刻まれた名前
ボクは、傍観者だ。
鬼灯航は、教室の窓際にある自分の席から外を見ながら、なにがそんなに面白いのかと疑問に思うクラスメイトの駄々漏れ話を、半分期待し半分失望しながら聞いて、そんなことを思った。
真夏の昼下がりで、外ではセミが命を懸命に声に変えて鳴いている。エアコンも扇風機も無い教室は暑く、窓からわずかに吹いてくる風が入るこの位置の席は、本来競争率の高い席のはずだった。
しかし、航の周りは閑散としていて、実に居心地が良い。航はいつからかこの快適をどこかで気に入っていたが、しかし、心のどこかではやはり、近くで談笑している男子グループに交じって話したいとも思っていた。
また、航が外を見た。グラウンドには陽炎がゆらゆらとしていて、間違ってもこんな時に外で遊ぼうなんて気を航は起こさない。むしろ、こんな暑い時分に外で遊ぼうなどと言うのは、どこかしら頭が飛んでると思う程だった。
グラウンドの先。この暑さで発火でもして燃えそうな木造の校舎に、航は何気なく目を向ける。戦前に建てられたこの小学校の旧校舎で、今は使われていないが、最低限の手入れはしているらしい。もうすぐ取り壊され、グラウンドになるらしい。やるせない気分で旧校舎を見ながら、また同級生達の駄々漏れ話に耳を傾けるのだった。
「やっべー、彫刻刀持ち帰んの忘れてたわー」
どこをどう聞いても大きな声が教室中に響く。
菊池岳志。愛称ガク。航の近くで駄々漏れ話をしていた男子グループの一人。野球部に所属し、サードで四番。モテるが、現在野球以外に興味はなし。
そういえば、先週美術で使ったと、航は思い出す。航は、もう持ち帰っていたが。
「ねえねえ男子?」
ガクのグループに話しかける女子が一人。ガクの周りの男子が一瞬訝しがるも、すぐに笑顔になる。誰だって、美人には弱いのだ。
式部詠。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。欠点をあえて言うなら、その万能さぐらいというような少女だ。ガクの周りの男子がそわそわし始めたが、ガクは話を中断されたことで、ちょっと空気を読めよなという顔になった。
「詠? なんか用?」
一人何故か平静なガクが詠に答える。
「いやさー、暑くない?」
「そりゃ、夏だからな」
教師は今頃エアコンの効いた部屋だろう。このクラスでも、何人か、涼むついでに教師に質問しに行った生徒もいる。
「夏と言えば、肝試しよね?」
うげえという顔を、ガクの周りの何人かがする。これはそういう流れなのだ。そう思いつつも出来るだけ平静に無表情に、ガクは返答する。
「そ、そうだな」
「あれ、もしかしてガク、怖いんだぁ~?」
平静を装ったつもりのガクだが、すぐバレた。こういう時の女の勘ほど、研ぎ澄まされているものは無い。ハモも勘だけで捌ける気がするぐらいだ。
「ば、馬鹿言えよ。オレが、怖いだって? あ、ありえないな、そんなの!」
「え~、何かどもってるんデスケド?」
まあいいやと詠が言い、おどろおどろしい仕草をしつつ男子に話し出す。
「キミたち、知ってる? 旧校舎、今月いっぱいで無くなっちゃうんですって」
ガクを含め、そのことは知っている。しかし、何も言わない。これが枕であり、この先何があるかを大体の男子が予感しているからだ。誰だって、車が走ってくる道路の前に飛び出したくはない。
「そ、それが、どうしたよ?」
「出るんですってェ」
詠が、さらにおどろおどろしく両手を揺らす。男子数人の喉が鳴った。ガクが喉を鳴らさなかったのは、ほらきたという思いと、来んなという思いが同居していたからだった。
「へえ、な、何が?」
「昔、いじめられて、あの校舎で自殺した生徒の幽霊。それが毎夜、校長室にある写真に落書きしてるんですって」
ふーんと言う者。やめろよと言う者。笑い出す者。こういった話は、無意味に人間の感情を揺らす。
「で? オマエが肝試ししてそれ確認してくるってことだよな?」
言ってから、ガクはしまったと思った。だが、そういう時は大抵、もう遅かったりするのだ。
「女子に肝試しやらせるとか、ガクって、ホントに男子なの~?」
うわ~最低~とかいう声が、詠の後ろから聞こえる。いつの間にか、女子数人が詠の後ろにいる。よくあるパターンだと思いつつも、ガクにはこれに対する有効な戦術を持ち合わせていない。
「ふん。余裕すぎて、行きたくないだけだっ!」
今のガクには虚勢を張る他ない。それが彼自身を奈落に送り込む滑り台だとしても、ガクには引くことなど出来ない。なぜならば、彼の自分でもよくわかっていない自尊心がそれをさせるからだった。
「ふ~ん。余裕なら、やってみせてよ」
