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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百合っぽい

みーちゃん先輩の蒸発

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

「谷村さんの名前、夏の鈴って書いて、かりんちゃんていうの?」

 出社初日、佐原と名乗った女性が、わたしの自己紹介を聞いて言った。この佐原さんがわたしの直属の先輩になるようだ。素朴でつるんとした薄化粧の顔立ちがとてもやさしそうで、わたしはすぐに好感を持った。佐原さんは、二十四歳のわたしよりも若く見える。年下なのかもしれない。いったい何歳くらいなのだろう。事務所内にあてがわれた佐原さんの隣のデスクに着き、そんなことを思っていると、

「すっごくかわいい名前だね」

 隣のデスクからこちらに身を乗り出して、佐原さんが力強く言った。

「わたしの名前はちょっと古い感じだから、羨ましいな。いいな、かりんちゃん」

「え、ちょっと、そんな。やめてくださいよ、恥ずかしいですよ」

 ストレートに名前を褒められて、普通に照れに照れてしまった。佐原さんの名前は、瑞枝といった。わたしはこっそり瑞枝という名前の意味をスマートフォンで調べてみる。みずみずしい若い枝という意味があるらしい。若々しい佐原さんにぴったりだと思った。何歳なのかは知らないけれど。わたしは、心の中で佐原さんのことをみーちゃん先輩と呼ぶことにする。かわいい響きで、やっぱり佐原さんにぴったりだと思った。

 手荒れが原因で、美容師の夢を諦めた。よくある話だ。専門学校を出て、家から近いサロンに就職したものの、手荒れのじゅくじゅくでアシスタントもできなくなった。シャンプーやヘッドスパができないのだから仕方がない。わたしはサロンを辞めることを決め、実家暮らしなのを幸いに、しばらくは手荒れの治療に専念し、ハローワークで見つけた小さな会社に就職した。食品加工業の事務職で、受注のシステム入力が主な仕事だ。とりあえずの生活のためということで、特にこだわりがあったわけではない。働いて稼げればなんでもよかった。でも、親に学費を出してもらって専門学校へ行ったのに、結局全然関係のない仕事に就いてしまって申し訳ないなという気持ちはあった。両親はそういうことはなにも言わなかったけれど、がっかりしているんじゃないかと思う。

「私ひとりだとちょっと作業が大変になっちゃって、かりんちゃんが入ってくれてよかったよ」

 みーちゃん先輩は、うれしそうに笑ってくれた。ただの社交辞令かもしれない。だけど、その笑顔を見て、くさくさしていたわたしの心は少し救われたように思う。がんばって仕事を覚えて、早くみーちゃん先輩の役に立てるようになろう。わたしは、そう決意した。

「佐原さんは、こっちの人なんですか?」

 休憩時間、お昼を食べながら世間話をする。デスクが隣同士なので、わざわざ話しかけに行ったりしなくていいのがありがたい。わたしのお昼ごはんはコンビニで買ったサラダとパンだったけど、みーちゃん先輩はお弁当を自分で作っているようだった。

「ううん。地方から家出してきたの」

 みーちゃん先輩は口の中のものを飲み込んでから言う。

「え、家出?」

 不穏な単語に過剰に反応してしまった。

「実は私、蒸発中なんだよね」

 みーちゃん先輩はあっけらかんと言った。その顔は楽しそうに笑っていたけれど、

「えー、なんですか、それ。本当に?」

 なぜか焦ってしまってそんな返事をしながら、わたしはそれをどこまで信じたらいいのかわからなかった。会話の受け答えが上手ではないというのも、美容師をやっていく上での課題ではあった。なので、世間話になるといつも少し身構えてしまう。

「ほんと、ほんと」

 みーちゃん先輩の口調は軽い。


   *


 何週間かが経ち、仕事もだいぶ覚えてきた。みーちゃん先輩の教え方が、丁寧で根気強いおかげだ。世間話も、みーちゃん先輩となら自然とできるようになった。つまりわたしは、みーちゃん先輩に懐いてしまったのだ。

