4.遭難
「ひゅおおおおっ。」
口をすぼめて風の音を真似ながら、ユキが床の上を転げ回る。窓の外は吹雪だが、小屋の中は暖かい。男の来訪から、三日が経っていた。少なくとも、私にとっては三日だ。あの男の言うことを信じるなら、実際の時間はもっと過ぎているのかもしれない。テーブルの上には、男が置いていった新聞と名刺が載っている。ポストに入れられる時と同じ形に畳まれた新聞の、縁に記された年月日は確かにおかしい。おかしいが、だからと言って男の言うことをすべて鵜呑みにできるわけでもない。
「れーうーあーとっるうー」
ユキがでたらめな歌詞をつけて、聞いたことのないメロディを歌っている。
時計が十二時に近づいていたので、私は立ち上がって調理場に向かった。薬缶をコンロの火にかける。コーヒー豆をミルに空け、レバーを回して粉に挽く。オーブンを開け、冷凍していたパンと干し肉を数枚並べる。沸いたお湯でお皿やカップを温める。薬缶を移し、コンロの上に小さな鍋と大きな鍋を並べて置く。大きな鍋に、缶詰のスープを空ける。小さな鍋には保存容器で凍らせてあったミルクを空ける。かちんと音を立てて火をつけると、凍ったミルクが溶け出して、やがて細かく泡立ち出す。匙で砂糖を一すくい入れ、木の杓子でかき混ぜる。ふわりと甘いにおいをたてるミルクを緑色のマグカップに注ぎいれ、空いたコンロでまた湯を沸かす。沸騰しだしたスープをしゃもじでかき混ぜる。湯気をたてるスープを二つの皿に空け、木の匙をそれぞれに突っこんで二つのトレイにそれぞれ置く。白い平たい皿もそれぞれに置く。焼けたパンと干し肉を、それぞれの皿に載せていく。薬缶のお湯が沸いたので、コーヒーポットにドリップをセットする。少しずつお湯を注ぎいれると、コーヒーの粉が膨らんでいく。1.5人分を淹れ、緑のカップのミルクの上に注ぎいれる。残りの一人分を、オレンジ色のカップに注ぐ。香りと湯気が、調理場の中に立ち込める。
「ユキ」と私は呼ぶ。
ユキはぬいぐるみを子どもが動かすような不器用さで歩いてくると、つやつやした頬を輝かすようにして笑う。
私はユキに、緑のカップの載ったトレイを渡す。ユキは小さな身体を揺らすようにして歩くけれども、決してこぼしたりはしない。私は火元の確認をしてから、ユキの後ろをもう一つのトレイを持って付いて行く。ユキは地べたにトレイを置く。私はテーブルの上に置く。ユキは好んで床に座り込む。私は椅子に腰かける。
「ぼく、外に、いきたい。」
パンの上に干し肉を載せたものをしゃくしゃくと噛んでいたユキが、ふいにそんなことを言った。
「外は吹雪だから無理よ。」
ブラックのコーヒーを飲みながら、私は軽く一蹴する。
「吹雪の向こう、に、ぼくは、行きたい。」
パンにかぶりつくのを中断したまま、ユキはなおも言う。
「吹雪の向こう?」
私は顔をしかめる。「どうしてそんなところに行きたいの。」
「他の、人。いろんな人に、会いたい。」
首をぴんと伸ばして妙に姿勢よく、ユキは私を見上げて言った。
「なによそれ。」と思わず私は呟いた。呟いてから、「会ったら、ユキは、ひどいめに遭うわ。」と大きな声で言い聞かせるように言った。
「ひどいめ?」
ユキは大きな目をさらに大きくして問い返す。かじり痕のついたパンと肉がユキの手の中でだんだん冷めていくのを、私は少し悲しく思う。
「そう。ひどいめ。痛いこととか、とても苦しいこととか、辛いこととかを味わわされるの。」
こんな話題はさっさとやめて、いつもみたいに無心に食べてほしいと思う。あったかくて、おいしいうちに、食べてほしい。
「ユキは外のこと、自由に見られるんだから、いいじゃない。」
ユキの澄んだ目が、うっすらと水を帯びて揺らめく。困ったように、その柔らかな肌の表面の薄い眉に力が入る。