そして、こうなる。これは、当然の流れではあった。
「ああ、行ってやるよ、余裕だからな! ほら、皆も、オレと一緒に肝試しするだろ?」
ガクが彼の周りの男子に声を掛ける。皆、明後日の方向を向いているか、俯いている。
男の友情は、時に儚い。そんなことをこの期に及んで知ってしまったガクであった。
だが、ガクは諦めない。
窓際で退屈そうに外を眺める少年。クラスが同じだが、ろくに話したことも無い、交わした会話は業務、この場合業務と言うのは間違っている気がしなくもないが、そんな必要最低限の会話しかしていなかった少年に、ガクが大声で呼びかける。
「おい、そこの! 名前、えーと、なんだっけ?」
「航じゃなかったっけ? …わたしも自信ないけど」
すかさず、詠が名前を教える。この時だけは、彼女も運命共同体なのだ。
「そうか。おい航!」
外を見ていた航は、驚いていた。もちろん、さっきからこの駄々漏れの会話を聞いていて、大体の話の流れは理解している。だが、ここでまさか自分に白羽の矢が立つとは、彼自身も、この教室にいる誰もが、思いもしなかったに違いない。呼びかけたガク自身ですら、何故自分がこのよく知らないクラスメイトに声をかけているのか、現在進行形でよくわかっていなかった。
「…な、何かな?」
恐る恐る、間違いであってくれと願いつつも、航がガクの方を振り向いた。それはもう、お昼の安息の時間を邪魔されて、心底不快に思っているような風に。
「オマエ、さっきの話聞いてただろ?」
「な、何のこと?」
とぼけるだけで今後起こり得る可能性の全てを潰せるのならば、安いものだと思う。航はそう考え、迷いなくそれを実行して見せた。だが次の瞬間、それはむなしくも徒労に終わった。
「聞いてないなら、まあいいや。オマエ、今日、夜十二時に旧校舎前集合な」
「嫌だよ!? だってボク、怖いの苦手だし…」
この際、恥も外聞もない。そういう意味では、航はまだ素直であった。だが、ガクの方はそうは問屋が卸さない。
「決定な。ちゃんと来いよ。来ないと、次の日どうなるかわかってるんだろうな?」
そう。これはガクなりの土下座外交なのである。見た目は、ただただ高圧的ではあるが。
「そ、そんなあ…」
「ふふふ。じゃ二人とも、明日、肝試しの結果報告、よろしく♪」
やりきった顔で、詠がただひたすら、にこやかに笑う。
「ああ、ま、任せろっ!」
もう、開き直ってしまったのである。
落胆する航の横で、目いっぱいの笑顔を作りながら、ガクは汗をかいていた。
「クッソ、アイツ、早く来ないかな…」
グラウンドの近くにある街灯の下で、うるさく鳴り響く虫の声を聴きながら、ガクは持ってきたバットの握りをせわしなく変えた。
グラウンドのすぐ近くが旧校舎だったが、現在十二時。八月で日は長いが、それでももう、この時間帯になると見渡す限り、辺り一面暗闇に包まれている。
親が寝るのをちゃんと確認から、密かに家を抜け出したガクだったが、正直肝試しをやりたいなんて、毛ほども思っていなかった。夜とか暗闇は怖くない。その中に潜んでいるでいるあろう何かが、ガクは怖いのだった。
航が来たら、この際口裏を合わせて詠に何も無かったと話をでっち上げてしまえばいい。
そうだ、それが一番だ。それで、航もオレも詠のヤツもウルトラハッピー、全部丸く収まる。
そう、それがスマートなオトナのやり方ってもんだ。
ガクがそんな風に思っていると…
「岳志君」
「いひいいいいいッ!!?」
ガクがバットを構える。その先が小刻みに震えている。
「!? な、なんだ航かよっ! 驚かせんなよなっ!」
ガクが右手で軽く航の頭を殴る。
「いたっ!? ひどいよ、来いって言ったのは岳志君の方じゃないかぁ…」
「バカっ! お、オマエがお化けみたいに出てくるからだろうが!」
バットの先を下げ、ふうと一度ガクが深呼吸した。
「ところで、そのバット何?」
航に言われて、その場でガクは素振りを二度繰りかえして見せる。
「ほら、オレって野球部じゃん? だから、お化けとやらが出てきたら、コイツで退治してやろうと思ってさ」
「お化けに、効くのかなあ…。頭のは?」
ガクが頭のヘルメットをいじる。すると、ヘルメット備え付けられたライトが眩しく光りだした。
「何かウチにあった。へっへっ、いいだろコレ。…で、ちゃんと来たのは認めてやるけど、オマエは何か持ってきたのかよ?」
「ええと、ボクはコレ…」
そう言うと、航は肩にかけたカバンの中から懐中電灯を取り出す。
「はいコレ、岳志君の分」
そう言うと、航は持っていた懐中電灯の一つをガクに渡す。
「いらねえよ、オレにはコイツがあるからな」
ガクはバットで頭のヘルメットを軽く叩いて見せる。
