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5.外へ

 ふと目を開けると、あまりにも光がまぶしくて、私はすぐに目を閉じた。まぶたの裏が、光を透かして赤かった。もう一度、私は目を開けた。すぐにしかめて目を細め、けれども数回まばたきすると、目はもう光に慣れていた。

 小屋の木の床の上に光が差し込んで、輝くように明るい中に澄んだ影が映っていた。その影は、小屋の外に立つ木のシルエットであったり、テーブルの、細長い脚と台の形だったりした。暖炉の火はいつの間にか消えていて、黒ずんだ薪は静かだった。

 身体を起こした私の背中から、重ねた毛布がずり落ちた。時計がかちこち鳴っている。見上げると、八時を少し、過ぎていた。調理場の方から、コーヒーのいい香りが漂ってくる。

 とたとたと、足音が、近づいてきた。

「おかあ、さん。」

 コーヒー豆の袋を手に持って、小さな身体を揺らすように歩いてきたのは、ユキだった。寝室に置いてあったユキ用に縫い縮めた服を自分で持ってきて着たらしく、シャツのボタンがとんだりずれたりぐちゃぐちゃに留められている。そのまくって縫い付けた袖から覗く小さな手も、上げた裾から伸びる脚もまっさらで、昨日の凍傷の痕跡は見当たらない。「あのね、コーヒー……」言いかけたユキに、私は腕を伸ばした。「うう」とユキは少し苦しそうにもぞもぞと動いたけれど、私は構わず抱きしめた。ユキは生きていた。ユキは生きている。そのことを、強く、強く、身体がもういい分かったと言うくらい、確認せずにはいられない。

「あのね、コーヒー、ミルク、おかあさん、入れる?」

 しばらくして、立ったまま私に抱きすくめられていたユキが何とか言った。

 私は腕の力を緩め、ユキの顔を見た。

「うん、入れようかな。」

 答えると、ユキは「分かいました。」とにこにこ答え、するりと私の腕の中から抜け出すと、調理場の方に戻っていった。付いて行って調理場を覗くと、いつも私が腰かけている椅子がコンロの前に運ばれて、ユキの踏み台になっている。コーヒーの香りに、香ばしいにおいが混ざり始めた。

「おかあさん!」といつも私がユキを呼ぶように、今日はユキが私を呼んだ。

 私はユキの作った朝食を運ぶため、「はあい」と返事をして歩いていった。


 私はユキと同様に床の上にトレイを置き、地べたに膝を着いて座った。木の床の、日の当たって明るい部分はほんのりと温かい。久しぶりにミルクを入れたコーヒーは、優しい味がした。こんがりと焼けたパンの上に干し肉を載せてかじると、香ばしさと歯ごたえのある肉の旨みが口の中に広がる。ユキも隣で同じようにパンに肉を載せてかじっていたが、その視線はたびたび窓の外に向けられた。昨日までと、景色はまるで違っている。輝くような日差しの中、若葉を繁らせた木の向こうには、緑の草原が広がっている。

「やっぱり、外に行きたいの?」

 私は訊いた。「この小屋から、出て行きたい?」

 ユキは口の端にパンのかけらを付けたまま、こくん、と頷く。

「分かった。じゃあ、おかあさんも行くわ。」

 言うとユキは、びっくりしたように、目を、丸くした。

「おかあさんは、ユキが、大好きだから。ユキのことは、おかあさんが守るから。」

 私が決意を込めて言った時、ユキは両手で緑のマグカップを抱え、カップの底を、私の方に向けていた。くりくりとした二つの目が、何か言いたげに私を見る。

「……ふぶき、やんだね。」

 カップをトレイの上に置き、ユキは言った。

「そうね。」と私はユキと並んで外を眺めた。


 私たちは、小屋を出て行く準備をした。洗った食器を拭いて仕舞い、椅子は定位置に戻し、工具箱は倉庫に返し、毛布は寝室に持って行く。買ってクローゼットに置いていた鞄に、やはり置いていたいくらかのお金と衣類を入れた。出たゴミは、とりあえず袋にまとめた。前に幾度かここに来た時、吹雪ではなかった時には、歩いて少し行ったところにゴミ集積所があった。今もきっと、あるだろう。男にもらった新聞と名刺も鞄に入れる。ガスの元栓と電気の元スイッチを確認し、ふと、ガスや電気や水道は、どういうことになっていたのだろうと思った。引き落とし契約をしていた口座は、まだ生きているのだろうか。そもそもこの小屋の権利は、今、どこの誰にあるのだろう。十年。いや、あれからまた数日経っている。本当に、そんなに年月が過ぎているのだろうか。外の世界はどうなっているのだろうか。

