2.「おかあさん」
「お、か、あ、さ、ん。」
まだ曖昧な発音で、けれどもユキは私に向かってそう呼びかけた。子ども特有の、あどけない、甲高い声をしている。
私は自分のことをおかあさんなどとは言ったことがない。だからかなり戸惑った。そうしていぶかしんだ。この小屋にテレビはない。ラジオも私は点けていない。私が発したことのないことばをユキが口にするというのは、どう考えても変だ。
「何て言ったの?ユキ。」
私は世間一般の人がよく乳幼児と対峙した時にするように、ユキに対して大袈裟な発音で積極的に話しかけるということはしていなかった。だからユキが今日までに覚えたことばは自分の名前とごはん、トイレ、それから「おはよう」「ありがとう」などのいくつかの挨拶ぐらいのものだった。私は人と話をするのがあまり好きではないし、ユキが早くことばを覚えて自分としゃべれるようになればいい、とは露ほども思っていなかった。けれども私が望んでもいない形のコミュニケーションを、なぜかユキは自分の方から求めてきた。私はそれを、不審という形で返した。
「ち、が、う、の?」
一音一音迷うように発しながら、ユキは問いかけた。
私は目元を歪めながら考えをめぐらせる。おかあさんと呼ばれることにはためらいがあった。確かにユキは私から生まれたようなものだが、それは普通の意味で「産んだ」わけではない。普通母親は十ヶ月も気を遣い不自由に耐えてお腹の中で子を育てる。そうしてさらに、産まれた子どもは赤ん坊で、ユキと違って至れり尽くせり世話をしなければならないものを、何年も何年もかけて、やっと今のユキぐらいにする。ユキはまだ、生まれてから一週間しか経っていない。ありえないスピードで、ユキは勝手に育つ。私はほとんど何もしていないのに、「おかあさん」と呼ばれるいわれはないような気がする。
「違うか違わないか、分からない。」
私は自分のことばがどれだけユキに通じるのか疑問に思いつつも、大人と話すのと同じ調子で答えた。「考えてみるから。そのあとで、答えを出すわ。」もしも通じているとしたら、ユキは私のこの反応に傷つくだろうか。そんな考えが頭をよぎったけれども、私は安易に結論を出したくなかった。それに私の中には、ユキなんて、所詮私の肉塊から生まれた「妙なもの」に過ぎないのだ、という気持が少なからずあった。「傷つく」なんて、そんないっぱしの人間みたいなこと、このユキがするものだろうか。
ユキはいつものように澄んだ目を、じっとこちらに向けていた。私のことばを受け止めたかのように、その目が少し、揺らめいて、そうして小さく「うん。」と言った。それからは、いつも大抵そうであるように、暖炉の中の火が燃える音、壁の時計がかちこち鳴る音、風が窓を揺らす音だけがすべてとなった。私は椅子に腰かけて、作り付けの大きな本棚から見つけた、百科事典を開いた。ユキは投げ出すように脚を伸ばして床に座り、ぼんやり壁を眺めていた。
背中がやけに寒くて、お尻はひどく冷たくて、でもどうしようもなかった。
ふと思い出した。それは確か中学生の時のことだと思う。制服のスカートの下から伸びた足首で、白い靴下は真面目に三つ折りにされていた。背中が寒いのは、ブレザーの上からざっくり斜めに切られたせいで、布地の破れ目から冷たい空気が肌に触れてもはおるものもないのだった。私はまったく一人だった。何も持ってはいなかった。そこは銀色の箱のような車の中で、鉄格子の嵌った小さな窓が一つ上の方にあるだけなので、地下室のように暗かった。タイヤの振動が直接伝わるようなひどい乗り心地で、身体全体が攪拌され続けているような状態だった。私は疲れ切っていた。硬い金属の床からは、家畜の糞尿のようなにおいがしていた。これから連れて行かれる場所で、私が人間扱いされる可能性はゼロに等しかった。私は目を閉じて、膝に顔を押し付けた。
私は時折、見えるはずのない場所が見えることがある。壁の向こうの別の部屋や、何キロも隔てた場所の光景が、頭の中に浮かんでくる。初めのうちは自分の空想かとも思ったが、どうやら実際の様子が見えているらしいことを、中学生の私はすでに知っていた。それは自分がいたことのある場所や行きたいと強く思った場所のことが多かったが、自分では制御ができず、いつも勝手に流れ込んできた。その時も、そうだった。その時に見えたのは、数時間前まで私のいた学校の教室だった。ぼんやりと、机や椅子が並んでいるのが分かる。そうしていつものようにその輪郭は次第に鮮明になり、まるで映像を見ているようにはっきりとしたものになった。
教室に、生徒は誰もいなかった。そこには私の担任の先生と、今車を運転している追っ手と共に来た、関係者らしい男の一人がいた。その時の担任は快活な男の先生で、塞ぎがちな私のことを、いつも気にかけてくれていた。その先生の目の前で、私は背中を切りつけられ、そうして「化け物のように」その傷を見る間に治してしまっていた。けれども先生は、なおも私が連れていかれたことに納得がいかない様子で、きっちりと黒いスーツを着込んだその関係者の男に食ってかかっていた。「彼女が私の生徒であることに変わりはない。一体どういうことなのか説明してほしい。」
そんな言葉を私は遠く離れた車の中で、切ない気持で聞いた。男の方は、椅子に座ってうんざりしたような顔で先生を見上げると、皮肉な笑いを浮かべながら答えた。
「さらっと忘れることですよ、先生。あれがあんたの娘ってわけでもないんだし。」
