02.人類の裏切り者と神に仕える者と
月も出ていない夜。深い森の中を二つの影が走る。
獣道ですらない藪の中、枝を打ち払い、下草をかき分け、男が道を切り開く。その後ろ、脚がもつれながら、息を切らしながら、子どもを抱いた女が必死についていく。
彼らの背後の空が明るい。真っ赤な炎が夜を照らしている。ついさっきまで彼らが平和に暮らしていた隠れ里が燃えているのだ。
「くそ、ミウが予言した通りになったな。もっと真面目にとりあっておけば……」
大きな川の畔にぶつかり、一息入れた男が振り向く。女が胸に抱くこどもの頭をやさしくなでる。
やっと授かった愛しい娘は、やすらかに眠っている。里を襲った恐ろしい光景を見せないよう、妻が薬草で眠らせたのだ。
「あなた。この子だけでも、なんとか……」
男を妻がみつめる。中に映る俺の姿を燃やし尽くしてしまいそうな真っ赤な瞳が、たまらなく愛おしい。
俺は、この女のこの瞳には決して逆らうことができない。比喩ではない。のろけでもない。妻に逆らおうとしても、肉体がそう動かない。そもそも、逆らおうなどという感情は、俺の心の中に決して生じない。俺の胸の中に刻印された妻の魔力がそれを許さない。俺にとって、妻に従うことは、自分の命よりも、この世界の全てよりも、比較にならないほど重要なことなのだ。
妻と子をたまらなく愛しいと感じるこの気持ちは、俺の自発的な愛なのか。それとも、妻の一族に代々つたわる呪いのによるものか。いくら考えてもわからない。
だが、そんなことはどうでもいい。俺は彼女がサキュバスの一族だと知った上で、自分から彼女に魂をささげたのだ。そして、その代償として人間を超越した不死身の肉体を得た。『サキュバスの夫』となったのだ。
サキュバスである妻なしでは生きられず、絶対にさからえない身であることなど、些細なことだ。いまさらそれを後悔などするわけがない。
「そうだ。俺は娘を守る。ミウだけでも助けてみせる。それが『サキュバスの夫』である俺の使命だ」
あらためて娘の顔を覗き込む。両親を全面的に信頼して安らかに眠る娘。
我が子ながら、出来すぎた娘。まだ五歳のくせに、少々舌足らずながらも大人と同じ難しい言葉を使いこなし、こんな隠れ里でまともな教育も受けていないのに文字の読み書きすらできる。
それだけではない。ミウはこの世界について、恐ろしいほどの知識を持っている。まったく教えていないのに、ミウは魔法やモンスターやサキュバスについて知っていた。さらに、いつか王国の神官達がこのサキュバスの一族の隠れ里を襲うことも予言していた。もしかして『この世界』を作った神の生まれ変わりかと疑ったことすらある。
そして、強大な『魅了』の魔力。
この娘なら、母親以上に強力なサキュバスになるだろう。これほど強大な魔力の持ち主なら、俺のような奴隷を、ひとりではなく複数同時に従えることもできるだろう。……いや、妻の娘のことだ。きっとひとりの男を一途に愛するに違いない。
俺の妻と娘は、サキュバスだ。一族には女しかいない。彼女達は人間の男を魔力で魅了して強制的に夫とし、精気や血液をすする邪悪な一族だ。
彼女達に精気を吸われた哀れな生贄の魂は、強力な魔力の鎖により捕らわれる。本人の意思など関係なく、絶対に逆らえない奴隷となってしまう。
同時に、奴隷の肉体は、人間ではなくなくなる。邪悪な魔力により、一種のアンデッドに変質してしまうのだ。そして、俺のような絶対不死の超人的な力を得ることになる。
要するに、サキュバスとは、愛する男を人ではない者に変え、奴隷として操り、自分と娘の命を守らせる生き物なのだ。