「でも、ぼくは、見てるだけなの、飽きた。」
もうユキは食べ物の存在を忘れてしまったかのように真剣な顔をして私の方を見ている。緑のマグカップの中で甘いカフェオレがだんだんと湯気を弱くしているのに、ユキはそのことにも気付かない。
「ユキは、おかあさんと一緒にいるの、いやなの?」
まるで外に取り乱した人でもいるように、その時風が激しく窓を叩いた。私は苦味の強いコーヒーを、もう一度少しだけ口に含む。
「そうじゃなくて。じゃなくて、でも。」
ユキはことばを探すようにぐるぐると視線をさまよわせた。けれどもことばは見つからなかったらしく、私の元に戻ってきたその目はただひどく傷ついたように潤んでいた。
「冷めちゃうから、早く食べなさい。」
いたわるように、私は言った。ユキの目がもう一度、波が揺らぐように光を反射させた。それからすうっとまぶたを下ろすと、下を向いてパンを皿に置いた。緑色のマグカップを手に取ると、いつものように両手で抱えてこくんこくんと飲み始めた。
食事の後、私は洗い物をしていた。外は風が強まっているようだった。時折、小屋全体が揺れるようにさえ感じられた。これを引き起こしているのが私だなんて、そんな考えは馬鹿げていると思った。給湯設備の調子が悪いのか、水はなかなか湯にならなかった。冷たい水が私の手を打ち続け、じんじんと痛みのように感じられた。シンクの上に布巾を広げ、その上に、洗った食器を伏せて並べた。この布巾は、私が買ったものだ。このマグカップも、この皿も、トレイも、全部私が選んだものだ。急にそんなことを思った。この空間と、この空間にあるものは、全部、私のものなのだ。
ある時、とてもよくしてくれた研究所があった。それは多分、高校の一年生か二年生の時だった。私には、世話係が付いていた。私に親身になり、私の要望をできる限り上に伝えるから、とその人は言ってくれた。私は自分が実験動物のように利用されるのではなく、才能を持つ人がそれを仕事にするように、ただ特別な能力を持った人間として正当に扱われたいと思っていた。それで私は研究所に協力する代わりに、それに見あった報酬がほしいと申し出た。私はその報酬を、自分の住むアパートの家賃や、学費や、世話係の人への給料に当ててもらった。残りのお金で生活し、さらに余れば貯金をする。世話係の彼は、とても熱心に仕事をしてくれた。私は思った以上のお金を得た。その人は、私の悩みをよく聞いてくれた。私のことを理解し、受け容れてくれた。ある日彼は、特別報酬として変わったものを貰ったと私に報告してきた。それは、とある山中の、山小屋とその周囲の土地だった。
私は夢を見た。高校を卒業したら、この山小屋で、一人ひっそりと暮らそうと思った。お金はだいぶ貯まっていた。私が協力したことで開発され完成したいくつかの薬や治療方法については、これから数十年先まで、定期的に私にお金が振り込まれる契約がなされたはずだった。私は時折電車とバスを乗り継いで、この山小屋にやってきた。食品、衣料、生活用品を、少しずつ買い揃えては、元々小屋にあった備品に加えていった。自分のための要塞を少しずつ整えていくのは、とても楽しいことだった。
ところがある日、私は自分の銀行口座の預金金額が、急に減っていることに気がついた。私はいぶかしんだ。彼を疑ったわけではなかったが、何か知っているかと思い訊いてみた。彼は知らないと言った。いつもどおりの笑顔だった。私には、それを信じることしかできなかった。