 私は不安に駆られたが、不安をユキに見せてはいけないと思った。どんなことがあろうとも、私はユキを守ろう。ユキと共に生きていこう。

 私は扉を開けた。むせるような、新緑のにおいが小屋の中に飛び込んでくる。

「ユキ!」

 振り向いて、私はユキを呼んだ。

 小さなユキは、床に立って私を見上げ、にこりと笑った。その姿が、す、と薄くなったように思った。と、次の瞬間、ユキの姿は掻き消えた。

 何が起こったのか、分からなかった。

 目の前で、ユキは消えた。しばらく私は立ち尽くし、やがて耐え切れずにその場に座り込んでしまった。


 どういうことだろう、と考えた。

 私の肉塊から生まれたユキは、私が作り出した特殊な吹雪の中の、この小屋でしか、生きられない存在だったのだろうか。私の中に吹き荒れる吹雪を、ユキは溶かして、消してくれた。その為だけに、ユキはいたのだろうか。私の為の、幻のようなものだったのだろうか。

 けれどもユキは、全然私の思い通りではなかったではないか。勝手に階段を転げ落ちるし、お風呂で溺れかけるし、外に行きたいとわがままを言った挙句に無茶をして、吹雪の中で死にかけていたではないか。初めて服を着せたとき、シャツの肌触りがなじめなかったのか、ぶるぶる身体を震わせて、何とか脱ごうともがいたりしたではないか。初めてスープを口にした時、顔をしかめてちょっと口から吐き出したりしたではないか。私を満足させる為ではなく、本当に、心からおいしそうに、もごもごとパンやお肉を食べていたではないか。そうして気持が乗らない時には、まるで食べてくれなかったりもしたではないか。私に対し、自分の意見を言ったではないか。外に行きたいと自分から言い出して、私のことばに傷ついたような顔をしていたではないか。私が一緒に外に行くと言った時、少し不満そうな顔をしてみせたではないか。

 ……まさか。

 その時ふいに、がたん、と音がした。私は驚いて顔を上げた。見ると先程ユキの立っていたその辺りに、男が一人、立っていた。男は浅黒い肌をしていた。四日前、吹雪の中を通り抜け、突然小屋にやってきた、あの男だった。確かタロウと名乗っていた。まっさらな印象のあった顔が、四日前ほどまっさらではなく、どことなく陰影と、深みと、重みの加わったものになっていた。少しだけ、体格ががっしりとしていた。けれども服装はスエットと綿パンで、四日前のジャンパーを脱いだ姿と似たようなものだった。

「お久しぶりです。」

 男は四日前より落ち着いた笑みを浮かべて言った。それから少し顔を緩めて、「ここでは、大して日にちが経っていないのかもしれませんが。」と付け足した。

「私は、あれからずっと、待っていました。今朝、『穴』が消えたとの連絡が入ったんです。それでこうして飛んできたんです。」

「飛んできた?」

 私は彼が唐突に現れたことを、不思議に思いながら訊いた。

「あ、いえ。飛んできたというのは比喩ですが。『移動』して来たんです。それも、俺の、特技の一つでして。」

 移動。彼はぱっと突然出てきた。ということは、移動する前の場所では、彼は突然消えたように見えるのではないだろうか。

「前はどうしてそれで来なかったの?」

「あ、それは、できなかったんです。あの『穴』の中では、『移動』の力は使えませんでした。」

 そう。そうなの。ふうん。

 私は小さく呟いた。

「研究所は優秀な人材を求めています。ぜひ、よかったらうちに来てください。いや、もちろん強制するわけではありませんけど。」

 とりあえず、私と男は小屋を出た。男はゴミの袋を持ってくれた。頼んでないのに両手に持つと、私より早くゴミ集積所を見つけ、待っていてくださいと走って行った。私は何か、大型犬を飼っているような気持になった。

 戻ってきた男に、私は、何故今は『移動』しなかったのか訊いた。

 そりゃ、『移動』するよりも、走る方が楽だからです、と男は答えた。

「ところで、あの時にいた子どもは、どこに行ったんですか?」

 訊ねてきた男に、私は「知らない。」とだけ答えた。

 男は「あの子もうちの研究所に欲しかったのに。」と残念そうに呟いた。


 男は研究所から『移動』してきたと言ったが、ちゃんと車の手配をしていて、草原を抜け、しばらく下ると黒い車が待っていた。男は私に、決定権は私にあることを、強調した。私は別に、何だろうと構わなかった。先のことは、分からない。