先生は、憤慨しながら何か言い返した。けれども男は呆れたような表情で、傷めてでもいるのか、手をぷらぷらとやる気なく振ってみせながら言った。
「あんたには、自分の子どもがいるでしょう。生徒が大事、結構なことだが、自分の子どもの方が大切でしょう?」
先生はなおも何か言った。けれども明らかに顔色が変わり、気勢が削がれているのが分かった。映像は、そこまでだった。静かに机の並んだ教室は次第に淡くなり、泣きそうに顔を歪めた先生と、笑みを浮かべてどこか疲れたようにそれを眺める男の姿がにじんだように溶けて消えた。がたがたとひときわ強い振動が伝わってきて、私は自分が今いる場所に引き戻された。くたびれた制服のスカートに額を押し付けて、私はじいっと胸の中の冷たい嵐に耐えていた。自分をくるむように丸まって、自分の身体の一部と一部が接することで生まれる熱に、何とか救いを求めていた。
私の親がもし生きていたら、とその時思った。
もし私の親が生きていたら、私を守ってくれただろうか。たとえ化け物のような体質を持っていても、自分の子どもだからというただそれだけの理由で、無条件にかばってくれただろうか。何を置いても一番に私の身を案じ、私のことを大事にしてくれただろうか。こんな訳の分からない大人たちに、好き勝手にはさせなかっただろうか。
ぽーん……と壁の時計が鳴ったので、私は我に返った。夜の七時半だった。お風呂を入れようと思い、私は立ち上がった。ユキは身じろぎ一つせず、手足を投げ出すように座ったまま、波のような筋を描き出す木の壁の高いところを見つめていた。私は風呂場に行き、蛇口を捻って湯を注ぎいれた。そうして部屋に戻ったが、ユキはまだ、同じ姿勢で動かなかった。二十分ほどが過ぎ、そろそろ湯が溜まった頃だと思ったので、私はユキに声をかけた。ユキが自分で立って歩けるようになった日から、私は彼を一人で風呂に入らせていた。ユキははっと身体を揺らし、焦点を合わせるように私を見ると、まだどこか上の空の様子で、小さく「うん」と呟いて、それから小さな手を床について立ち上がり、よたよた左右に大きく身体を振るように歩いて部屋を出て行った。
それから一時間が経っても、ユキは風呂場から戻ってこなかった。一時間半が経った頃、私は様子を見るために、椅子から立ち上がった。廊下に出ると冷えた空気が身体を取り巻いた。スリッパを床に擦らせながら暗い廊下を歩き、灯りのついた洗面所へと向かった。「ユキ?」浴室のドアの擦りガラスはほんのりオレンジ色をたたえていた。けれども中からは、何の物音もしない。
私はがらりと戸を開けた。ユキはいた。浴槽に浸かっていた。小さな身体がすっかりお湯に浸かっていた。うつむくようにして、頭の先までお湯の中に沈んで動かない。その身体はいつもより一層白く、ふやけたようにお湯の中でゆらめいている。
「ユキ!」思わず私は叫んだ。駆け寄って、ブラウスが濡れるのも構わずに腕を突っこんで湯の中からその身体を引き上げた。ユキの身体はすっかり力を失っていた。湯の中にあったはずなのに、異様に冷たい。つやつやと赤かった唇が褪せたような紫色に変わっている。いつも私にじいっと向けられていた、つぶらな瞳は閉じられて、まぶたは青色を帯びている。「なんて馬鹿なの!馬鹿!」私はののしった。みずみずしくはちきれるような生命力にあふれていた手足は、ぐんにゃりと重力に従ってぶら下がっている。その身体の軽さに私はうろたえた。どうしてこんな、たとえ異常に成長が早いにせよ、生まれたばかりの何も分からない小さな子を、一人で風呂に入らせたりしたのだろう。「馬鹿!」いつの間にかその叫びは、誰に向けたものか分からなくなっていた。「馬鹿!馬鹿!馬鹿!」私はユキを抱きしめて、わめき続けた。タイルの上にしゃがみこみ、その冷え切った小さな身体に顔をこすりつけるようにして、ありったけの声を張り上げ続けた。
どのくらい時間が経ったのか分からない。ぷくっと小さな音と共に何か温かな液体が流れてきて私の頬に当たった。お風呂のお湯も、濡れた身体も私の涙もすっかり冷えていたはずだった。いぶかしみながら私は顔を上げた。ユキの小さな唇から、とろとろと透明の液体が流れ出ていた。続いて、こほ、けほ、と咳き込むようにして、さらに水が吐き出された。ぽよぽよとした眉をゆがめるようにして、ユキのまぶたに力が入った。そうして花が咲くように、ふわりとその目が開かれた。
「……ユキ?」
澄んだ二つの目が、じっと私のことを見上げていた。少し色の戻った唇が、かすかに動いて「う」と小さな声を発した。命が身体に戻っていた。小さな手足が、生きたものとして動いていた。
私はユキに、厚着をさせた。私の服を重ねて着せ、その上から膝かけを羽織らせた。ユキは大人しく包まれて、暖炉の傍に座っていた。私は椅子に、腰かけた。
ユキはたどたどしい口調で私の質問に答え、今日ずっと、外の世界を「見て」いたことを白状した。初めは勝手に流れ込んできたが、そのうち自分の意思で、望んだ場所を自由に見ることができるようになった。その中で、ユキは急速にことばと知識を吸収したのだろう。夢中になって「見て」いると、実際の、自分の身体を忘れてしまう。そうして気がつかないうちに、お風呂の中で身体は溺れていたのだ。
気をつけるように、と私はユキに注意した。自分の身体を大事にしなさい、そう厳しい声で言った。それから大きく息を吸い、何故か自分の頬が熱くなるのを感じながら、私はユキに、保留にしていた答えを返した。私はユキに、私を「おかあさん」と呼ぶことを許した。私はユキの、親になろうと思った。