彼が突然、移動中の車の中で、これまで私と「契約」を交わしていた研究所が閉鎖されたことを告げたのは、それから二日後のことだった。そのまま彼は見知らぬ町を走り抜け、見知らぬ研究所で私を下ろした。出てきた白衣の研究員たちは、有無を言わさず私の腕に注射をした。次に気がついた時、私は檻の中だった。小さな灯りが一つあり、ぼんやりと辺りを照らしていた。中腰までしか立てない高さの天井も、壁も床もコンクリートで、隅の方に溝があった。その溝を、水がちょろちょろ流れていた。檻の向こうには別の檻があった。その隣にも檻があった。見える限りの檻の中には何も、誰も、いなかった。遠くの方で、常軌を逸したようなわめき声がした。わんわんと音は反響し、何を言っているかはまるで分からなかった。その声が止むと、辺りはまったく静かになった。小さな水音だけが、いつまでも続いていた。その時通っていた高校には、それっきり行けなかった。
外の世界にいいことなんて一つもないのよ、ユキ。
急にそう言いたくなった。さっき言えばよかったと思った。もうあの話は終わったのだから、今更言うのもおかしな話だ。
今度ユキが、もしもまた言い出したら、その時には言おう。そう思った。
私は食器を全て片付け終え、いつもの部屋に戻った。暖炉の火が、いつものように燃えている。
けれどもユキは、いなかった。
「ユキ!」
私は大声で呼ばわりながら、山小屋の中を歩き回った。廊下を歩き、お風呂場を覗き、地下室にまで下りて探した。けれどもユキは、どこにもいない。山小屋の中にいないとしたら、答えは一つしかなかった。ユキは、小屋の、外に出た。
私はすぐに、後を追おうと思った。が、自分の格好に気がつき、ふとためらった。小屋の中は暖かいので、私は薄手のブラウスを着ていた。私は一度寝室に行き、厚手のカーディガンを引っ張り出して羽織った。それ以上の防寒着はなかった。何故ないのか。私はどうやってここに来たのか。そんなことを、今は考えている場合ではなかった。私は風呂場へ行き、バスタオルを何枚も出して肩に重ねた。棚の引き出しから方位磁針を取り出すと、パンツのポケットに突っこんだ。靴はパンプスしかなかった。それを履き、私は小屋を飛び出した。
激しい風が音を立てて渦巻いていた。凍ったような冷たい空気がさらに冷たい雪の粒を全身に吹き付けてくる。タオルを襟のようにして押さえた指や、頬などの、むきだしの肌にぶつかる雪が痛い。目を、前に向けることさえできなくて、うつむいていても冷気が触れて、沁みてくる。息さえも、風に邪魔され吸いにくい。それでも目をつぶり、凍った空気を雪と一緒に無理矢理肺に吸い込んで、「ユキ――っ」と叫ぶ。叫んでも、風の音が強すぎて、すぐに流れてかき消される。内臓が、空気の冷たさに縮み上がってもだえている。あふれた涙が一瞬で、熱を奪われ凍りつく。「ユキ――っ」もう一度、叫ぶ。風景は、灰色と白が全てだ。そうして果てしなく、広い。ユキがどの方向にどう歩いたかなんて、分からない。でも、この中を、あの小さなユキが遠くへなんて行けるはずがない。ユキは私の薄手のブラウスを縫い縮めたものしか着ていない。早く見つけないと。早く見つけないと、ユキは凍えて死んでしまう。
吹雪は一層強さを増すように思われた。私がこの吹雪を作り出しているなんて、そんなこと、あるはずがないと思った。もしそうなら、私はすぐさま吹雪を止め、すぐにでもユキを見つけ出すだろう。ユキが凍えたりしないよう、寒さを感じたりしないよう、全ての雪を溶かして、暖かな春の世界に変えるだろう。でも、景色は白いままだ。冬の魔物が猛威を振るっている。私のユキは、どこにいるのか。
「ユキ――っ」
何度も私は、名を呼んだ。無意味だと思いながらも叫び続けた。自分の身体が熱を一切失って、氷でできた空洞にでもなってしまったようだった。感覚は、ほとんど失われていた。ところどころに走る痛みが身体の輪郭や、臓器の存在を示していた。涙はとめどなく出て、とめどなく氷に変わっていた。