いずれ、この娘も好きな男を奴隷とするのだろうか。いや、ミウが魅了の魔力をつかってむりやり男を奴隷にするはずがない。ミウに惚れた男が、自分から身体をささげるに違いない。俺が妻にそうしたように。ミウの夫がどんな男なのか、義理の息子の顔をみたいような気もするが、……どうやら無理そうだ。
尋常ではない人数の白い人影が、俺たち親子を取り囲む。こいつらは、俺たちのこの世から消し去る『光の魔法』が使える。こいつらが手にしている剣は、俺たちの肉体を崩壊させる『破邪の剣』だ。
俺は剣を抜く。愛する妻と娘を守るために。
「神官どもか……。いったい何人いるんだ? 王国全土の神殿からかき集めたのか? たった数人のサキュバスの隠れ里のために、ご苦労なこったな。……里に居た他の一族の者はどうした?」
「ふふふ。みな、聖なる『光の魔法』の力でこの世から消えましたよ。残るのは、あなたたちの家族だけです」
俺の袖をつかむ妻に手に力がはいる。
隠れ里に住むサキュバスの一族は、もう数人しかのこっていない。みな、妻の親族だ。どちらにしろ、遠くない未来に滅びる運命の一族だった。しかし、俺はサキュバスを護る『サキュバスの夫』だ。神官どもに妻の一族が滅ぼされるのを、だまって受け入れるつもりはない。ましてや、俺の娘を……。
「ここは俺が食い止める。ミウをつれて逃げろ!」
一瞬だけ躊躇う妻。しかし、娘を寝顔をみて思い直す。
「あなた。……サキュバスとして、夫であり奴隷であるあなたに命じます。絶対に死なないで。お願い!」
「俺は君の騎士だ。命令には絶対服従だ。……ミウを頼むぞ」
妻が、河原を走る。追おうとする神官達の前に、俺は立ちはだかる。
「そこをどけ! サキュバスに魂を売り飛ばし、自らアンデッドの奴隷となった人類の裏切り者め」
……人類の裏切り者か。
「上等だ。くされ神殿の神官ども、俺の家族を追いたければ、俺を倒していくんだな」
「自分のしていることがわかっているのか? サキュバスの一族など、しょせんは下等な悪魔だ。おまえはサキュバスの『魅了』の魔法で奴隷化されただけだ。目をさませ」
「そうだ、俺は狂っているとも。……ははん、神官、おまえ、女に惚れたことないだろ? 惚れた女の言いなりになるのと、サキュバスに精気を吸われ奴隷にされるのと、いったい何が違うっていうんだ? ……おまえは知らないだろうが、惚れた女の言いなりになるってのは、意外と気持ちいいんだぜ!」
どすっ。
胸に衝撃がはしる。視線を下におろすと、自分の左胸に長矢が深々と刺さっている。
衝撃と激痛で、膝が崩れかける。が、膝はつかない。俺はサキュバスの夫だ。この世界の『神』に仕えると自称する神官どもになど、膝を屈するわけにはいかないのだ。
肉体がうずく。昨晩の妻の姿を思い出す。俺と妻の身体は、今も魔力によって繋がっている。サキュバスから空間を越えて今も与えられる無限の魔力が、俺の身体の中で煮えたぎる。いくらでも力が湧いてくる。人間では決して得ることのできない力。生物としてあり得ないアンデッドの再生力。見よ!
「うおおおおおおおおお!」
膝に力をこめ、ふたたび立ち上がる。腕に力をこめ、矢を背中から引っこ抜く。まるで噴水のような凄まじい出血が、みるみる治まっていく。あっというまに傷口がふさがっていく。これこそが、サキュバスによって与えられた力だ。妻と娘を護るための力なのだ。
……そうだ。俺は、この力を、この強さを求めて、サキュバスに魂を捧げたんだ。
「呪われたアンデッドめ! 光の魔法でこの世から消してやる」
「サキュバスの妻に忠誠を誓う代わりに得たこの不死身の肉体、妻と娘を守るためなら惜しくはない。……死にたい奴からかかってこい!」
2015.03.22 初出




