堵した。
ふぅと一息つくと、踵を返して廊下へとゆるりと歩み出た。その廊下には私以外見当たらず、照明が眩しく照り返す床がよく見えるだけだった。
早く続きが知りたいという衝動に駆られたが、如何せん体はそうは動けないのでゆっくりとトイレに向かった。壁を伝いながら、ゆっくりと、着実に。
「……はぁ……、はぁ…………」
それでも軽く息切れをしてしまう。元々体力がなかったためなのかは分からないが、現状大分苦労させられていることは確かだ。まったく、以前の私は何をしていたのか。いや、それとも何もしていなかったのかも……。
次第に気分が優れなくなりながらも、意識はむしろ反対の状態に傾いていった。
すると目の前に目的の場所が現れた。突如、では勿論なく、あれこれと思っているうちに辿り着いただけだ。
入ると柑橘系の芳香剤の香りが鼻孔をくすぐった。個室は三つあったがどれも空いていたので一番手前を選んだ。わざわざ奥まで行く必要はない。
そつなく用を足して個室を出て流しの前に立つ。流石に花の摘み方までは忘れていなかったのでよかった。
さーっと手を洗いペーパータオルで拭うと、ふと視線が正面を向いた。
そこにはどこか疲弊した自分の顔があった。頭髪の毛先は多少乱れ、肌に潤いが不足している。
近付けて見ればなお一層そのぐったり具合が見てとれた。このような表情で藤田の前にいたかと思うと頭がぼうっと熱くなった。
これでは駄目だ。
センサー式の蛇口に手をかざして出した水で顔を流した。刹那、きゅっとした感覚に陥るがすぐに慣れて二、三度繰り返した。まるでその汚れを落とすように。
……よしっ!
さっぱりしたとばかりにペーパータオルで水滴を拭いつつ、再度自分の顔を窺う。少なくとも、潤いと気分は取り戻せたと思う。
だが鏡の中の自分と目が合った直後、その特徴に気が付いた。その左目の下には一つの泣き黒子が存在していた。それに釣られて私は自身の右手を忍ばせた。隆起は感じられないが、鏡の中の自分は確かにそれを触っていた。
「(あれ? これって……)」
私は既視感を覚えた。しかしその原因は藤田の昔話だとすぐに結論が出る。
藤田は自分の彼女の身体的特徴について、これと同様なことを発言している。
『その右目下の泣き黒子』
形や大きさまでは言及していなかったが、もしかすればそうなのではないか。
トクンッ、トクンッ。
そう考えると、心拍数が次第に上昇していった。意識や気分が明瞭な分、余計にその苦しさが心身共に鮮明に伝わっていく。
何かが頭に引っ掛かる。血栓といった物理的なものではなく、感情の蟠りから生じた何かが思考を刺激している。妙に苦しい……。
ゆらゆら揺れる視界の中、私は右手で前頭葉を押さえながらトイレを後にした。その際、私の黒髪が一拍子遅れて後をついてきていた。
廊下は思った以上に長く感じた。行きと同じ道なのに、景色がまるで違った。熱を帯びた息は荒く、発汗も先程よりも多い。足元も多少ぐらつく。思わず部屋の入り口で立ち止まる。
『藤田竜也』
『篠崎文』
扉脇には二人だけのネームプレートが掛けられていた。だが今はそんなことはどうでもよく、正負の波のうち正が来た時を見計らって入室した。
藤田はまだ戻ってきてはいなかった。そのため、入ってすぐ目の前に広がる窓の外の光景に目が移った。もっとよく確認してみようと、そして、また気持ちよくしてくれる風に会えるように、私は窓枠に近付いていく。
さぁーっと無邪気な子供のような風が私の体を引き寄せ、その五階から見える緑と家屋の調和が取れた景色が私の心を惹き付ける。
やはり、ここは気持ちがいい。それは決して何度来ても飽きることがない感覚。心安らぐ一時。
窓枠に両手をついているうちに、ようやく違和感が薄れていった。
「もう戻ってたんですね」
唐突な出来事のために一瞬だけ心が跳ね上がった。
気が付けば、藤田が新たに清涼飲料水を携えて部屋に戻ってきていた。前の空のペットボトルの姿は、ない。
「今来たところなんですよ」
網戸を背中側に回して藤田の方を向く。気持ちは大分落ち着いている。少なくとも、普通に会話できる程度には快復していた。そうなんですかと軽く受け答えしていると、藤田は「さてと」と言葉を発した。だがその時、若干空気が変わったような気がした。
「それで、さっきの話の続きですが、もう結論から言いますが――彼女は死にました」
「えっ……?」
そのあまりにも唐突な言葉に、こちらまで息を呑んでしまう。藤田は虚ろな目をしながらも、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「それも、俺の目の前で、です」
「…………」
こちらから深入りしたことに後悔した。しかしその手前、聞かないわけにもいかず、ただ藤田の言葉を受け入れるしかない。
ぱたっ、ぱたっ、ぱたっ。
一方で藤田は、汗を掻いた清涼飲料水を台に置くとこちらに歩み寄ってきた。
「――っ!?」
ぱたっ、ぱたっ、ぱたっ。
驚く私に対して、藤田は依然とした態度のままだった。
私は後退ろうとするも、そこが窓だということを失念していた。
