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3.来訪者

「だれか、来る。」

 そうユキが言った。ユキが生まれて十日目だった。かたかた揺れる窓の外は相変わらず真っ白に吹き荒れていて、雪も風もやむ様子は微塵もない。

「誰?どんな人?」

 椅子に座ったまま私は訊いた。ぱちんと暖炉の火が爆ぜて、小さく薪が崩れを起こす。その火から少し離れたところに座ったユキは、木の壁に視線を這わせるようにして、ここからは見えるはずのない場所に目を凝らす。

「青い、ジャンパー着てて、おっきい。肩がどんってしてて、おっきな手。つるつるした手袋。ぎゅって握って、リュックサック、持ってる。足、歩きにくそう。重そうな足。ざくざく。」

 私は肩幅のある、ごつい大男を想像した。追っ手だろうか、と考える。

「どの辺りにいるの?あと、どのくらいでここに……」

 私の質問は、途中で途切れた。

「来た。」

 ユキが呟いた。その瞬間、ばたん、と重い木の扉が開いた。吹き荒れる激しい風の音と共に、冷たい雪をはらんだ空気が一気に部屋に流れ込んできた。そうしてその渦巻く白い風の中に、まるで冬の化身のように、雪にまみれた男が一人、立っていた。私は思わず椅子から腰を上げ、ユキを背中に守るようにして立った。男は後ろ手で、雪と風を押し出すように扉を閉めた。ニット帽を目深にかぶり、顔の半分を覆うゴーグルをはめた上、口の部分はマフラーをぐるぐる巻きにしているので、表情はおろか、年も人相も分からない。恐れていた程背は高くなく、想像したほどマッチョな体格というわけでもない。が、油断できるわけでもない。私はナイフをしまった場所を思い出そうとしていた。ハサミであれば、手の届く場所にある。

「あ……」

 マフラーの下から、男がこもった声を発した。何かもごもご言いかけて、それからあっと気がついたようにマフラーをずり下げた。それからゴーグルも上にずらした。現れた肌は、どちらかというと浅黒い。年は二十台後半から三十台前半位だろうか。どこといって特徴のない、平凡で、ぼんやりとした顔つきをしている。

「悪いけど、火に当たらせてもらってもいいですか?」

 絞り出したような掠れ声でそう言うと、男は雪まみれのブーツを脱ぎ、返事も待たずに近づいてきた。私はユキの手をとって立ち上がらせ、かばうようにしながら壁際に移動した。男はそのままリュックを下ろし、暖炉の前にどかっと腰を下ろすと、火の方に手をかざし、「あったけえ……」などと呟いている。

 私はユキの小さな手を握りしめた。ツールナイフのしまわれている棚に近づきながらも、彼が追っ手なのか、そうでないのかの判断がつきかねていた。

「あの……。」

 何をどう質問しようか迷いながら、とりあえずことばを発する。

「あなたは……」

 あぐらを掻いて座り込んだ男は、火に手をかざしたまま首だけをねじって振り向き、「いや、ほんとに申し訳ない。」と顔を赤く火照らせながらとぼけたような口調で言った。男の身体や荷物に積もっていた雪が溶け始め、床にぼとぼとと水が落ちる。背中を向けたまま「ふう」と軽く息を吐き無造作にニット帽を脱ぐと、刈り込まれたとがった黒髪が雨上がりの芝のようにつやつやと濡れていた。

「ユキ、タオルと雑巾を持ってきて。」私はユキを、廊下に追いやった。

「ああ。うわ。すみません。」

 男は自分のまわりの濡れた床に気がつくと、まったく気持のこもらない、どこか上の空のような口ぶりで謝った。男は立ちあがると、青いジャンパーとジャンパーと同じ素材のズボンを脱ぎ始めた。分厚いそれらを二つ折りにして、暖炉の脇に積み重ねる。その上に、帽子やゴーグルやマフラーも載せた。手袋も脱ぎ、その上に置いた。焦げ茶のスエットと綿パンという軽装になると、男は再び座り直した。「いや、本当に、突然、こんな、申し訳ない。」

 背中を向けたまま、男はまた謝った。ぱちぱちと、火の爆ぜる音がする。私はナイフを棚から取り出し、右手にそっと握りしめる。

「まったく、ひどい、吹雪で。」男のことばが宙に浮く。

 とたた、と裸足で走ってきたユキがタオルと雑巾を抱えて私の横をすり抜けようとしたので、私は慌ててその腕を掴んだ。「あえ?」びっくりしているユキを背中の後ろにやり、右手も男から見えないよう後ろにやりながら、私は短刀直入に訊いた。

