だいにわ
「僕と付き合ってほしい」
僕の目の前には玲子が立っていた。年齢は十七くらい――今の未来と変わらないくらいに見えた。顔は本当にそっくりだった。
玲子は少しだけ目を開いた。驚いているようにも見えた。
「……私、あなたのこと嫌いじゃないわよ」
僕は平然と答える。
「知ってる。だからこうして言ってるんじゃないか」
玲子は少しだけ考える素振りを見せた。昔からいろんなことをよく考え、観察してから決める理知的な女性だった。僕は彼女のそういったところが、好きだった。
玲子は微笑んだ。
「……ええ。いいわよ。私で良ければ、だけど」
「十分だとも」
確か僕は、そう言った。
こんな夢を、玲子が自殺してからの十数年間ずっと見続けている。僕は悔やみ続けている。自分だけが老いていくという感覚を、僕はずっと知らない。生徒を亡くした小学校教師は言う。ほかの子たちが成長していく中、死んだあの子だけ時間が止まっている、と。そういう意味で僕は死人にも等しいのだ。僕だけ時間が止まっている。永久に、永遠に。幼い未来は高校生になった。彼女もやがて僕より年上になって、老い、最後には死んでいく。そのことを思うと少しだけ悲しい。でも、少しだけだ。僕はあまりにも長く、生き過ぎた。何人という人間が生まれ、そして死んでいくのを目にしていると、嫌でもそういうことに慣れるようになる。だからといって悲しさが薄れるわけでは、決してないのだけれど。
玲子を失ったことは悲しい。そして彼女が死んだことは僕に原因がある。そのことが何よりも悔しい。ただただ、やるせない。配偶者の見た目――肌の艶も、張りも、潤いも変わらないのに、自分だけが醜く老いて行ってしまうという状況が、どれだけ人を苦しめるのか、どれだけ玲子を苦しめたのか、僕にはどうあっても知ることが出来ない。それは仕方のないことだ。仕方のないことだとわかっているからこそ、僕は玲子の気持ちに近づけなかった。寄り添うことも出来なかった。悔しかった。それだけだった。
僕は死ぬこともなく、老いることもないからだ。
「起きましたか」
目を開くと、ベッドに横たわっていることが分かった。無機質でのっぺりとした、よく見慣れた部屋だった。例によって僕には精密機器の一つも繋がれてはいない。
「……未来は無事かい」
僕はつぶやいた。それだけが心配だった。
「ええ。幸いにして、無事避難されたようです」
「そうか。それは良かった」
僕はベッドから起き上がる。若い女の研究員は僕に尋ねた。
「それにしても一体何があったんです? あなたのベルトから非常事態の連絡があってからあなたが死ぬまで約五分。その間にあったことを詳細に話してください」
「テロが起こったんだ。それに巻き込まれた。最初僕たちは○○ってカフェにいて――」
つらつらと起こった出来事を述べた。
「それにしても今日は何日だ? あと日本は今どうなってる?」
研究員は淡々と告げる。
「テロが起こったのは一昨日よ。いつも通りイスラム過激派の。でもフランスのようにはいっていないわね。非常事態宣言を出すことは日本の憲法が認めていないから、自衛隊と警察を派遣してテロの芽をつぶすのも困難って状況。憲法を無視して対策を取れば、次の政権に響くでしょうからそういうことも出来ないんでしょう。あと今朝アメリカの大統領が日本への軍事介入を宣言して――」
研究員の言葉を僕はさえぎった。
「日本は混乱の真っただ中というわけか」
「そういうことよ」
「未来は今どこにいる? 家か?」
「ええ。そうね。今日は外出を禁止する勧告が出ているから、恐らくそうだと思うわ。それにしても日本政府は馬鹿ね。そうやってテロに怯えることが、テロが目的とすることだというのに……」
どうでもいいことを話し続ける研究員を僕はまたしてもさえぎる。
「僕は帰るよ。さすがに今日はモルモットとしての仕事も休みだろう?」
研究員は笑った。
「ええ。さすがに、ね。何か困ったことがあったら、呼んでくれればいいわ」
「わかった」
僕の住むマンションは僕の仕事場の隣にある。僕のために作られたマンションだからだ。茶色いどこにでもありそうなマンションで、僕の部屋はそれなりに大きい。
「ただいま」
僕は淡々と玄関の戸を開け中に入る。返事はない。リビングに未来の姿はない。自室にいるのだろうか。
「未来?」
僕はノブを回して彼女の部屋に入った。世間一般の父親とは違って、僕は娘の部屋に入ることを許された数少ない父親だろう。
「……?」
そこに未来はいた。彼女はベッドで横になっていた。瞳からは意識が消えかかっているように見えた。僕はすぐに事態を察して、彼女の横に腰掛ける。右手で未来の背中をゆっくりとさすった。
「……っ」
最初はゆっくりと、次第に強く、そして優しく。
未来は涙を流し始めた。彼女は僕のお腹に頭をうずめてわんわん泣いていた。僕は怯える未来をただ安心させるために、彼女を愛撫した。
「大丈夫だよ。僕はいなくなったり、しないから」
できるだけ優しい口調でそう言った。未来は大切なモノを失くすことをひどく嫌う。昔から失くしすぎたからだ。最初は玲子だ。続いて仲間や友達。僕の性質上、全国いろんな場所を転々と暮らしてきた。その行く先行く先で出来た仲間と、彼女は連絡を取ることが出来ない。移動は唐突に行われ、機密を守るために連絡を行うことは厳禁とされているから。僕の体質がまた未来すら傷つけている。申し訳ないと思う。
「……うん」
未来は掠れた声でそう言った。そして、
「……だいじょぶ」
と言ってから、起き上がった。パジャマのままだった。泣きはらした瞳はまだ眠っているかのようで、その視線の先は判然としない。寝ぼけ眼のまま未来はぼうっと僕を見つめてそれから――
僕に抱きついた。そのやわらかい胸の感触が、恐ろしいほど鮮明な既視感を想起させる。
――愛している。
玲子はそう言って僕に抱きついた。あの時の記憶がフラッシュバックする。僕は混乱する。未来の匂いも身体の感触も、何もかも玲子にそっくりだったから。
僕は慌てて未来を引きはがした。娘の肩をしっかりと持って、じっと未来の顔を見つめる。ダメだった。僕の異常な精神が、どうしても未来を玲子だと思おうとしていた。部屋が暗いのもあるかもしれない。見つめれば見つめるほどに僕の娘は玲子にしか見えなかった。
未来は僕の胸にもう一度寄りかかる。目はトロンとしていて、酒でも飲んだのかと疑うほどだ。未来は僕の耳元で囁いた。
「すき……」
ぎょっとした。未来の表情を凝視する。幸せそうに目をつむっている。僕の体の内側でどす黒い欲望が首をもたげる。僕の右手が未来の柔らかな胸に触れようとしている。触れたいと僕は思っている。ダメだ、娘だぞ、わかってるのか? 僕は必死に自身の衝動と戦う。彼女は未来であって、玲子ではないのだ。今は亡くなってしまった玲子では――ないのだ。
それでも僕の衝動はとどまることを知らずに――ついに理性が崩壊しかけた、その時だった。
「おとうさんのこと……すき……」
未来がそう、つぶやいた。
その瞬間僕の欲動はすべて収まっていた。凪みたいに、ぴったりと。
僕は茫然として、未来の背中をまた撫でさすった。
そして唐突に聞こえてきたのは、インターホンの音だった。