突如、靴の先が何かに触れた。凍った白い地面とざらついた雪の塊に慣れていた足が、予想外の柔軟な感触にびくりと震えた。細かな雪がさらさらと地面を流れていく。白い粉雪に覆われて、小さな手の平が上を向いていた。丸みを帯びたふっくらとした頬が、腐ったように変色して横を向いている。うつむいた長い睫毛にたくさんの雪の粒がくっついている。ほとんどまぶたに覆われたその瞳は、いつもと同じように澄み切ったまま、凍りついたように動かない。
「ユキ!」
私はありったけの声で叫んだ。必死になって、横たわった身体に積もった雪を払った。冷え切ったはずの私の手に、ユキの身体はさらに冷たく感じられた。羽織っていたバスタオルで、私はユキを包み込むようにして抱き上げた。ユキの重みを感じ取り、私の腕は、息を吹き返したように力を巡らせる。「ユキ!ユキ!」感触のない手でその小さな裸足の足や、手や、頬を撫でる。方位磁針を取り出して、方向を確認するまでもなかった。私はユキを抱きしめて、一心に山小屋に向かって歩き出した。
小屋に戻ると私はユキを、暖かい部屋に横たえた。風呂場に走って蛇口を捻り、浴槽に湯を溜める。凍ったユキを運んでいって、服を着たまま湯に浸けた。ばりばりだったブラウスが柔らかく透け、青黒かったユキの肌がふわりと色を取り戻す。私はユキを湯から上げ、服を脱がせてタオルで拭くと、寝室からありったけの毛布をかき集めて持ってきた。茶色やベージュや白の毛布でユキを包み、抱えて部屋に戻り、暖炉の脇に置く。ぱちぱちと、暖炉の中で火が爆ぜた。
ユキの顔色は、悪くなかった。つやつやとした肌色をして、唇も多少白みがかってはいるけれどふっくらと赤い。なのに閉じかけのまぶたはぴくりとも動かず、長い睫毛は同じ位置で影を落とし続けている。「ユキ、ユキ。」私は床に座り込み、ユキを毛布ごと抱え上げながら呼んだ。ユキは人形のようだった。どこも動かない。ユキの唇や、鼻の辺りに私は自分の頬を近づけてみた。空気の動きはそよとも感じられない。胸の辺りに耳を押し付けてみた。何の鼓動も伝わってこない。眼はガラス玉にでもなってしまったように硬く無機質だ。瞳孔が、開いているようにも見える。
私は、月明かりの夜に見た死体のことを思い出した。そんなことを思い出すなんて縁起でもないと思ったけれど、その光景はまざまざと私の中に甦り、暖炉の炎や木の壁や、ユキの姿を薄らがせた。
その時、いくつもの激しい痛みと息苦しさとむかつきと血の味に、私の意識ははっきりしたり薄らいだりを繰り返していた。細い筒に慎重に糸を通すように呼吸をし、ぐちゃぐちゃの気分を何とか少しずつ、少しずつ整える。電気のように走るしびれや寒気をやり過ごし、やや痛みが和らいだところで、私はようやく冷静に状況を見た。車はひどく変形し、横倒しになっていた。白いブラウスの血みどろ具合から見て、私の胸部はかなりひどい損傷を受けたようだった。ベージュのシートは赤黒く染まり、元の色が残る部分はほとんどなかった。私の隣、方向としては下側では、ハンドルに手をかけたまま、男が血まみれになって死んでいた。ひしゃげた金属に圧迫され、身体のところどころは見る影もない程潰れているのに、その顔は赤い血が一筋流れているだけで、ひどくきれいだった。その顔は、私の方を向いていた。鼻筋の通った彫りの深い顔立ちが、そっくりそのまま残っていた。驚きと、苦しさと、悔しさの混ざったような表情をしていた。私のことを、まだ見つめているようにも見えた。