「もしもの時だよ。それ使えなくなったら、ダメじゃん」
「そういうオマエだって、それ使えなくなったらダメじゃん」
「心配ないよ、だって…」
航がカバンの中を地面にぶちまける。ガシャガシャとした音が地面に響く。
「全部懐中電灯かよっ!? 何本あるんだコレ?」
「あはは、ボクもよくわかんない。あるだけ持ってきたから。それじゃ、行こうよ」
「え? ああよし、行くぞ!」
言ってから、ガクは心底後悔した。普段ならば、航の方が逃げ腰であるはずなのに、何故か航には行く気があるようだ。もう、一度うんと言ってしまった手前、今更やっぱ帰ろうぜなんて言えない。それこそ、恰好悪い。格好悪いのは、嫌いなのだ。
航は懐中電灯を、ガクは頭のヘッドライトの明かりをつけ、旧校舎へと続く誰もいないグラウンドを歩いていく。
旧校舎の前に着く。ここでガクが昼間の旧校舎よりも恐怖を感じなかったのは、全体が暗くてよく見えなかったからだったのだろう。正面玄関らしいところの扉に、鎖と立ち入り禁止の張り紙がしてあった。すでに誰かがその鎖を外したのか、すでに鎖はその意味を失い、ドアはガクによって簡単に開かれる。
「うわ、ホコリくせえ」
ガクが言い、航が軽くむせった。二人の照らす光の射線上に、粉上の埃が揺らめいている。
「足元、危ないね」
歩くたびに、二人の足元から、木のきしむ音が鳴った。
中は木造で、最低限しか手入れされていないようだった。廊下に電球はある。スイッチがあれば、電気がまだ通っているか調べられるが、この時の二人に、そんな余裕は無かった。
暗闇の続く廊下を、ギシギシと音を鳴らし、前方を光で照らしながら歩いていく。
「あ、あのさ」
「何だよ?」
急に話しかけてきた航に焦って、少し不快感をあらわにしながら、ガクが答えた。
「お化けの話」
正直止めてほしい。何のために自分達が来ているかわからなくなると、ガクは思った。誰だって、ハンバーガーを売るファーストフードの店で、専門的なハンバーガーの話など、聞きたいはずはないのだ。
「詠が言ってた、昔ここで自殺した生徒の話か?」
「ううん、別のお化けの話」
一瞬息を飲み、どうしようもねえなと思うガク。
「ここどんだけお化け出るんだよ。ていうかオマエ、怖がりのくせによくそんな話できるよな? バカなんじゃねえの」
「岳志君もお化け怖いんだよね?」
も、ときたもんだ。少しむっとしたガクだったが、この極限状態は、そのガクの意思とやらをも簡単にねじ曲げた。
「ああ、怖いよ。悪いかよ。詠の前ではああ言ったけど、誰だってお化けは怖いだろ? お前だって怖がってるくせに」
ふん、とそっぽを向くガク。
「ボクも怖いんだけどさ、なんだか、嬉しいんだ。ほら、ボクっていっつも一人でいること多いから。こんな風に、誰かと夜、家を抜け出して肝試しするなんて初めてで」
「お、おう…」
いきなり語り出した航に、なんだか居心地が悪くなるガク。こういうのを聞くと、なんだか居心地が悪い。叱られた方がまだマシだ、とガクは思った。
「で、さっきオマエが言ってたお化けって、どんなのなんだよ?」
廊下の端まで歩いたようだ。航が左右に懐中電灯の光を揺らすと、傍に階段があるのを見つけた。廊下の床と同じように軋む階段を、二人は、一歩、また一歩と上っていく。校舎は三階立てで、校長室は三階にあると、ガクはあの後詠に聞いていた。
階段を上りながら、航が語り出す。
「うん。ボクも噂話で聞いただけなんだけど『ハサミさん』ってお化けが出るんだって」
「お化けのくせにマヌケな名前だな」
ガクは心底安堵する。
「なんでも、まだこの旧校舎が使われていた頃、庭の木なんかを世話する用務員の男の人がいて、ある時、その男の人が木をハサミで切ってた時、乗ってた脚立が倒れて、打ちどころが悪くて、そのまま死んじゃったんだって」
「へ、へえ。そ、それで?」
「それから、この世に未練があるのか、毎晩、真夜中になると、作業着を着た用務員の男の人が、巨大な剪定ハサミを、ちょきん、ちょきん、って鳴らしながら、校舎の中を歩いて、迷い込んだ生徒をそのハサミで」
「お、おい、やめろよ…」
ちょきん。
「ひっ!?」
ガクが後ろを振り向く。
暗闇。あるのは、暗闇だけ。二人の足が止まってしまった今、音は何も聞こえない。虫の音さえも、この校舎の中には遠く聞こえない。
そう、そうだ。
音は、聞こえなかった。
今のは、空耳なんだ。
「ね、ねえ岳志君、い、今のって…」
「バッカ言うなって、オマエが変なコト言うから…」
ちょきん、ちょきん。
「!? う、うわああああああああッ!!」
音が鳴るのも構わず、階段を駆け上がる。
とりあえず、どこか、隠れる場所!
そう! そうだ、教室だ!
