初めての魔法
「では……まずは魔素の扱いから始めましょう」
朝食を片付け終わったあと、リシアはそう言って僕を小屋の裏手にある開けた場所へ連れていった。
僕らの今後の方針が決まった。
まずは基本となる魔素の操作の練習、同時に剣の扱い方の基礎を学ぶ。
それができるようになったら、平原に出て簡単な魔物との戦い方を学ぶ。
平原でのことは、やっぱり何か悪い幻だったんじゃないかとか、少し現実逃避していたけれど――やっぱりいるんだ、魔物。
僕はそう思った。
森の木々が少しだけ途切れ、柔らかな陽光が差し込む静かな空間。
「勇者様、深呼吸を。
胸の奥にある温かいもの……それを意識してみてください」
言われるまま目を閉じ、呼吸を整える。
胸の奥……温かいもの……。
……ない。
というか、分からない。
「いかがですか?」
「……いかがですかって言われても……何も……」
リシアは首を傾げた。
その仕草が小動物みたいに可愛いのだが、信頼に満ちた瞳が、「あなたならできるはずです」という空気が、今は逆に腹立たしく感じる。
リシアが、というか、僕自身が。
「では、手をこちらに。リシアが流れをお見せしましょう」
リシアが僕の手を両手で包む。
その手は驚くほど温かかった。
次の瞬間――
すう……っ。
胸の奥で何かが震えた。
「……っ!」
確かに“何か”が動いた。
けれどそれは僕の体の中にあるものじゃない。
リシアの手の中から、まるで滑り込んでくるように流れ込む“違和感”。
「これが……魔素です。
勇者様の内にも必ずあります。
ただ、まだ眠っているだけなのです」
眠ってる……のか?
目を閉じたまま必死に感じ取ろうとする。
けれど――。
「……やっぱり……分からない」
「焦る必要はございません。まだ初日なのですから」
初日。
そう言われても、僕はちょっと落ち込んだ。
僕の胸の奥には何もなかった。
何も掴めなかった。
(……本当に僕なんかが勇者になれるのか?)
リシアは僕の表情の変化を読み取ったのか、小さく微笑んだ。
「魔素の扱いは、心を整える修練でもあります。
焦らず、ゆっくりで構いません。
勇者様ならば必ずや、会得することができましょう」
もう慣れてきてしまったけど、このリシアの僕に対する絶対の信頼みたいなのは何なのだろう、キラキラしていて、痛くて辛い。
それより――。
「リシア、その“勇者さま”っていうの止めない?」
リシアはコテンと首をかしげた。
***
それから数日はひたすら魔素を操る訓練と、剣の型の繰り返しだった。
午前中は魔素を鍛え、午後からは剣術の稽古、そしてひたすらの走り込みと筋肉トレーニング。
「過剰な筋肉は必要ありません。逆にそれでは燃費が悪くなってしまいます、
体の可動域が狭くなってしまいます。必要な分、必要なだけ筋肉をつけ、引き締め、
そして魔素によって強化する。長い旅を考えるなら適度な脂肪も必要となります」
「魔術の基本は“魔法”にございます。
火や水、風など、小さな自然を顕現させるもの――それを魔法と呼びます。
魔術とはそれらの組み合わせ、変化させ、術式に埋め込んだもの。
いわば自然への命令と考えて差し支えございません。
炎の揺らめき方を、温度を、風の強さを、密度を、吹くべき方向を命ずるのです。
難しい術式を覚える必要はありません。魔法を操作すれば、それは即ち魔術足り得ます」
リシアは僕のために色々考え、伝え、実践してくれた。
食事もバランスよく、魔素や神経を整えるのに適した薬湯なども用意してくれていた。
そして、訓練を開始して一月が過ぎた頃――
「わっ! わっ!? わー!!!」
僕の掌と掌の間には、光り輝く空気の渦が回転していた。
その日、僕は初めて“魔法”ではなく、“魔術”を顕現させたのだ。
ついに僕は静謐の森を出て、草原での実地訓練に入ることとなった。
***
静謐の森を出た日の午後。