「あなたは、何者ですか?」

 男は振り向いて私を見上げた。浅黒さと裏腹に、妙にまっさらな印象のある顔だと思った。男はずりずりと座ったまま身体の向きを変え、火を背にしてあぐらを掻いた。重ねた足に両手をやり、ゆったりと肩の力の抜けた姿勢で、正面から、私を見上げる。女子全員に囲まれて責められても悪びれなかった、そんな小学校時代のクラスのガキ大将をふと思い出した。貫禄があるわけではない。賢そうでもない。ただ、どうしてこんなにくつろいだような落ち着きを持って座っているのだろう。こちらばかりが気負っている。

「僕はタロウです。」

 男は言った。ぼんやりとした表情で、阿呆のように名を名乗った。

「一体どうしてここに来たんですか?」

 畳み掛けるように、私は訊いた。

「ああ、実は僕は、ある研究所の一員なんですが……。」

 それだけで、もう充分だった。研究所ということばは、私にとってスイッチと同じだった。

 私は背中にユキを残すと無防備に座っている男に駆け寄り、男の肩を掴むと、右手に握ったナイフを振り上げた。

 身体の急所は知っている。万が一揉みあいになったって、傷のすぐ治る私に勝てる人間なんていない。ユキさえ奪われなければいい。


 がつん、と、手に衝撃が走った。確実に相手の頚動脈を狙った私のナイフは、肌に触れる寸前で、透明のガラスかプラスチックにでもぶつかったようにはね返された。

「えっ……。」

 訳がわからないまま、私は男から離れた。ふわりと柔らかなユキの身体が背中に触れ、混乱の中、とりあえずユキが無事にそこにいることにほっとする。男は身動き一つせず、相変わらずぼんやりとした顔で私のことを見上げていた。そうして私が襲いかかったのが単なる私の夢か空想ででもあったかのように、落ち着いた様子のまま話し出した。

「最近、ある『穴』の調査依頼を受けたんですよ、その、俺のいる研究所が。その『穴』は十年ほど前に、ある山の中の一空間に発生して、その周りではまあ、花の狂い咲きだの生物の奇形化だのといった、ちょっとした異常現象が起こっていた。」

 窓を叩く風の音がいつの間にかやんでいた。木の床も、壁も、作り付けの棚も並んだ本もしんと静まり返って男の話を聞いているかのようだ。男の背後の暖炉の炎だけが、音を立てて燃えさかっている。ユキが私の左手に、そっと後ろから温かな手で包むように触れた。手首にかすかにタオルがあたる。

「それまでの調査で、その『穴』――見た目はこう、山の風景の中に大きな黒い煙が塊になって渦巻いているような感じなんですけどね――のある場所には山小屋が一つあることが分かっていた。『穴』に取り込まれた空間はその小屋の周りだけ。そんなに広い範囲じゃない。ところがその『穴』に入って、小屋に辿り着けた人間は誰もいなかった。ちなみに今は春なんですよ。穴の周りは緑が繁って、まあ多少季節感を狂わせているのもあるようですが花が咲いてちょうちょが飛んで、明るい日差しの中で鳥がさえずってる。けれども穴の中に入った人の話によると、闇の中をしばらく行くと中は吹雪で、歩けども歩けどもどこまでも雪原しかないという。何人か遭難しかけて帰ってきました。」

 ぼーん、と不意に時計が鳴った。男は淡々とした表情で、首も動かさずに私を見つめて話していた。一体何の話をされているのか、私にはまったく分からなかった。触れているユキの手が、あたたかい。

「それでまあ、おまえちょっと行って来い、となったわけですよ。俺はまあ、さっきみたいに」

 ここで男はやおら立ち上がった。私は恐れを感じて後ずさった。が、男は躊躇なく近づくと私の右手を有無を言わせず掴み、あっさりナイフを奪い取った。私の全身は、震えに覆われていた。すがるように後ろ手で、ユキの手を握り直した。男は穏やかな表情で、まるで私を安心させるかのように後ろへ下がると、また元の場所に元のように腰を下ろした。それから私の方を見上げ、にいっと笑みを浮かべてみせると、逆手に持った右手のナイフを左手に向かって勢いよく振り下ろした。すると、先程と同じようなことが起こった。何か透明な硬いものに阻まれたように、ナイフは皮膚に触れる前にがん、と弾き返された。

「……こういう変わった体質だし、まあ他にもいろいろ、感覚とか能力とかね、異常発達している部分があるから。」

 話しながら男はナイフを平らに向け、ぺたぺた左手を叩いた。今度は何かにはね返されている様子はなかった。ナイフは肌に、触れている。

「んで……でもまあ一回で辿り着けるとは思ってなかったけど。辿り着けて我ながらびっくりしているわけだけども。」

 男はまた、感情の掴みにくいぼんやりとした表情で淡々と言った。それから一旦口をつぐみ、私の顔を、じっと見た。突き刺さるのとは違う、塊の迫ってくるような視線だった。しばらくすると、男はゆっくり口を開いた。

