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作者: さば缶

 仕事を終えて会社を出た時には、もう日付が変わろうとしていた。

ネオンに染まる夜の街を歩くと、どうしてもあのパチンコ屋の看板が目に入る。

青い海を背景にした派手なデザイン。大きく書かれた「海底物語」の文字が、俺を呼んでいるように見えた。


 ドアを開けると、たちまち空気が変わる。

玉がはじける音、電飾の瞬き、タバコと機械油が混じった匂い。

そのすべてが、鼓膜と鼻孔を占拠する。


 俺は無意識のうちに『CR海底物語』のシマを目指す。

パチンコ台の液晶の奥に人魚の女の子が微笑んでいる。

いつの間にか台の前に座り、財布から千円札を取り出す。

これは会社の飲み会代として集めた大事な金だと、頭ではわかっているのに、指が止まらない。


 サンドに札が吸い込まれる。ハンドルを握り、一息ついてからそっと回す。

液晶の中の海が明るく照らされ、サメやカメがゆらりと泳ぎ始める。

しかし俺の目が待ち望んでいるのは、あの一瞬に訪れる魚群だけだ。

魚群予告が来ると、高確率で当たりが期待できるため、興奮が頂点に達する。


 「……来い、来い」


 胸の奥がぞわつく。

全身が期待に縛られ、回転する図柄のすみずみを見逃すまいと目を凝らす。

もし魚群が出たら、あの痺れるような高揚感が味わえるはずだ。


――と、画面が一瞬白く弾けた。

魚が群れをなして横切り、その軌跡に鮮やかな光が尾を引く。


 魚群だ。


 その瞬間、頭の奥で何かが噴き上がり、脳が一気に火照る。

音が遠のき、視界が狭くなるほどの熱量が全身を支配する。

台の液晶からは当たりを示す華やかな演出が始まり、周囲が祝福のファンファーレに包まれる。


「やった……!」


 思わず口から出た声が震えている。

人目もはばからず、俺は両手でハンドルを抱くようにして身を乗り出す。

脳汁が噴き出す感覚。魚群を視界に捉えるときの恍惚が、この上なく甘美だ。


 結局、その夜は気がつけば閉店間際まで打ち続けていた。

会計用の金をすべて突っ込んだことを悔いる気持ちはわずかにあるが、あの魚群を見た快楽の方が大きい。

ポケットには、一円すら残っていなかった。


 家に帰って布団に入っても、瞼を閉じると魚群の残像がちらつく。

海の底から何者かに覗かれているような、不思議な感覚が消えない。

寝返りを打っても瞳の裏側に浮かぶ魚たちはしつこく泳いでいて、頭が休まることはない。


 翌日、会社のデスクに座っていても、ふと液晶画面の待ち受けが波紋に変化しているように見える。

ギョロリと動く視線。

そこにいないはずの魚の影。


 俺は目をこすり、周囲を見回す。

「お前、顔色悪いぞ」と同僚が声をかけてくるが、彼の姿さえ霞んで見える。

熱っぽい頭の中には、昨晩の魚群の光景がまだ焼き付いたままだ。


 午後になると取引先との打ち合わせがあった。

会議室のホワイトボードに目をやると、そこに青い魚が泳いでいるように見えて、一瞬息が止まる。

でも周囲は気づいていない。もちろんそこには何もいないはずだ。


 頭の片隅で、自分はおかしくなっていると思う。

それでも手元の書類を見ると、会社の飲み会代として集金した金を、さらに持ち出そうとしているのがわかる。

借りてはならない金、使ってはいけない金。


 だが、あの魚群をまた見たくてたまらない。

どうしようもない衝動が、体の奥底から湧き上がってくる。


 その日の夜も、俺はパチンコ屋へ向かった。

まとわりつく後ろめたさよりも、魚群を拝みたい欲求が勝ってしまう。

「ここまで来たら、もうどうにでもなれ……」そう呟く自分の声が耳に張りつく。


 そして俺は再びハンドルを握る。

台の中で浮かぶサンゴ礁と小魚たち。

頭の中では、いつ魚群が出てくるか、そればかりが渦巻く。


 隣に座った初老の男性が深いため息をつくのが聞こえる。

彼も負け続けているらしいが、そんなことはどうでもいい。

俺の目はただ、液晶の一点を見据えている。


 だが、いくら回しても魚群は出ない。

過度の期待が生む苛立ちが、じわじわと心を蝕む。

それでも止められない。


 気がつくと数万円が消えていた。

理性が悲鳴を上げ始める。

もっと金が必要だ。


 財布を覗き込む。もはや底が尽きている。

しかし、まだ会社の金を数枚は手つけずに残していた。

ここで引き下がれば被害は最小限だ。


 けれど、どうしてもあの群れを見ずに帰ることは耐えがたい。

結局、俺は最後の一枚まで投入し、ついには飲み会の金をまるごと使い果たしてしまった。


「駄目だ……」


 眩むような照明の下、俺は空になった財布を握りしめる。

後悔と混乱で頭がぐしゃぐしゃになりそうだが、それ以上に魚群が出なかった絶望が大きい。

帰り道、どこからか水の中にいるような幻聴が聞こえ、路面に映る街灯の光さえ泡立って見える。


 俺はその夜もほとんど眠れなかった。

瞳を閉じるたび、海底を埋め尽くす魚の群れが見えるのだ。

まるで水槽のガラス越しに覗かれているような、不気味な視線を背中に感じる。


 翌朝、オフィスに出勤すると上司が険しい顔で待ち構えていた。

どうやら飲み会の費用が足りないことがバレたらしい。

問い詰められるが、取り繕いようがない。


「どうしたんだ。集めた金はどこへいったんだ」