僕らは森から数歩分だけ離れた場所――平原の端、いつでも森へ逃げ込める位置――に立っていた。
「では、本日の訓練を始めましょう」
リシアは相変わらず真剣で、僕よりずっと落ち着いている。
僕はといえば……まあ、その逆だ。
魔法も剣もいまいち、いまは、ただ構えるしかない。
「リシア……ほんとに大丈夫?」
「安心してください。魔の平原とはいえ広大です。
ユウの見た飛竜や河馬などは、この平原でもそれほど多く生息しておりません。
そして今日ユウが相手するのは、この平原、最弱級の魔物です」
リシアが僕を安心させようとしてくれていることはよく分かる。
でも“最弱級”。
その言葉にどれほどの信憑性があるのかは分からない。
っていうか、あれワイバーンとベヒモスだったんだ。
神話とかに出てくるやつじゃん……。
リシアが言うなら、まあ……信じるしかないか。
リシアが杖を軽く振ると、草むらがざわりと揺れた。
そして――出てきた。
白いウサギ……みたいな何か。
けれどそれは普通のウサギよりはるかに大きく、下手したらレトリバー…⋯大型犬くらいあるんじゃないだろうか?
そしてなによりも、身体の半分くらいの大きさの角が一本だけ生えている。
「……これ、ウサギ?」
「角兎、とてもか弱い存在ですが、突進力はあるのでご注意を」
僕は嫌な予感しかしなかった。
あんな凶悪な角で刺されたら一撃で死ぬだろう。
ていうか、真っ二つじゃね?
リシアが合図をすると、角兎がキュッと鳴いて、突然――
ドンッ!!
「うわあああああ!!?」
めちゃくちゃ速かった。
想像の十倍は速かった。
とっさに横へ転がり、なんとか直撃だけは避けた。
けれど腕と足は地面に擦れて痛い。
リシアは落ち着いていた。
「今のは良い反応でした。次は、避けた後に反撃を」
「無理だよ!? 速すぎだよ!? あれ最弱なの!?」
「はい。最弱です」
嘘だろ。
その日は結局、一度も“反撃”なんてできなかった。
避けるのが精一杯で、ちょこちょこ地面に転がり、何度も草まみれになった。
でも――リシアは根気強かった。
僕が転ぶたび、「ゆっくりで大丈夫です」「上出来です」と言ってくれた。
こうして、初日の実地訓練は終わった。
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それから毎日、僕らは小屋の周りで基礎訓練をし、
午後には平原の端で角ウサギ相手の訓練をした。
初日は逃げるだけ。
二日目も逃げるだけ。
三日目も……やっぱり逃げるだけだった。
けれど四日目。
角ウサギが突っ込んでくる。
僕は避ける。
その直後、反射的に腕が伸びた。
ぺちっ。
「……当たった?」
「はい。とても良い一撃でした」
リシアが微笑んだ。
僕の手のひらに残る感触は心許ないほど軽かったが、
確かに“攻撃が届いた”瞬間だった。
ほんの少しだけ、胸が温かくなる。
五日目、六日目……
僕は“避けられるように”なり、軽く触れるくらいの反撃ならできるようになった。
リシアの表情はずっと柔らかく、
僕の小さな進歩をまるで宝物みたいに喜んでくれた。
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そして、さらに二カ月のあと(もっと経ったかもしれない)。
小屋の前で荷物をまとめ終えた僕に、リシアが言った。
「ユウは十分に“歩き出せる力”を得ました。
……さあ森を離れましょう」
「……うん。行こう」
僕は深呼吸をして、何度も通った平原の方へ視線を向けた。
僕はまだ弱い。
魔法はうまく使えないし、角兎とかにだってギリギリ勝てるかどうか。
それでも――
足が震えても、心臓が早鐘を打っても。
“もう一歩だけ前に進める”くらいには、僕は変わった。
リシアがそっと手を差し伸べる。
「参りましょう、ユウ」
僕はその手を取り、頷いた。
こうして、僕とリシアの旅が始まった。