 来た時と同じように、生い繁る木々は生命力にあふれていた。が、明るい日差しの中では、その圧倒的な存在感はこちらを脅かすようなものではなく、むしろ気持のよいものだった。走り抜ける緑の木々を、根の這う斜面を、いびつな石垣を、私はずっと見つめていた。けれどもふいに、私の中に、あるイメージが流れ込んできた。


 それはどこかの公園だった。それ程広くはない公園で、ブランコと、滑り台と、砂場があり、あとは小さな運動場になっていた。ブランコのところには小学生くらいの女の子が三人いて、二人がブランコに座って漕ぎ、もう一人が線の向こうから手を伸ばしてタッチしようとする遊びをしていた。滑り台の階段の上にはブランコの女の子たちより少し小さい男女の子どもたちが数人あふれそうになりながら立っていて、何か大きな声で言い合いながら順番を待っていた。銀色の板はあまり滑りがよくないのか、膝を曲げて下っていく子どもはあまり楽しそうではない。砂場には、小さな子供が三人ほどいてそれぞれ不器用にプラスチックのスコップやシャベルを握っていた。傍らにはベンチがあり、彼らの母親らしい女性たちがそこに腰かけて話している。茶色い地面の運動場の方では、やや大柄な男の子が二人、距離を取ってキャッチボールをしていた。ざっと砂を蹴り、ばすんとボールがグローブの中に納まる音が徐々にはっきり聞こえ始める。その大柄の男の子の振りかぶった背中の後ろを、奇妙な格好の小さな男の子が、ぽてぽてと身体を揺らすようにしながら通り過ぎた。ボールを受けた男の子が、びっくりしたような顔をして指をさす。今ボールを投げた男の子も、何だと言う顔をして振り返る。

 その子はまだとても小さく、砂場で遊んでいる子どもたちと変わらない年頃に見える。二人の男の子はベンチに座った母親たちを眺めたが、彼女たちはそれぞれ砂場の子どもに目をやりつつ、安心しきった顔でおしゃべりに興じている。その小さな子はどう見ても大人用のものを無理矢理縫い縮めたような、しわくちゃの大きすぎるブラウスを着ていて、裾から覗くぷっくりとした足は靴下はもちろん、靴も履いていなかった。振り返った男の子は、公園の出口に向かって歩くその子に「おかあさんは?」と声をかけた。その子はにこにこ笑いながら、「ここには、いない。」と子どもらしいあどけない声で答えた。

 裸足で運動場を歩いていたその小さい子は、一度立ち止まって遊具の方を眺めた。けれどもその子は、自分と同い年のように見える砂場の子たちにも、そうして少し年上の子どもたちにも、あまり興味がないようだった。その子はまた、出口に向かって歩き出した。キャッチボールをしていた二人は何となく、いぶかしげな顔をしながらも再びボールを投げ始めた。小さな子は公園の出口の車避けの金属柵のところまで来て、その柵の一つに手を触れながら、立っていた。その子は目の前に横たわる坂道を、行き来する人たちを眺めていた。白髪交じりの老夫婦が、談笑しながら二人並んで下って行く。両手にビニル袋を持った中年の女性が、がさがさと音を立てながら肘をいからせるようにして上っていく。三つ編みの中学生くらいの女の子が、自転車に乗って滑るように通り過ぎる。くわえ煙草をした茶色い髪の若い男が、何かを踏みしめるように一歩一歩歩いて行く。

 それらをじいっと見ていた小さな子は、ふいに何かを見つけたように顔を輝かせた。ペイントされた金属柵から手を離すと、何か求めるようにその小さな両手を伸ばし、歩道に足を、踏み出した。歩いて行く、その子の姿がだんだんと、ぼやけ始める。その子の行き先を、確認できないまま、その映像は、消えてしまった。


「大丈夫ですか?」

 男が急に言ったので、何かと思った。私はほとんど睨みつけるように男を見た。けれども男は静かに笑い、私にハンカチを差し出した。目の縁にいつの間にかあふれていた液体が、一筋ぼろりと頬を流れた。私は素直にハンカチを受け取り、熱い涙をそれで拭いた。

「……大丈夫です。ありがとう。」

 そう言って、私は何とか少し微笑んで見せた。ハンカチを膝の上で握り締め、そうしてちょっと、鼻をすすった。私はまた、車窓の景色に目を向けた。山の斜面がコンクリートで固められ、先程より、道が広くなっている。木々は生き生きしているけれど、何とはなしに行儀がいい。

 もうそろそろ、山を出るのだと思った。

 車は静かに進んでいた。

 

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