その時の自身の中に生じた感情は恐怖だった。それまでの優しい印象しかなかった男性が、今となっては態度や雰囲気がまるで変わり私に迫ってきている。どうしようもできずに、ただ目を瞑って身を縮めていることしかできなかった。
ぱたん――。
足音が私の目の前で止んだ。恐る恐る目を開けてみると、私は目を見開いた。
藤田は泣いていた。
すると私の方も拍子抜けしてしまう。どうやって逃げ出すか、どうやって助けを求めるか。先程までそういった思考をしていたが、それは杞憂に終わった。
「……まだ還ってきてはくれないのか、アヤ」
「――っ!」
アヤ、それはさっきのネームプレートにあった名前。
篠崎文。私の、名前だ。
これでようやく、事情が飲み込めた。だがそれを理解した今となっても、やはり彼女は、死んでいる。
私は背筋を伸ばして藤田に向き直った。藤田は目に涙を浮かべつつも微かに微笑んだ。
「ごめんなさい。私は私。以前の記憶はありませんし……当然、あなたとの記憶もありません」
「そうか…………」
藤田は頭をがさつに掻くと、一歩引いて頭を下げてきた。
「本当に申し訳ない! おかしなことを言って……。でもあなたは確かにアヤなんです。ただ今は記憶をなくしてしまっているだけで……。それは間違いありません」
それは、分かっている。分かっているが、そのコアである記憶がどうしても戻らない。二人が欲しているであろう、大切なものが。
どうしてもいたたまれなくなり、私の方も頭を下げてしまう。
「いえいえ、私の方こそ、申し訳ないですっ! 藤田さんのお役に立てず……」
そこで二人して顔を上げる。すると、自ずと目と目が合わさってしまう。だが互いにすぐに仰け反ることはせず、しばらくしてから小さく吹き出した。
「いやそれにしても、今思えばいきなり昔話とか恋人の話とか、おかしいものばかりでしたね」
少し小馬鹿にして言ってみた。しかし藤田はかなり真剣に返してきた。
「だって、早く思い出して欲しかった上に、如何に警戒されずに話を持ってくかで考えた結果があれだったんですよ……。仕方ないでしょう」
「でも、失敗したみたいですけど」
「うっ……。ま、まあ、これからじっくりということで……」
「それまで『私』はずっと付き合わされる訳ですか」
「ごめんなさい。でも俺はどうしても『彼女』と再び会いたいんです。会って、どうしてあんなことをしたのかを――」
「失礼しまーす。藤田さーん。体調はよろしいでしょうかー」
話の途中で看護師がはっきりとした口調とともに入室してきた。
「あ、はい! 今のところは大丈夫みたいです」
「あら、本当ですか。それはよかったですね。あ、それではちょっと――」
その流れで藤田はその看護師に呼ばれて簡易的な診察を受けていた。マークシートのチェックが終わると、看護師は廊下のほうを指差しながら何か喋っていた。一通り説明が終わったのか、藤田はこちらにやってきた。
「すみません。ちょっと今から体を詳しく調べるようなので、行ってきます」
「あっ……、分かりました。行ってらっしゃい……」
挨拶を終えると藤田はすったすったとどこかへと歩いて行ってしまった。
すると、今度は部屋に残ったその看護師が私に話し掛けてきた。
「篠崎さん、立っていて体調は大丈夫なんですか」
「はい、今のところは……」
「そうですか。あ、それで、簡単にまず診察したいんですが、ベッドに腰掛けてください」
「分かりました」
言われた通り、自分が使っているベッドに座る。そして問診、触診などを受けた後、私も精密検査を受けるように言われた。
「脳波などを検査しますので、お手数ですが検査室の方に今から伺いますが、車椅子をお使いになりますか」
「いえ、大丈夫です。歩いて行きます」
「分かりました。ではご案内致します」
それを合図に私は立ち上がり看護師の後をゆっくりとついて行こうとする。
だがその時、私は別のことを考えていた。
記憶をなくす前の私は、一体何をしていたのか。
――否、どうして、記憶がなくなったのか。
記憶がなくなるほどの出来事があったことは確かだが、果たしてそれが何だったのか……。
そしてもう一点。
――どうして、「彼」までもが入院しているのか。
部屋からゆっくりと出ていく私の背後では、カサカサと木の葉がその渇いた声で笑っていた。
読者の皆様、どうもこんにちは。作者の小早川廉です。
いかがだったでしょうか。なんか唐突な展開になってしまったところはあるとは思いますが、あまり長くしても弛んでしまったり、先が読まれてしまうと思ったので、あえてこの長さにしました(私自身にもっと技術があればまた違う内容になっていたでしょう)。
さて、先に後書きを読まれる方に配慮しましてネタバレはしませんが、本作品の最終局面は、当初とは少し異なっています。元はホラー路線だったのですが、今回はこのような形に収まりました。よく作中のキャラ達が勝手に動くとは言いますが、見事彼らにしてやられたような気がします。
ではここで謝辞を。
私の作品に目を通してくださった読者の皆様、大変ありがとうございます。今後も執筆について勉強していき、よりあなた方を楽しませることができたらいいなと思います。
それでは、このあたりで失礼します。