ガクが後ろを振り向く。航が、泣きそうな顔で追いかけてきていた。
「ああああああッ!」
今は、それすらも恐怖でしかない。
三階まで駆け上がり、階段のすぐ近くの部屋に入る。航が入ってくると、ガクは勢いよく扉を閉め、片手を自分の口に、もう片方を航の口に当て、息を殺させた。
「ふーっ、ふーっ…!」
音は下からだった。多分、自分達のことはバレたはずだ。
息を荒くしながら、すぐ近くにあった机の下に身を隠す。
「あ、あれって…」
「オマエがっ、あんなこと言うからっ…!」
「だ、だって…」
確かに、ハサミの音だった。こんな時間に、こんな場所にハサミを持ってくるようなヤツなんているわけがない、とガクは思った。
「『ハサミさん』だ」
「!? そんな、ボク、そんなつもりで言ったんじゃ…!」
「しーっ! 声が大きい、気づかれるだろ? と、とにかく、今はアイツに気づかれないように静かにしてるんだ」
「う、うん…」
ギッ。
航が、びくっとする。そんな航を見ながら、今にも叫びだしそうな自分を、ガクは抑えた。
ギッ、ギッ。
規則的な足音。階段を上っている。そんな足音。
「ふーっ、ふーっ…!」
去ってほしい。このまま気づかず、去ってほしい。
ギッ。
ぴたりと、その足音が止む。
「…」
「…」
ちょきん、ちょきん。
「あっち行け、あっち行け…」
「うう…」
ちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょき―
「っー!?」
ちょき、ちょきん。
音が止まる。
ちょきん、ちょきん。
ハサミの鳴る音が再開され、そしてその音は徐々に遠くなっていく。
そして、完全に音が消えた。
「ふぅー…!!」
「はぁーっ…」
二人で脱力する。
「行ったみたいだな」
「う、うん。気づかれなくて、良かった」
隠れていた机の下から這い出すガク。
「よ、よし、なら、さっさとこんなトコ出ようぜ。もたもたしてたら、また『ハサミさん』と会っちゃいそうだからな」
懐中電灯で周りを照らしていたガクが、何かに気づく。
「あ」
「どうしたの?」
「ここ、校長室じゃん」
光に照らされた壁には、いくつもの中年の男の写真が、額に入れられ飾られていた。ヒゲを生やしているもの、髪が無いもの、様々だ。ぱっと見る限り、落書きの痕跡など、どこにも見当たらない。
「なんだよ、詠のヤツ、驚かせやがって。お化けが書いた落書きなんか、どこにも無いじゃんか」
心底ムカついた声で、ガクが言った。もちろん、小声である。
「ほら、帰るぞ航。『ハサミさん』のことでも話してやれば、詠のヤツだってきっとびっくりして腰ぬかすぜ?」
「う、うん。そうだね」
「きゃああああああああー!!」
刹那、女の子の断末魔が響いた。
「!? だ、誰かの悲鳴だッ!」
「き、きっと、『ハサミさん』に襲われたんだよ!」
「ば、バカなこと言うなっ!」
「だってそうじゃないかっ! 何をどう考えたって、そうとしか思えないでしょ!」
航がその眼を血走らせて混乱している。ガクも、自分が混乱しているのだとわかっていた。それでも、航を見ていると急に落ち着いた気持ちになる。この時少しだけ、言わずにガクは、航に密かに静かに感謝していた。
「よ、よし、オレ、見てくるっ!」
駆けだそうとする。そのガクの腕を、航の手が止めた。
「!? ダメだよ! だって、『ハサミさん』がいるかもしれないんだよっ!」
「いるかもしんないけど、いないかもしんない! それに、さっき聞こえたのは女の子の悲鳴じゃんか! 女の子を見捨てて、自分だけ逃げられるかっ!」
航の手を振り払い、ガクが駆けだす。そんなの、破れかぶれだ、と航は思った。
「ま、待ってよぅー! ぼ、ボクだって、行くよーぅ!!」
勢いよく階段を駆けていくガクの後ろを、懸命に転ばないように、航は追いかけた。
悲鳴のしたところ。あとは、眼もくれない。
夢中で階段を駆けおり、一階の廊下を走る。どこに向かっているのか、走っているガク自身も、多分よくわかっていなかった。
「!? うわっ!?」
暗い床の何かに躓き、ガクが倒れる。追い付いてきた航が、転んだガクに懐中電灯の光を当てる。
「いてて…。あっ!」
ガクを照らした光。それで、近くに女の子が倒れていることに、ガクが気づく。
「よ、詠さんっ!?」
航が声を上げる。光で彼女を照らしていたのは彼なのだ。その声に、ガクも驚く。
「よ、詠? お、おい! 大丈夫か!」
倒れている詠を軽く揺する。光で照らしだされた詠は、普段と変わらない様子だった。特に、怪我をしているところも見えない。
「ん、んん…」
「詠、大丈夫か!」
目覚めかけた詠を、ガクがまた揺らした。
「あれ、わたし…」
「大丈夫か? どこか、痛いとこはないか?」
詠は辺りを見回し、少し呆然とした顔をした後、二人の顔を見て少し安堵した顔を浮かべた。
「う、うん」
「良かったあ。オレ達、急にお前の悲鳴が聞こえて、何かと思って来たんだよ。な、航?」
まだ少し息を切らせている航に、ガクが問いかける。
「はあはあ、う、うん、良かったよ。無事みたいで」
「でもオマエ、何でここにいるんだよ?」
詠が苦笑しながら、航の問いかけに答える。
「二人に肝試しさせたからさ。嘘つかれても困るから、本当に肝試しに来るか、確かめてやろうと思って。そしたら、『ハサミさん』のハサミの音が聞こえて。そしたら、今度はいつの間にかあんた達が来て。あーもう、頭ごちゃごちゃ」
「バカ」
「な、なによ!」
「オマエ、そういうことやるんだったら、最初からオレ達と肝試ししろよな!」
「なに、やっぱり怖かったの? ガクって結構子供ねえ」
「そ、そんなんじゃあねえよ!」
「あ、あの、二人とも…」
すっかり息も戻った航が二人を止めに入る。
「と、とりあえず、ここから出ようよ。また『ハサミさん』が来るかもしれないし」
「そ、そうだな。ほら、行くぞ、詠」
「わ、わかったわよ。ちょっと、そんなに強く腕、引っ張らないでよね!」
ちょきん、ちょきん。
「!?」
耳慣れた音。いや、ついさっき聞いたばかりの音だが、脳裏に強く刻まれている。
どうして、こういう時、人はそれに光を当ててしまうのだろう。興味からか、恐怖からか。何にしろ、ガクは背後の音に光を当てた。
「な、なにあれっ!?」
航が叫ぶ。
無理もない。
よれよれの小汚い作業着を着た、やつれた顔の男。顔面は蒼白で、眼と口がおかしな方向に歪み、薄く笑っている。それが、巨大な剪定ハサミを両手で扱い、金属のこすれる、小気味良い音を鳴らしていた。
ハサミさんが音もなく、地面を這いずるように近づいてくる。
「う、うわあああああッ!」
ガクは腰が抜けていた。動けない。逃げたくても、足が言うことをきかないのだ。見ると、他の二人も同様のようだった。
だが、瞬時にガクは考えを変えた。
襲ってくるなら、退治してやればいい!
