君がいない世界で
夏の終わりが近づいていた。高校三年生の真奈は、駅前の予備校に通う日々を送っていた。受験生としての焦りと不安、そして将来への期待が混じり合った日々。目の前に広がるのは、答えのない未来だけだった。
予備校の教室で、彼――蓮と初めて話したのは、休憩時間のことだった。自由奔放で少し飄々とした雰囲気を持つ蓮は、別の高校に通う生徒だった。予備校のクラスメイトとも積極的に話し、笑い声を響かせる彼の姿は、真奈にはまぶしすぎた。彼の自由な生き方が、真奈の心の奥に小さな羨望を呼び起こした。
「君、ノート取るの丁寧だね」
蓮が話しかけてきたのは、数学の小テストのためにノートを見ていた時だった。真奈は驚きながらも、小さく頷いた。
「ありがとう。でも、そんなにすごいものじゃないよ」
その言葉に蓮は笑って、さらに続けた。
「でも、真奈はきっと受験のことを真剣に考えてるんだろうな。俺みたいにふわっとしてるのもありだと思うけど、真奈みたいに一生懸命やるのも素敵だ」
その言葉に、真奈は一瞬戸惑いながらも心が温かくなるのを感じた。それからというもの、蓮は何かと真奈に声をかけてくるようになった。彼は誰に対しても壁を作らないけれど、真奈との会話にはどこか特別な柔らかさがあった。真奈は内心嬉しく思いつつも、本心を言葉にするのが苦手だった。自分の気持ちを伝えることができる勇気が、どうしても足りなかった。
それでも、蓮と過ごした時間は確実に真奈の心に変化をもたらしていた。最初は彼の明るさに惹かれただけだったが、次第にその自由さに羨ましさを感じるようになった。彼はどんな時も前を向いて、楽しそうに生きている。それに対して、真奈はいつも受験のことで頭がいっぱいだった。将来への不安、母親の期待、そして何よりも自分が本当に望んでいることが分からなかった。
ある日、夏期講習が終わる日、蓮が真奈に話しかけてきた。
「これで講習も終わりか。受験まではお互い頑張らないとな」
「うん」
いつも通り、軽く言葉を交わすだけだった。けれど、この日だけは違っていた。
「またな」
蓮が笑顔でそう言いながら手を振り、教室を出ていった。その姿を見送りながら、真奈は胸に押し込めていた感情が込み上げてくるのを感じた。「好きだ」と伝えたかった。その勇気が、あと一歩、足りなかった。
数日後、蓮が事故に遭い、帰らぬ人となったという知らせが真奈のもとに届いた。
世界が一瞬で色を失ったようだった。信じられないという気持ちと、胸を締め付ける後悔が、真奈の中を支配した。どれだけ彼の笑顔を追いかけても、もう戻ることはない。
蓮との会話が鮮明に蘇る。軽い冗談を交わしたあの瞬間、ノートを覗き込んで笑った顔、そして何度も聞いた「またな」という言葉が、今ではもう遠くて、痛いほど愛おしい。
「もっと、もっと話しておけばよかった」
真奈は泣きながら心の中でそう呟く。伝えられなかった思いが、涙と一緒に溢れ出てきた。あの日、「またな」と言った蓮の言葉が、今はただの切ない思い出にしか過ぎないことを、真奈はようやく理解した。
その夜、真奈は蓮との思い出を胸に、ひとりで空を見上げた。星の光が静かに輝いている。蓮がいた世界に戻りたくても、もう二度と戻ることはできない。その現実が辛くて、でも少しずつ彼を心の中で抱きしめながら、真奈は決心を固めた。
「私、頑張るよ」
涙を流しながら、真奈は深呼吸をした。
「蓮がくれた笑顔を、無駄にしないように。私も、頑張る。」
あの日の「またな」という言葉を、真奈はこれからも大切にしていく。蓮の存在は、今後の彼女の力になると信じて。
受験が近づく中、真奈は時折、蓮のことを思い出す。勉強中に、ふと彼の笑顔を思い浮かべると、なんだか力が湧いてきた。蓮のように、どんな困難があっても明るく、前を向いて生きること。真奈はそれを目指して、少しずつでも進んでいこうと決意する。
蓮の存在が、これからの彼女を支えていく。そう信じながら、真奈は再びペンを手に取った。
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