「会社のパソコンって、なんか、ベビー用品の広告ばかり出てきません?」

 ロッカールームで帰り支度をしている時に気になっていたことを何気なく話題として出してみた。休憩時間にネットニュースを見ていた時に、オーガニックコットンのベビーギフトセットや、ぬいぐるみに取り付けるボタン型のスピーカーの広告ばかりが出てくるのだ。

「ああ、それね。前に友だちの出産祝いになにを贈ったらいいのか迷っていろいろ検索したら、すっかりターゲティングされちゃって」

「佐原さんのせいでしたか」

 ふざけて言うと、みーちゃん先輩は楽しそうにきゃらきゃらと笑う。

「そういえばさ、かりんちゃん。よだれかけのこと、スタイって言うの、知ってた?」

「ええ、言いますね」

「うそ。私、スタイ知らなかったんだよね」

 みーちゃん先輩は、わたしがスタイを知っていたことが少しショックだったようだ。と同時に、思いついたように次の質問をしてくる。

「じゃあさ、じゃあさ、ハンバーガーの上下のパンのこと、バンズって言うのは知ってた?」

 上下のパンという言い回しがおもしろく、笑いそうになるのをこらえる。

「まあ、普通に言いますね」

「えー、そうなんだ。やっぱ若い子はオシャレな言葉を遣うんだね。言葉も日々進化してるんだねえ」

 みーちゃん先輩の発した「若い子」という単語が気になり、わたしは思い切って聞いてみた。

「あの。佐原さん。すごく……本当にすごく失礼なんですけど、佐原さんっておいくつなんですか?」

「三十四歳だよ」

 みーちゃん先輩はあっさりとそう答えた。

「うそだ」

 思わず声が出ていた。

「だって、佐原さんすごく若い。見た感じ、わたしよりも全然若いじゃないですか。わたし、もしかしたら年下かもって思ってたんですから」

 唾が飛ぶくらい強く言ってしまってから、慌てて口をつぐむ。

「いままで苦労知らずだったから、経験値が顔に出てないだけだよ」

 みーちゃん先輩は眉をハの字にしてそんなことを言った。なんて答えたらいいのかわからず、言葉に詰まっていたら、

「私、しんどいのが苦手なんだよね」

 みーちゃん先輩はそう言った。

「誰だってそうですよ」

 急になんの話だろうと思いながら相槌を打つ。

「前に私、家出してきたって言ったでしょ?」

「はい」

「親にお見合いをセッティングされてね、それが嫌で、しんどくて逃げ出してきちゃったの」

「仕事とか、どうしてたんですか?」

「それまでは家業を手伝ってたの。辞めるとも言わずに蒸発しちゃって、みんなに迷惑かけちゃった」

 家出や蒸発というのは、大袈裟な物言いではあるが一応本当だったらしい。

「かりんちゃんは、ヒールを我慢して履いてるよね」

 急に靴の話になって戸惑ってしまう。

「まあ、そうですね。我慢してるかも」

 就職活動を始めるにあたって購入したパンプスを、わたしはそのまま履き続けていた。好きで購入した靴ではなく、とりあえずで購入したものだったが、もったいないので履いている。

「私は、そういうのでさえ我慢できなくて。ヒールなんて今まで履いたこともなかったし、足が痛くてどうしても我慢できないの。忍耐強さがないんだよ」

 そう言われれば、みーちゃん先輩はいつもフラットシューズを履いている。だけど、そのフラットシューズには、「これでいいか」という妥協の感じが全くない。シンプルだけど洗練されたデザインだ。きっと、みーちゃん先輩が選びに選び抜いて、もしくは一目惚れして、ちゃんと気に入ったものを購入したのではないか。そう思ったので、

