第一話
銅鑼が鳴り、はしごを抱えた役人たちがやってくると、黒山の人だかりが大きくざわめいた。合格者の名前の書かれた紙が軒下に次々と貼り出されると、李翔賢は彼と同じように科挙の結果を見にきた人々にもみくちゃにされながら、まずは固く目を閉じた。無事に通れば、国を支える官僚となる。
長く息を吐き出してまぶたを開ける。役人たちが去って行く。青白い顔をして、今にも座り込みそうな男を小間使いが両脇から支えていた。
翔賢は息を飲むと、頭上に貼り出された紙を、上から下までとっくりとながめた。そうして自分の名前が記載されていないことに焦りを覚えながら、次の紙へと視線を移した。翔賢と同じ李姓の者が数人いる。火事を知らせる半鐘のように心臓が脈打ち、緊張のあまり視界がちかちかとする。震える手を握りしめながら、翔賢は己の名前を探した。
ない。
先ほどの男のように、へなへなと地面に座り込みそうになるのを堪え、翔賢はもう一度最初から科挙の合格者一覧を見返した。やはりそこには、翔賢の名はなかった。
科挙の最中に、どうしても思い出せない問いがあった。すらすらと動いていた筆が止まったとき、翔賢は隣の受験生の様子が気にかかった。頭をかくさまが、やけに腹立たしくなった。あのような有様では、落第するのも当然だ。
翔賢はよろよろとしたおぼつかない足取りで人だかりから出た。近場の石の上に座り込んで、ぐったりとうなだれた。
郷里の人々が応援してくれている様子が脳裏をよぎった。彼らが知ったなら、さぞかし落胆するだろう。合わせる顔がない。
郷里で四書五経を読む翔賢の耳に、牛の鳴き声が届く。翔賢はのどかな景色だと微笑んだが、牛の声はすぐに遠ざかった。のちに家人が大根を渡されたと聞いた。家人いわく「牛が翔賢様の勉学を邪魔してしまったおわび」なのだという。雨の日も雪の日も励む翔賢を、郷里の人々はそうして送り出してくれたのだった。
ひんやりとした石から翔賢は重い腰を持ち上げると、ふらふらと大階段を降りた。もしもこのまま階段から足を踏み外して転げ落ちてしまったとしても、構うものかと涙ぐんだ。
「もし」
か細い女性の声が聞こえて、翔賢はゆっくりと顔を向けた。鮮やかな色の漢服の袖が翻る。城に仕える女官であるらしいことは、一目でわかった。
「惜しくも科挙に落ちてしまわれた方に、お声がけしております。少しばかり、お話を聞いていただけますか」
鈴を転がすような美しい声に翔賢はぎこちなくうなずくと、女官に案内されるまま、城の脇にある一室へと足を踏み入れた。
扉を開けると、大勢の男たちが翔賢を一斉に見た。そのなかに、科挙の筆記試験で見かけた顔がいるのに気がついた。
いったい、どういった集まりなのだろうか。
訝しげに唇を引き結んで座った翔賢の視線が、宙をさまよった。他に集められた人々も、落ち着きなく視線を惑わせている。なかには悄然とした様子の男もいる。
少しして、先ほどの女官がするりと前に進み出て、手を打ち鳴らした。
「お集まりいただき、ありがとう存じます。本日の科挙まで、皆様は大変な努力をされてきたことでしょう。科挙に合格された方はもちろんですが、わたくしどもは、あなた方もまた、天下国家のために必要不可欠な人材であると認識しております」
階段で声をかけられたときとは違って、張りのある女官の声が部屋に響いた。科挙に落ちたばかりの者たちが顔を見合わせる。その頬が少しばかりゆるんでいる。青白い顔をしていた者は、途端に血色が増して、わっと叫んだ。
「進士となることは叶いませんでしたが、皆様には宦官の席をご用意させていただきたく……。その才を、天下国家のために存分に発揮してください」
女官の目がふっと三日月のように細められる。女がたおやかな白い指で奥の一室を指すと、天女のように袖がふわりと踊った。
科挙に落ちたばかりの者たちは、一斉に口を開いた。
「わたくしどもに機会を与えてくださるとは、なんともありがたい」
「この才、天下国家のためにお役立てしたく!」
「宦官だと!? 馬鹿にしているのか!」
感嘆の声に混じって、いくつか罵声が上がる。席を立つ者、奥の部屋に進む者がいる一方で、翔賢は変わらずに口を引き結んだ。
科挙はまた次の機会に受験することができる。しかしその間、学ぶための余裕があるだろうか? 紙や書物や筆を買う資金もばかにならない。指導役への謝礼金も必要だろう。かといって、仕事をしていては、学ぶ時間も確保できない。そうして受験したところで、科挙に受かるとは限らないのだ。
腕組みをする翔賢の前で、一人、また一人と、科挙に落ちた者たちが奥の部屋に入っていく。
翔賢は手のひらにびっしりとかいていた汗を腹の辺りで拭って、列をなしている人々を見た。
そうして喉に詰まっていた息を吐き出すと、翔賢はゆっくりと立ち上がった。翔賢の頭をよぎったのは、郷里の人々の期待に満ちた眼差しだった。
翔賢はひそめていた息を吐き出すと、拳をぎゅっと握りしめながら、奥の部屋へとつづく列に並んだ。つま先がほんのわずか、躊躇した。
***
とうとう翔賢の順番がやってきた。入り口にかかっていた幕を開けてくぐると、くぐもった叫び声が聞こえてきた。
翔賢は一瞬足を止め、薄暗い部屋のなかに目を向けた。
男が抜き身の曲刀を構えていた。刀身を赤い雫がゆっくりとつたい、ぽたりと地面に落ちる。男は無造作に血を拭った。放り出された布に、赤黒い血が点々とついていた。むわりとした鉄錆びた臭いが立ちのぼる。肉の焼けるような臭いもする。
助手たちが宦官となった男を両脇から支える。宦官の口には布が詰め込まれている。舌を噛み切らないようにとの配慮だろう。今しがた宦官になったばかりの男は股間を血まみれにして、くぐもった叫びをあげながら、助手たちに別室へと連行された。
列に並んでいた者たちが思わず悲鳴を上げる。
「聞いてないぞ!」
「あら、宦官ですもの……」
女官は踊るようにふわりと身体を曲げると、羽根扇で口元をおおって、ころころと笑い声をあげた。
「女には、月のものがございます。毎月股間を血まみれにしておりますのよ。子を産むともなれば命がけです。さして代わりはありませんでしょう」
女官が目を細めて笑ったとき、翔賢の背を冷たい汗が流れ落ちていった。女官の薄い羽衣に、血飛沫がついていた。
「お嫌でしたら、お帰りいただいて構わないんですのよ? ……次の科挙、受かるといいですわね」
宦官になるべく並んでいた者たちの何人かが、肩を落として来た道を戻る。血の気のない唇をわなわなと震わせている者もいれば、卑屈な視線を向ける者もいる。
翔賢は腹に力を込めると、今にも出口に駆け出しそうな両足で地面をどっかりと踏みしめた。
「さあさあ、豪気なお方、どうぞお次へ」
翔賢が服を脱いで場に立つと、両手に曲刀を構えた男は無表情に刀を打ち鳴らした。その両脇で、助手が焼けた金属の玉と紙を持って待ち構えている。
翔賢の口に詰め込まれた布が、あっという間に唾を含む。唇から唾液がこぼれるのも構わず、翔賢は血走った目を見開いた。くぐもった叫びが、彼の口から漏れた。