その死体は、私が高校生の時、研究所から派遣されて私の世話係をしていた男のものだった。私の勤めていた会社に踏み込んできた追っ手たちは、私に目隠しをし猿ぐつわを噛ませた上縄で手足を縛ってしばらく車で移動すると、別の人間に私の身柄を引き渡した。その人間はしばらく無言で車を走らせていたが、やがてすっと車を止め、私の縛めをすべて取り去った。そこにいたのが彼であったことに、私はひどく、驚いた。
彼は車を発進させながら、最後に私を引き渡した研究所が酷い場所であったことを後で知ったと話し、知らなかったとはいえ悪いことをしたと詫びた。自分は上の命令に逆らえなかったし、自分の気持に正直になる勇気がなかったのだとも言った。車はどんどん街を離れ、まわりの景色はいつの間にか畑と山ばかりになっていた。辺りは薄闇に包まれ始めており、時折小さなお店が並んでいても、それらはすべて閉まっていた。随分走ってようやく光の灯ったコンビニを発見すると、彼は車を止めて、待っていてくれと言った。私はその時車を抜け出して逃げることも出来たはずなのに、なぜか大人しく助手席に座って待っていた。しばらくすると、彼は袋を二つ下げて戻ってきた。私に袋を両方渡すと、彼はすぐに車を発進させた。車の中は薄暗く、彼の表情はよく見えなかった。
彼は運転に専念しているように黙り込んでいたが、ふいに口を開くと、お腹がすいただろう、どれでも好きなのを食べるといいと袋を指して言った。片方の袋の中には、数種類のサンドイッチが入っていた。もう片方の、膝に温かさを感じた袋には缶コーヒーが入っており、それは私がかつて好きだと言ったメーカーのもので、私がその時によって違うものを飲んでいたのを覚えていたのか、ブラックと、ミルクだけ入ったものと、ミルクと砂糖の両方が入ったものが、一本ずつ入っていた。勧められた手前、どれか選ばなくてはいけないように思い、私は卵サンドの袋を引っ張り出し、ミルクだけの入ったコーヒーの缶を取り出した。彼がハンドルから左手を離して二つの袋を渡すように求めるので彼も食べるのかと思ったら、彼は受け取ったそれらを後ろの座席に放り投げた。彼が何度も促すので、私は何も食べたいとも飲みたいとも思えない気分なのに無理に缶コーヒーのプルタブを上げて少しだけ中身を口に含んだ。それはまだ、温かかった。さらに促されてサンドイッチのビニルパックの封も解いた。白いパンの端を少しだけ齧ると、イーストの臭みだけが口に残った。
いつの間にか、車は山道に入っていた。細い曲がり道がうねうねと続き、木々は街と違っていかにも我が物顔で生い繁っていた。ヘッドライトが心細くアスファルトの先を照らしていた。辛かっただろう、と男は言った。僕はずっと後悔していた、と続けると、遠慮せずに食べるように、とまた言った。いびつな石垣が、ぱっとライトに照らし出された。そこに覆いかぶさるように、暗い緑が葉を繁らせていた。
僕はあの後別の研究所に入ったが、それも今日やめた。暗い行き先に目を向けながら、男は静かに言った。それから突然饒舌になり、どんな風にまわりをだまして今日私を受け取ったのかを話した。本当は、決まった場所にとうに君を引き渡していなければならない。今頃たくさんの人間が、僕らを探しているだろう。どこか他人事のように男は言った。でも、考えがあるから。とりあえず、覚えているだろうか、君にあげた小屋がある。あそこで二人、一緒に暮らそう。
夜の闇を吸い込んで、山の木々は動き出しそうなほど生命力にあふれていた。曲がりくねる細いアスファルトの一本道だけが、私たちには許されている。私たちの車を絶えることなく見張る木々に、かろうじて抗議するようにヘッドライトが光を浴びせる。言われてみれば、バスで何度も通った山道のようにも思えた。けれども山道というのは、どこも大抵似たようなものにも思う。
