25.神官見習いと邪悪な存在と
くそ、くそ、くそ
必死に逃げる。しかし、全身の骨と筋肉が激痛とともに悲鳴をあげている。脚がまともにうごかない。よろよろと這うようにしか進めない。
腹の中にはもう何も残っていない。殴られた直後、胃の中のものはすべて吐き出したはずだ。それなのにまだ胃液が上がってくる。おう吐感がとまらない。
『喧嘩の証拠になる傷をつけないよう手加減したつもりだったけど……。口もきけないようにしてやった方がよかったかな?』
殴られた相手の顔が目の前にちらつく。涙と鼻水を垂らし恐怖に怯えた俺を見下ろしながら、余裕たっぷりの表情でニヤニヤと……。
くそ、あの野郎、なめやがって!
チヤゴ・ウェリン。彼が王立学校に入学したのは、高等部からだ。
幼年時代は神殿で神官見習いとして過ごした。そのまま神殿で修行を続ける選択肢もあったが、彼が持つ光の魔力は同期の少年達と比べてもそれほど強くはなかった。親のあとを次ぎ神官の職に就くことは決まっていたものの、そのままでは神殿内で高い地位を得ることは望めない。強力な魔力をもつ同僚を蹴落とし出世するためには、魔力よりも政治力やコネを鍛える必要がある。だから、彼は王国有力者の子弟が集まるエリート養成機関である王立学校に入学したのだ。卒業後神殿に戻れば、それなりの待遇が約束されているはずだ。
彼にとって、神官とは聖なる存在ではない。神殿は、神官となる彼に金と地位を与えてくれるはずの職場に過ぎない。敬虔な信徒達が神に祈るのは勝手だが、神官がそれに付き合う必要などない。
そもそも、この世界の神が祈るに値するものならば、敬虔な信徒であった母の病気すら治せないはずがない。父上の聖なる治癒魔法が効かない病など存在するはずがない。神とやらが祈りに答えてくれていれば、母は死なず、治療のために我が家があれほどの借金を背負う必要もなかったはずなのだ。
『父上にお願いして、おまえを縛り首にして神殿にさらしてやる!』
……とっさにああは言ったものの、本気でそんなつもりはない。そんな恥知らずなことを、あの厳格な父が許すわけがない。ただ、あのままあの平民の小僧に負けるなど、プライドが許さなかったのだ。
ノブ・イーシャ。
たしかに、あの平民は目についた。周囲の貴族、王族にすらまったく気をつかわず、学園で自由気ままに振る舞う成金の小僧。もしかしたら、その自由さが羨ましかったのかもしれない。だから、たまたまつるんでいた貴族の連中から奴を懲らしめようと誘われた時、ついていっただけだったのだ。
それなのに。……くそっ。腹だけではない。全身が痛い。たった数発喰らっただけのはずなのに、冒険者というのは、いったいどれだけの力をもっているのか。
自分に治癒魔法をかけることはできる。しかし、校内で無許可で魔法を使うことは禁止されている。治癒魔法を検知されたら教師に詰問されるだろう。そうしたら、もうひとりの赤毛のガキに脅されたとおり、実家の恥がさらされることになる。さらに、集団で一人を呼び出したあげく、こてんぱんに負けたのが学校にばれてしまう。
げぇ。
ふたたび道ばたに両手をつき、吐く。もう胃液しかでてこない。苦しさと悔しさで、目から涙がにじみ出る。
くそ、くそ、くそ。あの野郎。絶対に許さない。俺は神官だ。どんなに強くても、たとえ英雄の息子でも、一介の冒険者などいつか叩きつぶしてやる。……高等部を卒業して、大神官になるまでどれだけかかるんだ?
……と、背中に何かが触れた。心地良い感触。四つん這い、屈辱的な姿勢で胃液を吐く俺の背中をやさしくさするのは、誰だ。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。すまない。少し楽になった」
まだ顔をあげる事はできない。とりあえず礼を言う。しかし……。
これは、……なんだ?
確かに背中をさすられて楽になった。しかし、手の平から背中を通じて伝わってくるこれは、いったい何の魔力だ?
俺は神官見習いだ。アンデッド、吸血鬼、サキュバスなど人類の敵、邪悪な魔力を操る存在を検知し、光の魔法で消し去るための訓練を受けてきた。
いま感じているこの魔力は、神殿で修行中に経験したことがある。拘束魔法により捕らえたアンデッドを使った演習で感じた、邪悪な魔力そのものじゃないのか?