 言葉に詰まる。

言えるはずがない。

上司の怒声が遠くなり、頭の中には魚群がちらつくだけだった。


 その日の夕方、絶望的な気分で街をさまよっていると、ひどく冷たい風が吹きつけてきた。

冬の終わりのはずなのに、真夜中の潮騒のような湿った風を感じる。

見回すと、目につく看板やウィンドウのガラスに、まるで魚の影が映っているように思える。


「もう……やめたいのに」


 口の中が渇き、声がかすれる。

通りの人々が、それとなく俺に視線を向けては避けていく。

どう見ても尋常じゃない顔つきをしているのだろう。


 なのに足はまた、あの店へ向かってしまう。

中に入り、唾を飲み込みながら空き台を探す。

悪夢のように同じ行動を繰り返している自分を、どこか他人事のように感じる。


 もう金はない。

それでも魚群を見たい。


 このままでは何もかも終わりだとわかっていながら、俺は消費者金融のATMでカードを作り、融資を受ける手続きをした。

不自然に光るフロアの奥で、また魚の群れがこちらを見ているような気がした。

それは誘いというより、呑み込もうとする意志に満ちた眼差しだった。


「……やめられないんだ」


 そう呟いた瞬間、耳の奥に海鳴りのような音が響いた。

鼓膜が震え、視界がぐにゃりと歪む。

店内の照明が青く揺れ、空気が粘度を増していくようだ。


 俺はフラフラと海底物語のシマへ向かい、再び台に座る。

投入した玉が回りだすと同時に、液晶の画面が深い夜の海へ変わった。

魚たちがゆっくりと姿を現し、俺の全神経を捕らえて離さない。


 すると、画面の中だけではなく、周囲の空間にも魚が泳ぎ始めたように感じる。

床や壁に影が差し、天井を見上げると、無数の鱗がきらめくような錯覚が走る。

誰かの悲鳴のような声が聞こえたが、気に留める余裕もない。


 そして、来た。

激しい光とともに、あの魚群が押し寄せてくる。

画面上を埋め尽くす鮮やかな群れが、まるでこちらに飛び出してくるかのように錯覚させる。


 頭の中が痺れる。

俺は一瞬、恍惚とした快感に浸った。

ところが、その魚群は画面を通り越し、本当にこちらの世界へと侵入してきた。


「……え?」


 目を凝らすと、魚たちが空気を泳いでいる。

その形は歪んでいて、得体の知れない冷たさを帯びていた。

大量の魚たちがぱくりと口を開け、息が詰まるような水音を立て、こちらへ向かってくる。


 逃げようとしても体が動かない。

俺の両足は床に溶け込んでしまったかのように身動きが取れない。

視線をそらそうにも、魚たちの目がどこまでも追いかけてくる。


 「……助けてくれ。誰か……」


 声にならない声を震わせる。

だが、周囲に客の姿はなかった。

気づけば照明も落ち、暗い海の底のような静寂が店内を支配している。


 俺は取り囲まれたまま、液晶の画面を見つめた。

そこには、先ほどまで俺がいたような世界が映し出されている。

鮮やかな光の中で、人間たちが楽しげにパチンコを打っている光景が流れていた。


 まるで立場が逆転してしまったように感じる。

俺が今いる場所は、光の届かない海底。

人間の姿が歪むように、魚たちの形も変わる。


 魚群の一匹が、こちらをのぞき込むように顔を近づけてきた。

そいつは口をぱくぱくと動かす。

何か言葉を発しているようだが、水の中では何も聞こえない。


ただ、その動きだけが妙に生々しくて、まるで笑っているように見えた。


 しばらくして、画面の向こう側で人々の歓声が上がる。

誰かが魚群を引き当てて大当たりをつかんだのだろう。

そう思った瞬間、俺は背筋が凍るような寒気に襲われる。


 俺の視界は急激に狭まり、魚群の輪の中に閉じ込められていく。

逃げ道など見当たらない。

ぐるりと取り囲む魚たちの冷たいまなざしに、俺は完全に身動きを奪われる。


――やがて、何もかもが溶け合うようにして暗転した。


 翌朝、そのパチンコ屋には奇妙な噂が流れた。

深夜、閉店後の店内で誰かのうめき声が聞こえたと清掃員が証言したのだ。

しかし防犯カメラを確認しても、人の影は映っていない。


 ただし、ひとつだけ奇妙なことがわかった。

深夜の店内の様子を捉えた映像の端で、液晶の台に魚群が現れた瞬間、画面に人のような輪郭が浮き出ては消えていたという。

まるで、海の底からこちらを覗いているかのように。


そして、その人影はまばたきするほどの短い時間の中で、不気味に口を開閉させていた。


「……助けて」


 そう言っているかのように見えたと、清掃員は証言している。

だが、誰にも真相はわからない。

ただ、あの台に座ったはずの男は、二度と姿を見せなかったという。

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― 新着の感想 ―
パチンコ台の一機種といえども ここまで執拗に書くと 狂気と暗さと水槽か海底から現実を見てるような 物語の奥行きが出てくるものなんだな
魚群のそれら1匹1匹がパチンコ海物語に飲み込まれた人たちだと想像すると、 パチンコの魅力にとりつかれた人の末路は恐ろしいね。 人生の底辺という名の海底で死んだ魚の目を人間達の群れを魚群と置き換えながら…
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