どうして黙っているの、と男が前を向いたまま言った。
え、と私は男を見た。
僕は君が好きなんだ。君は僕と来るしかないんだ。そうだろう?男は、私の方に顔を向けると、それは照れのせいかもしれないけれど、突き放したような言い方をした。
懸命に、私は答えることばを探した。おかしなことに、頭の中に浮かんできたのは今日の朝の情景だった。遠い昔のことのようだけど、今日の朝まで私は普通に会社にいた。電話や打ち合わせの声が一定のざわめきを作り出す空間で、私は自分の席に座り、見積書を打っていた。慌て者の課長が「あっ、えっ、あっ、はっ、いえっ」とうろたえた声を上げていた。自称柔道マンの、身長が二メートル近い営業の人が、カタカナやアルファベットの専門用語をなめらかに並べながら電話に向かって製品の仕様を説明していた。紙コップに入れたお茶を、私は時折口に含んだ。永遠に続くなんて思ってはいなかったけれど、今日終わってしまうなんて思いもしなかった。担当の営業の人が、探している書類のナンバーを言う。私は引き出しを開け、縦に並んだ書類を繰る。電話を取り、社名を告げる。保留にし、言われた人に電話を回す。いつもどおりだった。終焉の予感など、何もなかった。それなのに。
「会社に帰りたい。」
ハンドルを握る男に向かい、私は言った。
自分で、それは不可能なことだと分かっていた。無理なことだ。追っ手は張っているだろう。そもそも私の体質と境遇を目の当たりにした会社の人たちが、今までのように私を扱ってくれるはずもない。分かっている。それでも言いたかった。わがままを、どうしても、口にしたかった。
私が悪いのだろうとは思う。でも、それでも、もし彼が、穏やかに私を諭すか、せめて黙っていてくれたなら、あんなことにはならなかったのかもしれない。
「どうしてそんなことを言うんだ?すべてを投げ打って、ここまでしてやったのに。」
いかにも哀れっぽく男が言うので、私は思わず「頼んでない。」と言い返した。 すると男は激昂した。私のことを罵り始め、「化け物女」と私をなじった。
かっとなって、私はハンドルに飛びついた。
車は道を踏み外し、役立たずの柵の丸太とロープと共に、谷底へと転落した。
自分の身体の回復を確認してから、私は潰れた車から脱出した。さらさらと、どこかから水音がしていた。私は歩き出した。が、ふと取って返して、私は車の中を覗き込んだ。横倒しの車の中で、運転席の男がひしゃげた金属に身体を取り込まれるように血にまみれている。なのに首を伸ばすようにして、男の死体は助手席側を見上げている。窓から差し込む青い月の光の中で、その苦悶の表情とはまるで無関係に、男の目は、穏やかに静止している。この目の先に、つい先程まで、私はいて、そうして私はこの人に、好きだと言われたのだった。この人は、私と二人で暮らしたいと言った。温かいコーヒーをくれて、サンドイッチもくれた。気遣ってくれていた。優しくしようとしてくれていた。
涙があふれてきた。
私はユキの、小さな身体を抱きしめて、大声で、嗚咽を漏らした。喉から獣のような声を出しながら、私は泣いた。身体の中からたくさんの、瘤のような、見えない何かがせり上がり、私はそれを、声と共に絞るように吐き出した。涙も、声も、見えない何かの塊も、次から次へと湧き出てきて、いつまで経っても途切れなかった。時間も、今いる場所も、ついには腕の中のユキさえも、分からなくなった。私はただ、たった一人、何もない、音もない空間で、感情を吐き出し続けた。ついには自分の身体さえも失われ、どこから生まれるのかも分からない感情の塊だけが、ごろごろと辺りに転がっていた。私には、何もかも、どうしようもなかった。どうすべきも、どうしたいも、何もかも、失われていた。