「でも、そのフラットシューズ、好きだから履いてるんですよね? シンプルだけどかわいくて素敵だと思います」

「ありがとう」

 少し驚いたように、みーちゃん先輩は言った。

「そうだった。私、この靴のこと好きだった。かわいいから買ったんだ。思い出させてくれてありがとう」

 そんなふうに直球でお礼を言われて照れてしまい、わたしは、へへへ、となんだか気持ち悪く笑ってしまう。

「さっき言ってた、出産されたお友だちって、こっちの人ですか?」

 駅までの道をいっしょに歩きながら、先ほど話題に挙がった出産したという友だちのことを尋ねてみる。

「こっちに住んではいるけど、地元は私と同じ。幼なじみなの」

「じゃあ、その幼なじみさんから先輩のご実家に連絡が行ったりしてるんじゃないですか?」

「うん、普通に行ってると思う。連絡」

 みーちゃん先輩は、あっさりとそう言った。

「え、それって、蒸発っていうんですか? 全然、行方不明じゃないじゃないですか」

「うーん。各方面に迷惑かけて自発的に姿をくらましたんだから、蒸発じゃないかな」

「そういうもんですか」

「そういうもんだよ」

 のんびりとした口調でみーちゃん先輩は言った。

 駅に到着し、同じホームで電車を待ちながら、

「ところで、佐原さんのこと、みーちゃん先輩って呼んでもいいですか?」

 前々から思っていたことを唐突に言ってみる。

「え、なにそれ」

 先輩の驚いたような反応に、やはり馴れ馴れしかったかな、と後悔していると、

「なにそれかわいい」

 予想外の言葉が返ってきた。

「みーちゃんなんて、生まれてこのかた、そんなふうにかわいく呼んでもらったことなんてないよ。うれしい」

 その、予想外のはしゃぎっぷりがかわいくて、

「みーちゃん先輩」

 ただ呼んでみた。

「なんでしょう、かりんちゃん」

 かしこまったように、みーちゃん先輩は応じる。それだけで、なんだかわくわくして楽しくなった。わたしたちは、夜の駅ホームで女子高生みたいに笑い合う。


   *


「谷村さん、親睦も兼ねて飲みに行こうよ。俺、おごるし」

 週末、業務が終わり、帰りしなに営業の男性社員にそんなふうに誘われたとき、わたしはどう断ろうかと考えていた。行きたくない、と正直に言うわけにはいかないので、

「ええと……でも、もう歓迎会はしていただきましたし、そんな、あれです。申し訳ないので……」

 ものすごく曖昧なことを言ってしまい、そこから言葉のつなぎ方がわからない。焦っていたら、

「谷村さんは今日は駄目ですよ。私が予約済みです」

 みーちゃん先輩が横から言った。

「私の友人の出産祝いをいっしょに選んでもらうんです」

「出産祝い」

 私はその言葉を繰り返し、それから我に返って、浦部さんに断りを入れる。

「そう、そうです。なので、ごめんなさい」

 彼はしつこく食い下がったりせず、「そっかあ、ざーんねん」と軽く言って帰って行った。そうか、普通に用事があると言えばよかったんだ、と、いまさらになって気づく。

「みーちゃん先輩、ありがとうございます」

 わたしは機転を利かせてくれたみーちゃん先輩にお礼を言う。

「行きたくなさそうだったから咄嗟に嘘ついちゃった。かりんちゃん、帰ってもいいよ」

 みーちゃん先輩はひそひそと言った。

「え、嫌だ」

 思わず心の声が口から飛び出る。

「え、嫌なの?」

 私の言葉が予想外だったらしく、みーちゃん先輩は虚を突かれたように固まった。

「わたし、先輩と遊びに行きたいです」

 そう言うと、みーちゃん先輩は、驚いたように目を見開いて、それから顔いっぱいに笑みを浮かべた。

「いいね、それ。すっごく楽しそう!」

 みーちゃん先輩とわたしは、スキップしそうな勢いでどたばたと会社を出る。どこへ行く? なにをする? と、はしゃいで話しながら、なんだか十代のころに戻ったような気持ちになった。目の前が楽しいことでいっぱいだった、少女だったころを思い出したのだ。終業後というよりも、放課後気分なのだった。

