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第二話

 ふた月ばかりが過ぎた頃、翔賢はようやく歩けるようになった。これまでの人生で長らく自分の身体にあったものがなくなったことには慣れなかったが、立身出世のためと己に言い聞かせた。しばらく床に臥してうごめくような日々をおくっていた翔賢は、心なしか高くなった声で同じように宦官になった者たちと励まし合いながら、まずは伝い歩きからはじめた。

 体力が戻りはじめた頃、宦官として正式に城に仕えることが決まった。翔賢は科挙に落ちた自分が城に迎え入れられたことを喜んだ。

 翔賢が案内された部屋の前でかしずいていると、どこかで聞いたことのある声がかけられた。


「これへ」


 入り口にかかっていた幕がさっと両脇に引かれる。幕の片方を支えている女官の顔に見覚えがあった。

 科挙の結果が出た日、翔賢に声をかけてきた女官だった。女官は白粉を塗り、澄ました顔をしている。翔賢を見つけると、その目がゆっくりと三日月型に細められた。

 貴人の前で、翔賢は膝をついて手を組んだ。伏せられた視界に、豪奢な彫り物を施した椅子の脚が入った。


「励め」


 貴人はやわらかく、けれども威厳のある声で鷹揚にそう伝えると、女官に視線を送った。


「皇妃陛下はそのように仰せです」


 目の前の貴人は皇妃陛下であったらしい。翔賢は皇妃に仕えることになった喜びにうち震え、頭を深く垂れたが、つづく女官の声は冷たかった。


「あなたのお役目は、陛下の庭を整えることです」


 翔賢の額から、脂汗がぽたりと落ちる。乾ききった喉を、唾がぎこちなく降りていった。

 皇妃の部屋を辞する直前、翔賢は女官をにらみつけた。女官は澄ました顔のまま「下がりなさい」と言っただけだった。

 庭に面した回廊を歩きながら、翔賢は肩を怒らせた。あの女官は天下国家のためであると嘯いたが、皇妃陛下の庭を整えろというのはとどのつまり雑務ではないかと絶句した。子孫を残すことは儒教の孝の一つである。それに背いてまで、二ヶ月間、床でうごめいた苦しみはなんだったというのか。なにより、雑務には学識も才も必要ないではないか。


「これは、私の仕事ではない」


 翔賢はうつろな目で庭をながめながら、ぽつりとこぼした。


「まあ。陛下に選ばれるのは光栄なことですのよ」


 最前まで誰もいなかったはずの庭からひょっこりと顔を出した女が、翔賢の呟きに応えた。翔賢はぎょっとして身構えた。下働きの女であるらしかった。


「なにより、ご自分で選んだのでしょう? ……聞かなかったことにして差し上げます。励みなさい」


 冷や汗をかいている翔賢をよそに、下働きの女は笑い声を上げて、再び庭へと姿を消した。

 皇妃の庭に一つ、夾竹桃の花がぽたりと落ちる。翔賢は庭に降りると落ちたばかりの花を拾い、屑籠を探した。


***


 不満を内に抱えた翔賢だったが、放逐されてはたまらない。せっかく去勢までして得た仕事なのだと己をなんとかなだめすかし、庭仕事に励んだ。

 落ちた花や葉を皇妃の目に留まる前に拾い、枯れた葉を摘み、落ち葉を掃き清めた。季節ごとに咲く花を選んで女官に届け、暖かい部屋でほんの少し先の時期に咲く花を開花させるうち、翔賢は働きを認められた。

 次第に翔賢は頭角を表して、皇妃付きの女官に呼ばれる回数も増え、文官の真似事をするようになった。翔賢は満足した。やっと己の才を発揮することができると、ますます励んだ。

 文官の真似事などしていると、さまざまな情報に触れる機会も増える。

 あるとき翔賢は、自分と同時期に宦官に志願した者が、命を落としていたことを知った。女官の目を盗んで帳面をめくる。去勢手術によって、命を落としていた。

 翔賢はあまりのことに言葉が出なくなった。自身の立身出世とともに忘れていた怒りがわきあがって、身体が震えた。

 女官をはじめとした城に仕える人々は、天下国家のためだと言う。しかしながら、まやかしではないか。

 いつの間にかにじみ出た汗が目に入って、帳面の文字が揺らぐ。去勢手術で命を落とした者の名が、己の名前に見えたよう気がして、翔賢は胸の内に黒々と燃え盛る怒りを宿した。

 去勢の際、金属の玉を埋め込んだ尿道が、じくじくと痛む。あの焼けた金属の玉は、とうに取り去られている。しかし以前とは違って、排尿の度に女のようにしゃがまねばならず、ときに我慢がきかずにこぼれ落ちるのが情けなかった。

 翔賢はかつて自身の一部であったものを収めた箱をながめた。干からびた睾丸が、ちりちりとよじれている。子を成すことはない。だというのに、翔賢はときおり劣情を催した。

 そんな折り、同期の宦官がある女官と恋仲になり、皇妃の怒りに触れたという噂が翔賢の耳に入った。翔賢と出世頭を競った仲だった。

 己の置かれた状況がやりきれなかったのであろう。翔賢は放逐された宦官を憐れみながらも、内心では連座させられなかったことにほっとした。

 そうして、己は同じ轍を踏むまいと胸に刻んだ。多大な犠牲を払ったのだ。栄達せねばなるまい。翔賢はかつて己だった一部を収めた箱を、そっと撫でた。

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