狼狽しつつも、ガクは手に持った金属バットを上段に構え、下方向に大きく振りかぶり、ハサミさんに頭にぶち当てようとする。
そのガクの改心の一撃は、ハサミさんのハサミで受け止められ、逆に、受け流されたことによって、ガクは体ごと吹っ飛ばされた。
「うわああっ!」
ちょきん、ちょきん。
「う、うああ…」
さっきのことで、ガクの腰は完全に敗北を認めた。今や、ガクはただハサミさんに真っ二つにされるだけの、ただの置物と化していた。
ガクは、目の前で光を照り返しながら動く巨大なハサミに、死を覚悟した。
そのハサミが振り上げられる。
「う、うあああああああっ」
瞬間、そのハサミが左右に揺らいだ。否、ハサミが揺らいだのではなく、それを持つハサミさんが揺らいだのだった。
「!?」
ガクが驚いてみると、さらにもう一度、ハサミさんが揺れた。何か、鈍い打撃音がする。そして、光源の数がいつの間にか四つに増えていた。
「えいっ! くらえーッ!」
また、打撃音が響き、ハサミさんの体が揺れた。航が、カバンの中の懐中電灯をハサミさんに向かって投げつけていたのだ。
「はあっ、はあっ。くらえーっ!」
四度目の航の投擲。それを、ハサミさんはハサミではじいた。
「!?」
慣れというものが、ある。それは、ハサミさんでも同じだったのだ。
「くそうーっ!!」
半ばやけくそ気味で投擲するも、ハサミさんは冷静にそれをはじいていく。
詠が何か気づいたような顔をして、暗闇に向かって何かを投げた。
ハサミさんがそれを眼で追い、体で追う。投げたものは暗がりに消えたらしく、すぐには見つからない。
「今よっ! この隙にッ!」
「よ、よしっ!」
詠の声に、腰に再び力を入れなおすガク。なんとか立ち上がり、ハサミさんとは逆の方向に駆けだす。航も詠も、それに続いた。
「はあっ、はあっ…!」
体力の限界まで駆け、休んでいるところで、航が詠に尋ねた。
「詠さん、はぁはぁ、さっき投げたアレって、何?」
「ハサミ。わたしが持ってきた荷物の中にあったヤツ。ハサミさんが、ハサミ好きなの、思い出して」
「そうか。だからハサミさんは、オマエが投げたハサミで、オレ達から興味を失ったってわけだ」
「一時的にね。それより、さっさと帰りましょう。もうこれ以上、あんなのはもうたくさん」
「ぼ、ボクも…」
三人とも、ぐったりとしながら、なるべく音を立てないように、暗がりの廊下をゆっくりと歩いていく。外は月夜で、窓からは、月の光が蒼く廊下を照らしていた。
出口へ続く廊下へ来た時だった。
ちょきん、ちょきん。
「!?」
聞き間違えるはずがない、あの音。
「出口に、『ハサミさん』がいるッ!?」
「なんで? もう、いやだよぅ!」
驚く詠と怯える航に、ガクが諭す。
「ま、待て。まだ『ハサミさん』はオレ達に気づいてない。とりあえず、ここを離れるんだ」
少し離れた教室に入る三人。皆、無言で、それぞれ顔には焦燥の色があった。
「べ、別の出口があるはずよな? そこから逃げようぜ?」
ガクが脱出方法についての案を切り出す。
「別の出口は鍵と鎖で、全部封鎖されてる。わたし、調べたもの」
詠がそれに答える。
「だ、だったら窓から」
「この校舎の窓、全部、はめ殺しなの。つまり、開かないのよ」
落胆するガク。航が詠に食い下がる。
「だったら、椅子とかで割って外に出れば…」
「音で『ハサミさん』に気づかれるわ。脱出に手間取っている間に襲われてしまうでしょうね。うまく逃げられても、校舎の外まで追ってこないという保証はどこにもないんだし」
「もう、どうしたらいいんだよう…」
航がその場にうずくまる。
こういうときこそ、考えろ。ガクが思いを巡らす。
考えれば、何かハサミさんの弱点がわかるはずだ。それを突き止めれば、ハサミさんから逃げられるはず。
「…航から聞いた話では、ハサミさんは確か」
「? どうしたの?」
「ちょっと黙ってろ。今、考えてるんだ」
「何よ」
今は、言い方を気にしている場合じゃない。不機嫌な女子が苦手なガクも、この時ばかりは、それを甘んじて受け入れた。
「あっ!?」
「な、何か思いついたの、岳志君?」
ガクが二人に向かって、気難しげに、かつ不安を抱えながら言う。
「多分、いけるかもしんない」
ちょきん、ちょきん。
「げ、まだいる…」
詠が、心底うんざりした顔をする。航から借りた懐中電灯で下から照らし出している詠の顔を見て、航はくじけそうな心にトドメを刺されそうになった。
ハサミさんが封鎖している出口に繋がる廊下。その柱の陰に、三人は身を隠していた。
「うう~、やっぱりやめようよ~。本当にこんな作戦で『ハサミさん』が倒せるの?」
作戦を聞いた航も半信半疑である。当たり前だ。相手はお化けで、人間ではないのだから。
「わかんねえけど、でもずっとここでこのまんまってのも、嫌だろ? 良いか航、この作戦の鍵はオマエなんだ。オマエがとちったら、オレ達はみんな『ハサミさん』に真っ二つにされる。オマエの行動が、重要なんだぞ」
