獣はその盃に死を満たす-3-
元王であるラーデスは、その身に罪人の黄ばんだ衣を着せられて、薄暗い地下の鉄扉の向こうに放り込まれていた。
明り取りの窓さえなく、光と言えば廊下に並ぶ魔道灯の明かりが鉄扉の小窓から入る程度だ。
しかし、ラーデスは灯りなどに気を向ける余裕もなく、背と胸に刻まれた刃物傷が始終痛むのか、粗末な寝台の上で唸りながらのた打ち回るだけだった。
すでに、在りし日の覇気ある王の姿など微塵もない。ただ、打ち捨てられた老い衰えた男がいるだけだった。
薄闇の中で蠢くだけの罪人を小窓から覗き見たレイモンドは、ふんと鼻で笑って一歩足を引いた。
看守が鍵を解除してかんぬきを引き抜くのを待ち、開け開けられた鉄扉の中へと入った。護衛が灯した光魔法の明かりの下、肉も削げて痩せた罪人へと氷の視線を落とした。
「ラーデス、お前の息子の処遇が決定した。あれは”塔”の最上階で生涯幽閉となった。これでお前の血は絶える。父王を、兄王子を手にかけてまで奪い取ったモノの果てがこれだ。死ぬまでとくと味わえ」
地下牢の最下層奥にある、もっとも劣悪な環境をわざと施した牢獄。地下水が滴り苔むした石壁に囲まれ、小さな虫や害獣がちょろちょろと駆けずり回る。たえず糞尿の匂いが漂い、拷問の末に腐り落ちた肉を放置されて死んだ罪人たちの腐臭が、いまだ消えずに残っている。
その場所に、レイモンドの怨嗟の声が響いた。
「そして――――聖女レイティア王妃様の嘆きを最後まで聞いて逝くがいい」
呻きしか漏らさなかったラーデスが、その時ばかりは頭を起こしてぎらつく双眸でレイモンドを睨んだ。
だが、その視線を真っ向から受け止めたレイモンドは、反対にニヤリと凶悪な嘲笑を返した。
「お前の下僕は、お仲間だった者達の手でガロン流刑島へ送られることに決まったそうだ。なんなら、お前も下僕を供にして行ってみるか?」
ごそりと闇から這いずる音が聞こえ、唸り声が酷くなった。
「わ…儂をその様な所へ…だと?王である…儂を…クククッ」
ラーデスが身悶えながら笑い出した。耳障りの悪い割れた声は段々と甲高くなり、狂ったような笑声が地下牢内に響き渡った。
レイモンドは舌打ちをすると、小窓の鉄板を閉めて足早にそこから立ち去った。
「あれはすでに狂っているな…いまだに己を王だと思い込んでいる。王の血も罪に染まれば腐り果てるものだ」
地下牢から苔むした石段を登り、衛兵の立つ鉄扉を潜った先に出た彼は、戸外の空気を肺一杯に吸い込んだ。
鼻の奥まで腐臭がこびりついた錯覚を振り払うように何度も深呼吸を繰り返し、外で待機していた近衛騎士に憤懣を零した。
「何!?毒杯を煽っただと!?誰がそんな物を用意した!!」
あくる日の早朝だった。
従事の告げる来客の声に、まだ陽も上らぬ内に何だ?と訝しみながら着替えをすませて応接室へと向かうと、レイモンドを待っていたのは、顔色を失った将軍とエーデルズ神官長
の二人だった。
彼と顔を合せるなり頭を垂れ、将軍が苦り切った口調で事の次第を報告した。
昨夜遅くに大神殿へ、牢塔の最上階に幽閉されている元王太子レオンから懺悔の願いが持ち込まれた。それを快く受けた別の神官長は、二人の神殿騎士を供にして牢塔へ足を運んだ。
衛兵の一人に案内と監視をされて塔に上り、不眠で顔色が悪く衰えたレオンに乞われて告解を始めた。その時、騎士と衛兵は部屋の外で待機していた。告解の儀は、懺悔する者と赦す者の二人のみで行うことが決められているからだ。
が、陽が上って辺りが明るくなり始めても、神官長から終了の声がかからない。扉を叩いてこちらから声をかけても、返事どころか物音一つしない。不穏な気配を感じて衛兵を先頭に部屋へ入ってみれば、そこにはレオンと神官長が毒杯を煽って亡くなっていた。
誰がと問うまでもなく毒が混入されたワインと盃を用意したのは神官長に間違いなく、しかし彼がそれをレオン相手に行い、己も毒杯を呷った理由が皆目分からず、とにかく急ぎ報告に来たと言う。
「その神官長は、何者だ?」
レイモンドは長椅子に深々と腰かけて片手で顔を覆い、苦い息を漏らした。
それに応えたエーデルズ神官長は、顔を蒼褪めたまま悄然としていた。
「先ごろ大神官選定のために、東の神殿より移っていらした方です。穏やかなれど芯の通った性格の…独断であのようなことをなさる方には到底見えませんで…」
「レオンか、あるいはラーデスに恨みを持つ立場かも知れん。早急に調べを!」
レイモンドの命令に、エーデルズ神官長は一礼すると急ぎ部屋を駆け出て行った。残された将軍グランベール伯は、レイモンドと同じように苦虫を潰した様な険しい顔で、向かいに座り込んだ。
どちらも多忙の中で、頭を悩ませる毎日を過ごしている。そこに来て、またもや難題が降ってわいた。
「―――こうして我々は生きております。聖女様との誓約に反しなかったのだと…思うしかありませんかな」
漸くお茶の準備が整い、女官が丁寧に朝の一服を二人の下へと届けた。馥郁たる香りが、朝から疲れが増した男たちの心を僅かに和ませた。
だが、問題はより一層重くなった。
聖女との誓約は、ラーデスとレオンの生涯幽閉だった。その片方が殺害されてしまったのだが、代償である王侯貴族の命はこうして助かっている。
それは、片方だけですんだからなのか、または恨みを持つ者の仕業だったからなのか。そこが分からない内は、残されたラーデスが誰かの手にかかることから守らなければならない。
「どちらに恨みを持っての所業か分からんが、ラーデスが病死か自然死するまでは、身元の確かな衛兵を付けねばなるまいな」
「あやつのために…と思うと業腹ですがな」
この時レイモンドは、己がどれほど危険な契約を聖女と交わしたかのかを実感した。