魂の行方
老人は山の頂きを鋭く見つめる。あの山の先では辺境伯が連合王国との終わるともしれない戦を飽きもせずに続けている。――今日はやはり雨となった。
あの山よりこちらは先代までは飛び地の領の戦に頻繁に首を突っ込み、領民からは貪欲に税を貪った。
それも今は貧乏であるが比較的落ち着いた治世を見せるハルオの登場により、越えるも地獄超えぬも地獄と言われた険しい山道をこちらの領に逃げ込む領民が増していた。豊かであった旧時代、どうして民がこのような峻険な尾根を踏破し同じ国の別の領に逃げこむような事が起き得ただろうか。
老人は歴史を学んでいた。そして、数々の旧時代の遺跡を発掘しその時代の人々の生活に思いを馳せる。そんな男であった。慣れ親しんだ思考の深淵に潜り込む合図。それが老人にとっての雨というものであった。
「ラーム様、少しよろしいでしょうか?」
「ん?あぁ、ええよ」
思考の縁に手を掛けたラームは涼やかな声に現実に引き戻される。ティオなどが相手であればそのまま無視を決め込んだものだが、このララというオオカミには何か惹かれるものがある。
「何を待っているのでしょう?」
「くくくっ、なかなか面白い事を言いますなぁ、どうして待っていると思いましたかな?」
「勘というものです、セトがいつも使っております、人はそうして逸らかすのです。」
「なぁに、セト殿は恥ずかしがり屋の口足らずというものでしょう、人は皆が皆、勘では動きませぬ」
「おや、そうでしたか」
他愛もない会話だが心洗われる気分になった。礼に少しサービスでもしてやるかという気になったラームはなぜ窓の外を眺めていたのかを懇々と説明しはじめた。
「わしはかつて、あの山を越えてこの領地に逃げてきた避難民でしてのぉ」
「ほうほう、あのお山を」
「そうじゃ、あの山から見たこの領は大変豊かに見えたもんじゃ。夢を持ってあの峠を超えた」
朝晩は寒さがぐっときつくなった村の宿では薪がチリチリと燃える。
「わしはのぉ、隣領に幼なじみを置いてきた。毎年その家族がわしと同じようにあの山を超えぬものかと待っておるというわけじゃ」
「見ればニンゲンとしては少々歳を召しておるようですが……。」
「そうじゃの、40年はまっておるのよ。」
くつくつと嗤う老人は歳よりも幾分老けて見える。そうこうしている内に猩々を生業にする村に住み着きましてな、なにこの村の傍じゃよ。ある噂を聞いて一度だけあの山に戻ったことがあるのですじゃ。段々と興味の色が濃くなる眼差しを一瞥して、ラームはいよいよ本腰を入れて初めてすべてを話す事にした。
「その先の話に興味があるのかの?」
「そのような語り口では興味を持たぬのがおかしいぞ」と言って耳をそばだてる。尻尾もぐんぐん揺れている。それを見てふぉふぉっと短く笑うと薪を2本追加した。投げ込んだ薪の重さで炭が爆ぜる。
「隣の領から大規模な移民団が山を越えて逃げてくると知らせが届いたのじゃ、あの山は冬は寒い、いまの季節よりも少し寒くなった時期じゃったんじゃよ」
若かりし日のラームは日のある内は大工仕事を手伝い、夕方は酒場で働き、金を蓄えていた。その金はすべて自分の夢であった探検のための活動資金である。随分手元に金も溜まりいよいよ出立しようというときだ。酒場で大規模移民の噂話を聞いた。
ラームは長年気になっていた幼なじみの消息に少なくない金を投じたが、集まった情報はまだない。それでも毎年、自らが越境した時期になると後を追ってこぬかと山の麓にキャンプを張って待つこともあった。探検家としての修練も兼ねていたのでラームにとっては苦ではない。
いよいよかという時期になり親方に暇をもらい、酒場の主人にはよい機会なので旅に出ることを告げていつもの山の麓のキャンプ地に篭った。キャンプで越冬の経験がなかったラームはこれ幸いとひと冬をそのキャンプで過ごすことにしたのだ。
「おぉ寒い寒い、これは来ぬかなぁ?」
キャンプを張って随分経つ頃、寒さに愚痴を零しているとさわさわとした声が聞こえた。夜も更けた丑三つ刻である。なんだろうと思いキャンプから顔を出す。
麓を下るボロボロの集団を見た。
薄く積もった雪の上を足あともつけずに、浮いている。
ギョッとしたラームは息をするのを忘れ、その集団を凝視する。得物は腰にある。得物にかける手は小刻みに震えている。
さわさわと話す声が聞こえるが、だんだんその音が近づいているように聞こえる。さわさわからさめざめと泣く女、男が音の主であることがわかる。
『ははぁ、これはもしや思いだけが霊魂となり山を下ったか……。」
ラームは呪術に詳しいわけではない。だがこれは人ならざる者。キャンプに引き篭もり過ぎ去るを待とうとそっと開けたキャンプの入り口を下ろそうと右を見たときだ。
『ラーム、久しぶり、あんたに、会いに、来たわ……」左側の衣をすべて開け、胸をギトギトに血に染めたような薄い姿の幼なじみがそこに在った。
ぎゃー
悲しげに眉を顰める幼なじみは締められた跡の残る右手をかざしてラームを摑もうとする。その腕を振り払うようにキャンプから飛び出すとラームはひた走った。走って走って息も続かぬようになってようやく振り向くことができた。
そこには朝日が顔を覗かせていた。都合数刻は走り続けたことになる。ラームはバツの悪い思いをした。きっと自分に会いに来てくれたのだ。その男に必死の形相で逃げられては救われない。ラームは痛む脚を叩いて元来た道を同じように必死に走った。
キャンプに戻ったときだ、何も変わらない、しかしラームの心は淀んでいた。先ほどの事が夢であったように美しい自然が山を彩っていた。その美しい景色すら見せてやることも、慰めることもできなかった。
ラームは決意した。いずれ、この山のどこかで遭難か何かした……。いや。先ほどは必死で何も頭に残っていないと思ったものだが、あの姿。あれは人の手によるものだ。襲われ、殺されていた。
怒りがラームの頭を満たす。
「なんてことだ!!あいつは誰かに襲われたんだ!」
ラームは峠に向かって走った。
−−
そしてわしは見つけたんじゃよ。どこぞの軍が流民を惨殺した現場にのぉ……。幼なじみの娘?あぁおったとも、わしが見た通り強姦されて槍で突き刺されておった。手には布切れを握りしめておってのぉ。それがこれじゃよ。と状態保存の呪術をかけ水晶のケースに納められた件の布を取り出す。悔しかったのぉ。そのときから涙が枯れたんじゃよ。
そういう悲しいお話じゃよ。
わしは待っておるんじゃ、あのときの娘っ子の霊魂にまた会えることをのぉ……。