航の肩を掴み、小声でガクが励ます。
「うう~、わ、わかってるけどさあ…」
それでも、不安そうな表情を浮かべる航。元来、彼はこういう重要なポジションにいる人間でないと自分で思っていた。それなのに、今回自分がこれから行われるお化け退治の重要な役どころを担うとなっては、緊張するのも無理もないことなのかもしれない。
「なら、腹をくくれ。ここでちゃんと作戦通り出来たら、オマエを男だと認めてやる」
「ボク、男なんだけど」
「バッカ。そういう意味じゃねえよ。いいか、航、世の中にはカッコいい男と、ダサい男の二つがあるんだ」
ガクが、いつも晩酌をしている父親から聞かされる話だった。そんなものを、いつの間にかガクは覚えていた。
「男は、カッコいい男にならなきゃダメなんだ」
「うまく出来たら、ボクがカッコいい男?」
「そうだ。航、カッコいい男になりたいだろ?」
「…うん」
うなづく航の背中を、ガクが一度、大きく叩いた。
「よし。じゃあ、航も詠も、作戦通りに。…行くぞ」
先頭でガクが飛び出す。それに、航も詠も続く。ヘッドライトが、ハサミさんを照らした。ハサミさんもガク達に気づき、ハサミを鳴らしながら、接近してくる。
「うおおおっ、くらえっ!」
駆けながら、バットを横なぎにした、フルスイング。しかし、ハサミさんに受けられ、弾き返される。
「くっそ! 航ッ!」
ガシャガシャと音を立てながら、航と詠が駆けてくる。持ちながら駆けているので、ひどくスピードは遅い。
だが、間に合った。
「!?」
ハサミさんが二人の抱えてきたものを見て、狼狽し、一歩二歩と後ろに下がる。
「やったっ!?」
二人が走りながら抱えているもの。
用務員室に置いてあった、おそらくハサミさんを間接的に死に至らしめた原因であろう脚立。
それを、二人で抱えながら持ち走っていたのだ。
駆けながら、航は、ハサミさんが明らかに困惑しているのを見て取った。
「ガク君ッ!」
「よっしゃあ、任せろっ!」
狼狽した様子のハサミさんの頭部に向かって、ガクが思いきり上段からバットを振りかぶり、全力でそのまま下に振り下ろした。金属音と打撃音が合わさった音が響き、ハサミさんが床に崩れ落ちる。
「やったっ!!」
「へへ、ざまあみろっ!」
ガクが航に手を挙げ、航がガクとハイタッチした。ガクが、ハサミさんを見ると、その体が薄く段々と透明になり、そして消えた。
「き、消えた…!?」
「ほ、ほんとにお化けだったんだな。…ていうかオマエ、さっきオレのコト、ガクって言っただろ?」
航が、しまったという顔を浮かべる。
「ごめん。何か、混乱してて…」
「別にいいぜ」
「え?」
ガクがズボンに手をせわしなく拭きながら、航に言う。
「オマエ、さっきちゃんと作戦通りやってたわけだしな。だから、ガクでいいぜ」
「あ、ありがとうっ!」
「それより、さっさとここから出ようぜ。『ハサミさん』も、もういないわけだしな」
「うん、でも…」
航が懐中電灯で近くを忙しく照らしながら言った。
「詠ちゃんは、どこ?」
「…は?」
航もヘッドライトで周りを照らすも、近くに詠の姿は無い。
「オマエ、途中まで一緒だったじゃんか!」
予想外の事態に混乱し、ガクは航を問いただす。
「だ、だって、作戦に夢中だったから! 途中まで一緒だったのは確かなんだけど…」
「くそっ!」
航が校舎の壁を叩く。埃が盛大に舞い上がり、光に反射した。
「しかたねえ。詠を探すぞ」
「う、うん」
ちょきん、ちょきん。
「!?」
ちょきん、ちょきん。
闇の奥。今自分達が駆けてきたところから、あの音が聞こえる。
ハサミさんの、あの音が。
「!? な、なんでっ!? 『ハサミさん』は倒したはずでしょ! ボク、見たよっ!? 『ハサミさん』がボクの目の前で消えていくのをっ!?」
「お、オレだって見たさ!」
ちょきん、ちょきん。
「なら、この音はなんなのっ! もう嫌だよボクっ! なんでボクばっかこういう目に会うんだよっ!」
「お、落ち着け航っ! まだ『ハサミさん』かどうか決まったわけじゃないだろ!?」
ちょきん、ちょきん。
ハサミの音が、ガク達の方に近づいてくるのを、ガク達は確かに感じた。だが、感じたところで、この状況に対応する勇気をこの時の二人は持ち合わせていなかった。すぐ振り返れば出口で、駆けだせば逃げられる。そうとわかっていても、今のこの状況に、二人は足はおろか、頭さえうまく動かなかった。
ギッ、ギッ。
木の床が、そのひずみで足音を鳴らす。
ちょきん、ちょきん。
闇が、近づいてくる。その闇は、近づくにつれ徐々に形を持ち、ガク達の目の前で止まる。
ちょきん、ちょきん。
恐る恐る、航が手にした懐中電灯でその闇を照らす。その闇から出てきたのは―
「詠ちゃん!?」
巨大な剪定ハサミを持った級友の姿。
「な、なあんだ、驚かせないでよ…」
「待て航」
近づこうと踏み出した航を、ガクが止める。
「え? ガク君、どうして? だって、詠ちゃんだよ、詠ちゃ…」
ちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょき―
「ひっー!?」
航がその場に座りこむ。
「ふふ、馬鹿な『ハサミさん』。せっかく、ワタシが二代目の『ハサミさん』にしてあげたのに。あっさりやられちゃうんですもの」
「に、二代目…?」
航が怯えながら、浮かんできた疑問をそのまま口にした。
「そうよ。昔、この校舎で夜遅くまで庭木の世話をしていたあの男の脚立を揺らして、地面に叩きつけて気絶させ、それをこのハサミで真っ二つにしてやったのは、こ・の・ワ・タ・シ。痛快だったわあ」
光に照らし出された詠の表情は艶めかしく、恍惚以外の何物でもなかった。
「な、なんでそんなこと…」
「そんなの、決まってるじゃない…」
そう言うと、詠は髪をかきあげ、右耳を見せる。
穴。
穴しか、無かった。
「そ、その耳は…」
「これはね、ずっと昔、クラスでふざけた女にハサミで全部切られたのよ。その後ワタシは自分で自分を殺したけれど、その後、そのふざけた女も殺してやったわ。もちろん、両耳をゆっくりと切り取りながらね」
クスクスと詠が笑う。その顔はクラスにいる普段の詠となんら変わりが無い。
ガクが、まだ信じられないという顔で、詠に聞く。
「じょ、冗談だよな? 悪い、冗談なんだよな? だって、クラスでのオマエはいつも明るくて元気で―」
「ひっ!?」
航が怯える。無理もない。詠の整った顔が、瞬時に歪んだのだ。眼は吊り上り、口はおかしな方向に歪みながら、微笑を浮かべている。
「『ハサミさん』…!?」
「これで、ワカッテモラエタカシラァ?」
「うわああああああッ!!」
航の叫びと同時に、詠がガクに飛びかかる。なんとかそのハサミをバットで受け、ガクが航に向かって叫ぶ。
「航ッ! 詠はオレがなんとかする! だから、オマエだけでも逃げろっ!」
航が座ったまま、泣き叫び答える。
「無理だよっ! どうせ、二人とも『ハサミさん』にやられて死ぬんだっ! 逃げたって無駄なんだっ!」
「いいから、さっさと逃げろ! そんで、近くにいる大人を呼んで来い!」
ガクのバットを受け止めながら、詠がハサミでそのバットを両断しようとする。金属と金属のこすれ合う嫌な音が、校舎の中に響いた。
「男だろッ、航ッ!」
その声に、ハッとする航。
「うああああっ!!」
転びそうになりながらも、出口に向け、勢いよく航は駆けだした。
「よし」
「アラ、ヨソミはダメヨ?」
詠がハサミを引き、その側面をガクの腹部に叩きつける。
「ぐあっ!?」
ちょきん、ちょきん。
「安心しなさい。アナタのミミも、アイツのミミも、ぜんぶ全部ゼンブ、キリトッテア・ゲ・ル」
怖い。
どうしようもなく、怖い。
旧校舎を脱出した航は、グラウンドをただひたすら駆けていた。航の中にあるのは、ガクを見捨てて逃げたと言う後悔と、詠がお化けだったと言う事実に対する恐怖だった。
航が躓き、思い切り頭から地面に突っ込む。
「いてて…」
涙が、こぼれた。怖さからではない。怖いから泣いていたら、今頃、航は干からびているだろう。
「男だろッ!」
砂の地面に、航が思い切り握り拳を叩きつける。手の皮が擦れ、血が薄く赤く滲む。
男だと、ガクは言ってくれた。
なら。
その男がすることは―
「友達を、助けるコトだッ!」
足に力を籠め、立ち上がり、地面を蹴って、今来た道を、また駆けだす。
「うわあああああッ!」
旧校舎。中に駆けこむ。ガクと詠。床にうずくまっているガクに、詠の持つ巨大な剪定バサミが向けられている。
航は、駆けてきた勢いのまま、詠に思い切り突進をぶちかました。
「ぐあっ!?」
そのまま、二人で床に倒れこむ。
「わ、航ッ!? どうしてッ!?」
半泣きになりながら、航が答える。
「友達を、ぐしっ、見捨てるのは、うっ、男じゃあないんだッ!」
「このッ! ジャマスル者ハァ、こうだッ!」
詠の振り降ろしたハサミの切っ先が、航の腹に野深く突き刺さる。肉の裂ける嫌な音と、液体の飛び出す濁った音が、ガクの耳にやけに鮮明に響いた。
「航うううッ!」
「アハハハ、刻んでヤッタゾ、刻んでヤッタゾ♪ …ア゛?」
「!?」
ガクが驚く。無理もない。詠と航の体が、底のない泥の中に沈んでいくように、ズブズブと地面に開いた闇の中に埋もれようとしているからだ。
「終わりだよ…ごほっ。キミも、ボクも」
申し訳ないような、安堵したような顔で、航は言った。
「キサマッ、まさかッ!?」
「航!?」
一度、血が埃に紛れて飛んだ。そして、航が笑う。
「ボクはね、羨ましかったんだ。ずっと、傍観者だった。友達がいる子が、どうしようもなく、羨ましかったんだ。だから、ガク君に男だって言われて、嬉しかった。友達に、なれたような気がしたんだ」
「航、もしかしてオマエは…」
「ガク君、ボクは…」
「ハナセェ、ハナシテヨウッ!」
詠が航を引きはがそうとする。その顔面に、思い切りガクは金属バットを叩きつけた。
