プロローグ
はじめに前作を読んでいない方への注意点を。
ジュリアスが頭のネジが外れている外面だけは良い人間だということを頭に入れてからお読みください。そしてヴェロニカもそのことをなんやかんや受け入れているということも忘れずに。
春の気配を感じさせる心地よい風に吹かれながら、私は庭で本を読んでいた。
ふと、こちらに向かってくる足音が聞こえてきて、私は本から視線を上げた。
「お母さま!」
幼さゆえの舌足らずな声に、私は声の主の方へ顔を向けた。小さな足でとてとてと走ってくる姿が可愛らしく、つい口元が緩む。
「イリス。どうかしたの?」
私の前に来て撫でてとでも言うように頭を突き出すイリスに、私はそっと小さな頭を撫でる。
イリスは、今年で五歳になる娘だ。父親譲りの柔らかい金髪が風に煽られて揺れているのがとても可愛らしい。
金髪に緑の瞳なのは父親のジュリアスそっくりだけれど、顔立ちは私に似ているとよく言われる。気が強そうだと私の顔は幼い頃から評されていたけれど、朗らかな性格だからかイリスは将来は美人になるだろうねとも親戚からは言われる。そんなイリスを羨ましく思う気持ちもあったけれど、それよりも喜びが強い。子供のことでも自分のことのように嬉しく感じられるだなんて、母になるまで知らなかった。
「あのね、ライアンからお母さまが家出したことがあるって聞いたの。それってほんとう?」
娘からの思わぬ言葉に、柔らかい髪を撫でていた手が止まった。
「え……っ?ライアンからそんなことを聞いたの?」
「うん!お母さまとお父さまはどうしてあんなに仲がいいのって聞いたらおしえてくれたの」
いつかは、五年前の家出騒動をイリスにも話すことになるだろうとは思っていたけれど、まさかライアンから聞くことになるとは思っていなくて私は目を瞬かせた。次いで、イリスの後に付いてきたライアンに目を向けた。
「家出騒動なくしては今のお二人はありませんから。私は事実をお伝えしたまでです」
ライアンは相変わらず仕事人間のジュリアスを支えてくれているけれど、イリスの側にいる時間が多くなっていた。それは、イリスが侍女よりもライアンによく懐いたことが原因だ。そのことに父親としてジュリアスは複雑そうだったけど、イリスの好きなようにさせているのだから、やっぱり娘には甘いらしい。
「それはそうだけれど……変なことは言ってないわよね」
「ええ、……離縁しかけたことについてはお話しておりません」
ライアンはイリス聞こえないよう声を潜めてそう言った。
訊いておいて何だけど、堅実な彼のことだから心配はあまりしていなかった。
「そういえば、ジュリアスは?」
いつもなら、庭で過ごしているイリスと私のもとに、仕事の合間を縫って来てくれるジュリアスだが、今日はまだ来ていない。
「本日は、一日中執務室に居られるはずですが……」
「そうなの?」
何となく心に引っかかって、私はイリスをライアンに任せて屋敷に戻る。
逸る気持ちは抑えられても、早足になるのは止められなかった。
そして、何度行ってもあの時の記憶が蘇る執務室の前までやってきた。
扉を叩くも、返事は返ってこない。いくら仕事に熱中していたとしても、これは流石におかしい。
「ジュリアス?入るわよ」
扉を開けてみると、いつも座っているはずの椅子にはジュリアスの姿はなかった。
「どこか出かけたの……?」
執務室を見回した私は、整理された机の上に一枚の紙が置かれているのに気がついた。ジュリアスは席を外す時には基本的に机の上を片付ける。だからか、一枚だけ置かれたその紙は不自然に目に映った。
何か意味があるのだろうかと思い、私はその紙を手に取った。そしてさっと目を通し、私は戸惑いの声を漏らした。
「え……?どういうこと?」
「奥様、どうかされましたか」
その時、イリスの手を引いたライアンも執務室に入ってきた。
二人の姿を見て、少し心が落ち着いたような気がした。
「ねえ、ライアン。これを見て」
「これは……?」
私が紙を渡すと、ライアンは素早く読み終え、考え込むような仕草を見せた。
イリスは内容が気になるのか背伸びをして見ようとするけれど、ライアンが考え込んでいるのを見て、不安そうに顔を曇らせた。
それからすぐに、ライアンは紙から視線を上げた。
「どうしてこんなことを書いたのかわかる……?」
「……そうですね……私にはわかりかねます」
私が尋ねると、ライアンは視線をそらしながら首を傾げた。
私はもう一度紙を受け取り、視線を落とした。
紙には、手書きでこう綴られていた。
『突然いなくなってごめんね。
迷惑をかけると思うけど、一ヶ月くらい
屋敷には帰れない。
ヴェロニカ、いつも心配させてばかりでごめん。
僕は大丈夫だから、心配しないで。
ライアン、屋敷のことは頼んだ。
君のことを頼りにしているよ。
必ず戻るから、あまり気にしないでね。
ジュリアス』
何度も見たジュリアスの筆跡からは、心配するなというジュリアスの想いが伝わってくる。けれど……
「気にしないでなんて言われたら余計に心配するじゃない。それに一ヶ月って」
イリスも状況を察したのか、不安げに眉を下げる。執務室に暗い雰囲気が漂う中、ライアンだけは冷静だった。
「旦那様のことです。仕事中に突然出掛けられて深夜に帰ってこられることだってありましたし、今回もふらっと帰ってくるのでしょう。あまり気に病む必要はないと思いますよ」
「ええ、そうね……ジュリアスなら何事もなかったかのように帰ってくるのでしょうけれど」
私もジュリアスが衝動的に行動することがあることを知っていたからか、徐々に不安はおさまっていった。
ジュリアスのことが心配にならないわけではないけれど、彼への信頼の方が強かった。
そうして、私たちはジュリアスが居なくなってからも当たり前のように生活し、気づけば一週間が経っていた。