 とりあえず、ふたりでごはんを食べることにする。せっかくなので、ひとりでは入りにくいところにしようということになり、もんじゃ焼きのお店に決めた。もんじゃ焼きは、わたしもみーちゃん先輩も初めてだった。

「ひえ、こっちの土手が決壊してます!」

「本当だ、固めて固めて!」

「このへん、もう食べちゃってもいいんじゃないですか」

「もんじゃ焼き食べるのって、こんなに忙しいの? でも、おいしい!」

「本当だ、おいしい!」

 ビールを飲んで、忙しく手を動かして、わたしたちはずっと笑っていた。

 もんじゃ焼きの店を出た後、映画館の前を通ったときに、思いつきでレイトショーを観ることになった。

「夜の映画館で映画を観るなんて、子どものころには考えられなかったことだよ」

 みーちゃん先輩は言った。

「でも、私たちは大人だから、夜の映画館で映画を観たっていいんだ」

 そう言われると、レイトショーを観ることがとても素敵なことのように思えて、わくわくする。しかし、わたしもみーちゃん先輩も映画には詳しくなかったので、どの映画を観るかはポスターを観て適当に決めた。売店で、ドリンクとポップコーンのMを購入すると、ポップコーンが思いの外大きな容器で出てきて驚いた。

「わ、でか! これでMなの?」

「ふたりで食べ切れますかね」

 そんなことを言いながらポップコーンとドリンクを受け取り、指定された席に座る。映画の内容よりも、ポップコーンを食べ切ることに必死だった。

「ポップコーンって、あんなにがんばって食べるものじゃないよね」

「はい。もっと気軽に食べるものだったはず」

「でも、楽しかった。映画もだけど、ポップコーンも込みで」

 映画館を出て、みーちゃん先輩はそんなことを言った。わたしは首を縦に何度も振った。

「かりんちゃん、これからどうする? もしよければ、うちに泊まってかない?」

 思いがけない提案に、

「え、いいんですか」

 わたしは飛びつく。このまま、別れがたいと思っていたのだ。もう少し、みーちゃん先輩といっしょにいたかった。

「全然いいよ。布団がないからいっしょに寝てもらうことになるけど」

「どきどきしちゃいますね」

 言葉通り、どきどきしていたし、わくわくもしていた。わたしは家に連絡を入れ、こんなふうに友だちの家に泊りに行くなんて、何年ぶりだろう。

 わたしとみーちゃん先輩は電車に乗って、先輩のアパートへ向かう。駅に着き、途中のコンビニで、明日の朝ごはん用にサンドイッチを買って帰った。

 他人の部屋というのは、その人の生活を垣間見ることができて、少し楽しい。だけど、先輩の部屋は物が少なくて生活感がなかった。冷蔵庫などの最低限の家電はあるものの、ベッドや棚などの生活家具が全くない。借り住まいという感じがして少し寂しくなる。家出や蒸発という言葉のチョイスからして、みーちゃん先輩は、この街にそんなに長くいる気はないのかもしれない。

 シャワーとパジャマをありがたく借りて、わたしとみーちゃん先輩は布団に入る。

「予備の布団とかなくて。狭くてごめんね」

「全然いいです」

「でも、ベッドじゃないから、はみ出ることはあっても落ちることはないから安心だよ」

 わたしたちは、次から次へと他愛のない話をした。幼いころに好きだった駄菓子やアニメ、少女時代に読んでいた漫画の話など、深くは踏み込まず、お互いの表面をさらっと撫でるような、そんな話だ。だけどとても楽しい時間だった。

「私ね、いままでも楽しく生活できてるって思ってた。実際、それなりに楽しかったし。でも、違ったんだよね」

 唐突に、みーちゃん先輩が言った。

「かりんちゃんとおしゃべりしたり、こんなふうに遊んだりしてると、いままでの楽しいってまやかしだったのかなって」

「まやかし」

 その言葉が珍しくて、そのままわたしは繰り返した。

「まやかしは言いすぎかもだけど」

 先輩は笑う。

「いままでだって楽しかったし、それは本当に嘘じゃないんだけど、レベルが違うっていうか」

 みーちゃん先輩はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「かりんちゃんといると、ものすごく楽しい。段違いに楽しいの」

