入江の屋敷
気がつけば、人狼は姿を消していた。
……逃げた?
それとも――
意図的に、誰かが助けたのか。
ユノは、溶け残ったコルモラーネの遺体――
その残骸を、じっと見つめていた。
やがて、騒ぎを聞きつけて人が集まってくる。
別のコルモラーネの一団も、路地へと姿を現す。
とりあえず、この場は離れるべきか。
そんなことを考えながら、僕が顔を上げた、その時だった。
昼間、聞き込みをした酒場の店主が、いつの間にか、すぐ傍らに立っていた。
……野次馬か?
そう思ったが、どこか、雰囲気が違う。
「オイレさんがお呼びだ」
短く、そう告げられる。
――おかしい。
目の前に立っているのは、確かに酒場の主人のはずなのに。
酒場の主人では、ない。
「……ヴルガーでございますか」
リシアが、静かに言った。
「目に魔素を通してみろ」
続けて、ユノが低く促す。
言われた通り、目に魔素を通す。
すると――
酒場の主人の姿に重なるように、隈取りのような化粧を施した、小柄な男が見えた。
「……幻影魔術?」
「コイツらも、オイレの私兵だ。
そこら辺に、紛れ込んでる」
なるほど。
リシアも、ユノも、最初からそれに気づいた上で――
聞き込みも、餌巻きも、やっていたというわけか。
……まったく。
僕は、自分がそこまで気づけなかったことを、内心で、ひどく反省した。
***
ヴルガーに案内されたのは、アウターヴァルの中でも、どこか特殊な場所だった。
オイレのもとへ案内すると言われ、僕はてっきり、あのツギハギの宮殿へ連れて行かれるものだと思っていた。
だが、実際に辿り着いたのは――
静かな入り江に建つ、簡素な一軒家だった。
街の中のような、きらびやかさも派手さもない。
どちらかといえば、セイレン湖の外周に並ぶ、普通の住宅に近い。
黄色いメイド服に身を包んだ、極めて普通そうな人物に案内され、家の中へと入る。
中もまた、豪奢とは程遠い。
だが――
その代わり、ありとあらゆる場所に、本があった。
壁際にも、棚にも、床際にまで、積み重なるように。
辺りをきょろきょろと見回す僕に、メイドさんは穏やかに言った。
「旦那様は、知識を愛しておられます。
これは、そのコレクションの一端でございます」
ローレンには、紙が豊富にある。
オイレが、ここを拠点に選んでいる理由の一つが、それなのかもしれない。
一際、本の多い部屋――
リビングだろうか。
そこで、メイドさんは立ち止まった。
「リシア様は、こちらでお待ちください」
テーブルには、紅茶と、プティフールと呼ぶのだろうか。
色とりどりの、小ぶりで綺麗な菓子が並べられていた。
どう見ても、リシア好みだ。
リシアが、僕を見る。
僕は小さく頷き、ここで待っていてほしいと伝えた。
今の様子からして、危害を加えるつもりはないのだろう。
一応、クランの代表である僕と、ここ数日、嗅ぎ回っていたユノが呼ばれるのは、自然な流れとも言える。
それに――
すべてを見通すというオイレなら、むしろリシアを警戒して、距離を置いた可能性もある。
どちらにせよ。
ここまで来て、引き返すという選択肢はなかった。
***
リビングにある階段を上り、廊下を進んだ先に、重厚な扉があった。
「こちらでございます」
メイドさんが、静かに告げる。
中は、静かな夜のような部屋だった。
灯りはある。
だが、どこか影の方が多い。
広い部屋の中央。
低い椅子に、深く腰掛けた老人がいた。
――オイレ。
きっちりと整えられた髪と髭。
くぼんだ目元は、ひどく穏やかで。
その佇まいは、上品とさえ言えた。
……なのに。
一歩、近づいただけで、胸の奥が、重くなる。
ユノの表情が変わったのが分かった。
威圧ではない。
殺気でもない。
それは――
捕食者の風格だった。
それでも、僕は内心、少しだけ安堵していた。
鴟梟商会と呼ばれ、恐れられる組織の長。
もっと、暴力的で、話の通じない狂人のような人物を想像していたからだ。
オイレの目は、ひどく知的だった。