「グァッ…」
詠が倒れ、さらに深く地面の闇へと埋もれていく。
「…ボクは、キミの友達になれたかな?」
「何言ってんだ」
ガクが、航に背を向ける。
「もう、どもだじだろうがっ!!」
「…ありがとう、ガク君」
「あ、あのさッ…!」
ガクが振り返る。
もう、穴は無かった。いや、穴どころか、二人の影すら、もうそこには無かった。
ガクが、へなへなとその場にうずくまる。
外で鳴く虫の声が、ウザったいほど、ガクの耳に響いた。
次の日、教室に入ると、見知った顔がガクに声を掛けてきた。
「あー、ガクだあ。大丈夫かよ、ガク。なんか、怪我したんだって?」
食事の遅い生徒が、まだ給食を食べていた。すでに、昼休みである。
「大したことないって、ほら、この通りだし?」
素振りの真似をする。少し顔をしかめたガクだが、ガクを囲んだクラスメイトは、そんなガクの様子に気づかず、ガクを見て、一様に笑顔を浮かべた。
「やっぱガクはすげえな。野球やってっからかなあ」
「そうでもねえよ。あのさ…」
ガクは、聞くのが怖かった。クラスメイトの対応を見るに、昨日のことは特に話題になっていないらしい。ガクも、あの後夜遅くに帰って、親に怪我についてこっぴどく怒られたが、決して昨日の肝試しで起きたことは、一切何も話さなかった。
「航と詠って、今日学校来てる?」
クラスメイトが、一様にわからないという顔をする。
「わたるぅー? 誰だよそれ? そんなヤツ、このクラスにはいないぜ? 詠なら、なんか親の都合だとかなんとかで、急に転校したってさ。ひどいヤツだよなー、オレ達に何も言わずに転校しちまったんだぜ?」
「え?」
「いやー、だからよォー、詠のヤツは転校しちまったんだって」
「航は?」
「ん、だから航なんてヤツ、元からこのクラスにいねえよ。なんだよガク、腹怪我したって聞いたけど、頭も怪我したのか?」
「本当に、知らないのか? ネタとかじゃなくて?」
「だーかーらー、しらねって、航なんて。なぁ?」
クラスメイトが、ガクを囲んだその他の生徒に問いかける。皆、からかうでもなく一様にうなづいている。その空気に、さすがにガクは何が起きたのかを悟った。
「ははは、そうだよなあ。いやさ、何か夢でも見たのかもしんね。航ってヤツが出てきてさー」
苦笑して、ガクは話し出す。
「ふんふん」
「後はヒミツ」
「って、何だよ!? 気になるじゃんかよう!」
「ははは、また今度話してやるよ」
そう言うと、ガクは囲んでいた生徒の間を抜け、自分の席に座る。
「…なんだよ。覚えてるの、オレだけかよ」
ガクが航のいた席を見る。窓際の、一番後ろ。まだ、席はあった。だが、その席に座る主は、もうどこにもいないのだ。
自分も、このままクラスメイトのように忘れていくのだろうか。たった一日肝試しをしただけだが、航とは友達になれたとガクは思っていた。
ガクが、カバンの荷物を机の中にしまう。
「ん?」
中で何かがつっかえていて、うまく入らなかった。そのつっかえの原因を取り出す。
「あ」
先週の美術の時間で使った彫刻刀。そういえば、昨日も持ち帰るのを忘れていた。ついでに言ってしまえば、一年が終わるまでずっとここにしまっておこうなどとも考えていた気がする。
「そうだ!」
彫刻刀を取り出し、航の席に座る。それを見ていたクラスメイトが、ガクに声を掛けてきた。
「なになにガクー? なにすんのー?」
「見てればわかる」
木の机に彫刻刀で文字を掘ろうとして、ガクはしまったと思った。
アイツの名前、漢字、オレ知らないじゃん。
「ひらがなは、ムズイよなァー。航の『わ』なんて、あの丸いトコがダメだ。掘ってる途中、絶対怪我する、うん、絶対する」
るも同じだ。多分、最後の丸いトコで気を抜く。
「よしッ、となると、カタカナだなッ!」
ごりごりと木の机の隅に、小さく、ワタルと掘る。大きく掘ると、すぐ教師にばれる。そんなところは、ガクは賢かった。
「よしッ、カンペキだッ!」
茶色の木の机の隅、そこに、真新しい木の色で、小さく、ワタルという三文字。
「なあなあ、このワタルってヤツ、誰だよ?」
さっきとは別のクラスメイトが、ガクに話しかけてくる。
「ん、コレ、オレの友達」
「このクラス?」
「うん、このクラス」
「こんなヤツ、このクラスにいたかぁー?」
「いたんだよ。みんな忘れちまったけど、オレは覚えてる」
「ふぅん。まあ、いいけどさー」
クラスメイトが興味を無くしたように、教室を出ていく。今は昼休み。つまり、遊ぶ時間だった。
「おーい、ガクー! 野球しようぜェー!」
教室の入り口から、ガクを呼ぶ声。
「おう、今行くぅー!」
ワタルの席を立つガク。
刻んだ三文字を、指でごしごしと乱暴に撫でつけ汚す。
「よし、これならバレないだろ!」
自分だけが覚えてればいい。
「友達だからな」
その後、旧校舎は取り壊され、グラウンドになった。
あの名前の掘られた机は、何故か変わらず、オレの教室にある。