 それから、

「ごめん。私、なんだか浮かれちゃってるね」

 そう言って、照れくさそうに笑った。

「うれしいです。わたしも楽しいです」

 みーちゃん先輩は、こちらが驚くほど素直に「うれしい」や「楽しい」と口にする。なので、わたしも同じように素直にそう言った。そして、いつの間にか眠ってしまっていた。みーちゃん先輩の体温にすっかり安心して熟睡してしまったのだ。


   *


 きっとこれから、もっと楽しくなる。そう思っていたのに、みーちゃん先輩が急に田舎へ帰ることになった。お母さんが倒れたらしい。幼なじみさんから連絡が入ったそうだ。

「とりあえず今度の週末に帰って様子見て、かりんちゃんへの仕事の引き継ぎが完全に終わったら退職させてもらうことになった。たいしたことはないらしいんだけど、母も高齢だし、やっぱり心配だから。急なことだったから、会社にもかりんちゃんにも迷惑かけちゃって」

 終業後、焼き肉を食べながらみーちゃん先輩が言った。帰る前に贅沢をするんだと、みーちゃん先輩は弱々しくも少し張り切っていた。

「迷惑とか、そんなことはないです。それに、こういう緊急のときは迷惑かけたっていいと思います」

「ありがとう」

 店内は肉の焼ける音や他のお客さんの話し声でにぎやかだ。そんな雰囲気のなか、わしたちはしんみりと肉を焼いている。

「みーちゃん先輩。帰ったら、もうずっと、あっちで暮らすんですか?」

「うん。帰って、みんなに謝り倒してまた家業を手伝わせてもらう。許してもらえないかもしれないけど、私、他になにもできないし。それに私、実家の仕事が嫌いだったわけじゃなかったの。お見合いが嫌だっただけで。まあ、それも蒸発してから気づいたんだけどね。あ、そうだ。今度こそちゃんとお見合いでもしようかな。いままで親不孝してたから、今度は親孝行しなきゃ」

 みーちゃん先輩は、まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。あんなにお見合いを嫌がってたのに。蒸発しちゃうくらい嫌だったくせに。

「先輩、結婚しちゃうんですか?」

「私のことをいいって言ってくれる人がいればね」

「そんな人、たくさん……たくさんいますよ」

「そんなわけないって。こんな自分勝手なやつ。でも、ありがとう」

 嫌だな、と思う。みーちゃん先輩が、わたしの知らない誰かと結婚してしまう。そんなの、嫌だ。

「わたしは先輩のこと、すごくいいって思ってます。すごく素敵だって。わたし、先輩のことが好きです。大好きです」

「ありがとう、かりんちゃん。うれしい」

「好きです、みーちゃん先輩」

「離れられなくなるから、もうあんまり言わないで」

 本当にみーちゃん先輩がわたしから離れられなくなるのなら、何度も何度も好きって言いたい。だけど、わたしが駄々をこねても先輩が困るだけだということもわかっている。わかっているので、わたしは、我慢して口を噤む。

 わたしたちは、しんみりしながらむしゃむしゃと肉を食べ、ビールをがぶがぶと飲んだ。そして、お互いのその様子がおかしくて、結局笑ってしまうのだった。


   *


「週末に実家に帰ったらね、髪がだらしないって怒られちゃった。前髪からなにから伸ばしっぱなしでバサバサだもんね」

 月曜日、出社してきたみーちゃん先輩がそんなことを言った。

「わたしが切りましょうか」

 考える前に、そう言ってしまっていた。

「できるの?」

「わたし、実は以前、美容師をやってたんです。とは言っても、まだアシスタントで、手荒れがひどくなっちゃって、鋏を持たせてもらう前にやめちゃいましたけど。でも、免許はちゃんと持ってますよ」