おそるおそる顔をあげる。
一瞬、女の子にみえた。しかし、確かに制服を着ている。メガネをかけた少年。
「お、おまえ、……いや、君、か?」
「えっと、苦しそうだったので背中をさすってあげようと思ったんだけど、……余計なお世話でしたね。ごめんなさい」
手を引っ込めながら、困惑した表情の少年。まだ声変わりしていないのか、鈴の音のような声。
俺はこいつを知っている。ミウ・イーシャ。飛び級でアカデミーに推薦されたという噂の秀才。平民のくせにジョアン殿下と同室。そして、俺をこんな目に遭わせたノブ・イーシャの兄だ。
「い、いや、迷惑なんかじゃ……。すまない。びっくりしただけだ」
邪悪な魔力は、……まだ感じる。どこだ? ……そこか。
「えっ? ああ、これですか」
俺が睨みつけたのはミウの持つカバンだ。黒くて禍々しい触手がゆらゆらとのぞいている。
「弟と冒険者の仕事にいったとき捕まえた触手スライムです。ペットにしてるんだけど、……気持ち悪いですよね」
触手スライムだと? たしかに人間も襲うモンスターではあるが、もともとこいつは邪悪な魔力なんて持っていないはずだぞ。あえてアンデッド化でもしない限り。こいつはいったい……。
げぇ。
口を開いたせいか、また胃の中からこみ上げてきた。同級生の目の前で不様な姿をさらしたくはなかったが、背に腹は代えられない。俺は三度地面に手をつき、胃液を吐く。
「えーと、……背中、さすりますよぉ」
返事などする余裕もない。
ミウが背中に手をかざすと、ふたたび強力な邪悪な魔力を感じる。これは本当にスライムから発せられているのか? まさか、こいつ自身が? だが、……優しい手がここちよい。
「おさまった? ……どうぞ」
一息ついた自分の目の前にだされたのは、……ハンカチ?
ミウに視線を向けると、小さな指で口元を指さす。あわてて自分の口元を拭く。胃液とよだれと鼻水とわずかな血が、綺麗なハンカチに拭われる。
くそっ、くそっ、くそったれ!
「ひょっとして、喧嘩、……ですか?」
「……ああ」
おまえの弟にやられたんだよ! とは口にできるはずがない。
「うちの弟も喧嘩ばかりして、よくお父さんと家を半壊させるほどの勢いで殴り合いをして、お腹に正拳喰らって、全身壁にたたきつけられて、胃の中のものみんな吐き出して……。あれって、しばらく何も食べられないらしいですね。まぁノブの場合は人並みはずれて頑丈だから、すぐ治っちゃうんですけどね」
……家をぶっ壊すほどの喧嘩って、そんな化け物のはなしが普通の人間である俺の参考になるわけなかろう。
「あ、いえ、ノブのことはともかく。……しばらくは柔らかいものを食べた方がいいですよ」
平民のくせに、差し出がましいことを言いやがって。
「俺は神官だ」
俺の一言で、ミウはあきらかに動揺している。……なぜだ? やましいことがあるのか?
「君の弟ほど頑丈ではないが、これくらいのケガはいざとなったら治癒魔法で治すことができるさ。……でも、ありがとう。助かったよ」
ホッとした表情のミウ。話はすんだとばかり、膝をそろえたままそそくさと立ち上がる。動きがいちいち男らしくないな、こいつ。
「弟に用があるので、いきますね。おだいじに」
あ、まて。
ハンカチを返そうとして、気付く。こんなに汚してしまったものを、そのまま返すわけにわいかない、か。
と、俺の視線が追いかけている先で、ミウがこけた。ほんのちょっとした段差で、自分で勝手にこけたのだ。あいつは体育系の教科はすべて赤点だと聞いたことがあるが、本当に鈍い奴だ。見てられない。
とっさに振り向き、頭をかきながら笑ってごましている。助け起こし行きかけた俺を手で制して、飛んだメガネを拾ってかけ直す。よっぽど恥ずかしいのだろう。そのまま駆け出していってしまった。
……今、振り向いた時にみえた瞳、赤くなかったか? そしてミウが振り向いた瞬間、膨大な量の邪悪な魔力が放出されなかったか? 俺を直撃したあれは、……魅了の魔法じゃないのか?
2015.04.29 初出