「……実は研究所で、あなたに関するファイルを見たことがあります。まさかこの事象にあなたが関係しているとは思ってなかったし、俺がそのファイルの内容を覚えていたのも偶然なんですが。」

 今や私は猫の前のネズミのように、激しく震えていた。ユキ、ユキ、ユキ、と、神様の名前を呼ぶように、心の中でユキの名前を繰り返すことで何とかその場に立っていた。後ろ手で掴んだユキの手が、まるで命綱のようだった。

 男はそのまままたことばを切り、私のことを、観察するように眺めた。男の背中の暖炉の炎が何故だか私の目に沁みた。ユキを守りたい、という思いと、自分はこの男に対してまったくの無力だ、という気持が私の心をずたずたに切り裂いていた。どうしていいのか分からない。

 男がうっすら笑みを浮かべた。それだけで、全身に稲妻のような恐怖が走る。

 ふうっと男は息を吐いた。

「俺は別に、あなたをどうこうしようという気はないんですよ。」

 かたかたかた。また風が強まり出したのか、窓が音を立てて揺れた。焦ったようにまばたきしながら私は男を見返した。

「俺は調査を依頼されて、幸運にもここまで辿り着けた。もちろん研究所に報告は出さないといけない。ただ、よく聞いてほしいんですけど、俺の今所属している研究所は、あなたをかつて追い回したような研究所とは、まるで違うんです。」

 これまで淡々と話していた男の声音に、初めて力がこもり始めていた。私を見上げるその視線が、これまでとは違う勢いを帯びている。

「その、かつていくつかの研究所が、非人道的なことをやっていたのは知っています。あなたが怯えるのも無理ないと思います。でも、今は変わった。すべての研究所は協定の元で法令を守っているし、昔のようなひどいやり方をする研究所は、もうないと思う。俺たちみたいな特殊な体質や力を持っているのはたくさんいるけれど、みんな保護も受けられるし、権利も保障されている。契約書、今は持ってないからお見せできないですけど。」

 そう言いながらも男は身体をひねって暖炉の脇に置いたリュックを引っ張り寄せた。めりめりと蓋を開けて取り出したのは、新聞だった。

「さっきも言いましたけど、この穴が出来て十年が経っている。あなたが最後に――移動中の車が事故に遭ったとファイルには書かれてましたが――確認されてから、十年が経っています。あなたが当時の写真とまるで変わらないのは、あなたの体質のせいなのか、この空間が特殊なのか、そこのところは分かりませんが。」

 床の上に畳まれた新聞紙を置き、その上に、男は小さな紙片を置いた。ずっと押し出すように板の上を滑らせて、私の足元に差し出して寄越す。

「この吹雪を起こしているのは――『穴』を作り出しているのは、おそらくあなた自身です。今急に、無理強いしたりはしません。あなたも今は混乱していると思います。ただ、これは俺の個人的な意見ですけど――ここにこもっているよりも、絶対外の世界に出てくるべきだと思います。あなたにとっても、その子にとっても。」

 男がそれまでとは違う、いたずらっこのような笑みを私の腰の辺りに向けた。いつの間にか、ユキが私の脇から顔を覗かせて男と視線を交わしていた。不安に駆られて私はユキの手を強く握り締めた。ユキはにこにこ笑っている。

「もし外に出たら、ここに連絡をください。支部がこの近くにあるから、直接来てもらってもいい。多分十年後も、二十年後もあると思います。……正直なところ、あなたのファイルを見て、しかもそれを覚えていたのは、あなたの体質が、俺に似てると、そう思って興味を覚えたからです。その、あなたに、不幸でいてもらいたくはないんです。」

 男は床を見つめた。ぼんやりとした表情に戻っていたが、その耳が少し赤黒く色づいていた。顔を上げずに身体の向きを変え、暖炉の脇に積み重ねていたジャンパーとズボンに手を伸ばすと、立ち上がって着始めた。顔を隠すようにマフラーをぐるぐる巻き、帽子をかぶり、ゴーグルをはめる。こもった声で「よ」とかけ声をかけ、リュックサックを背負った。

「帰ります。その、俺のことばを、ゆっくり、考えてみてください。お願いします。」

 手袋をはめた手で少しだけマフラーをずり下げて言うと、男はあっさり出て行った。

 冷たい風が、雪をはらんで一瞬ぶわりと吹き込んだが、扉が音を立てて閉まると同時に小屋の中から消え去った。

 普段と何も変わりなく、分厚い扉がひっそりと、私たちを守っている。

 暖炉の炎が大きく爆ぜた。床はすっかり乾いていて、タオルと雑巾を抱えたユキは、澄んだ目をして私のことを見上げていた。


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