 わたしの言葉に、

「そっか、それでうちの会社にきたんだ。かりんちゃんには、かりんちゃんの物語があるんだね」

 みーちゃん先輩は、しみじみと噛み締めるようにそう言った。そう言われた途端、わたしの中に、本当にわたしの物語が生まれたような気がした。いままで、自分の歩んできた道をそんなふうに思ったことなんてなかった。みーちゃん先輩の言葉で、ただただ通過してきた過去が、一瞬にして物語に変わってしまったのだ。

 みーちゃん先輩が田舎に帰る前日、挨拶のため終業間近の会社に顔を出したみーちゃん先輩といっしょに、先輩の家に帰った。わたしは通勤バッグに、以前愛用していた鋏とコームを忍ばせていた。刃物を所持した状態で、許可なく電車に乗ってもいいのか一瞬不安になったけど、もう乗ってしまったのだから仕方がない。素知らぬ顔をして、やり過ごす。

「どのくらい切りますか?」

 狭いバスルームにわたしの声が響く。一度借りただけのバスルームだけど、もうお別れなのだ。穴をあけたビニール袋をかぶり、バスタブの淵に座る先輩の髪の毛をコームで梳かす。みーちゃん先輩の髪は、腰に届くくらい長い。おそらく、蒸発してから全く切っていなかったのだろう。

「もう、思いっきり短くして。耳がまるっと出るくらい。前髪もおでこが見えるくらい」

「ベリーショートですか。すっきりしていいですね」

「うちの親的には、本当は適度に長くてきちんとしてる感じでいてほしいんだろうけど、別に短くたって清潔感があればいいんだから。ちょっとばかりの反抗だよ」

「じゃあ、思いっきり短くいっちゃいますね。みーちゃん先輩は小顔だから、きっと似合います」

 わたしは鋏を構え、切り始める。サロンを辞めてからずっと鋏をさわっていなかったのだけど、この日のために練習をした。といっても、父と母の髪を切らせてもらっただけなのだけど。

「かりんちゃんに会えて良かった。いっしょに仕事したり、遊んだり、すごく楽しかった。大人になってから、こんなふうに友だちができるなんて思ってなかった。離れるのは寂しいよ」

 髪を切ることに集中していて気づかなかったけど、みーちゃん先輩は泣いていた。

「遊びに行きます、絶対。絶対、またいっしょに遊びましょう」

 わたしは、励ますように力強く返す。

「うん、うん」

 先輩は頷きながら、鼻水を垂らして泣いた。せっかく仲良くなったのに、みーちゃん先輩と離れるのはとても寂しい。だけど、みーちゃん先輩が同じように寂しがってくれたことがうれしくて、わたしは複雑な気持ちで先輩といっしょに泣いた。視界が滲んで髪が切れない。わたしは、あふれてくる涙を拭いながら少しずつ慎重に鋏を動かした。

「かりんちゃんに会えただけでも、蒸発してよかったよ。落ち着いたら、手紙書くから」

「待ってます」

 こうして、みーちゃん先輩の蒸発は終わった。


   *


 しばらくして、みーちゃん先輩から、会社気付でわたし宛てに手紙が届いた。みーちゃん先輩の書いてくれていた住所を確認すると、隣の県だったので拍子抜けした。あんなに泣いてお別れしたのに、こんなに近場だったのか、と驚きと呆れとよろこびが同時にこみ上げてきた。みーちゃん先輩の言う地方とは、この街から在来線で片道二千円弱で行ける隣の県の観光地のことだった。「地方から家出してきた」という言葉の印象にすっかり騙されたな、と思いつつ、想像以上に近かったみーちゃん先輩の実家に感謝する。そして、なにより驚いたのは、みーちゃん先輩の実家が旅館だったということだ。お金さえ出せば、客として遊びに行き放題じゃないか、と単純なわたしは思ってしまった。ちょっと生活費を切り詰めれば、月に一回は遊びに行けるかもしれない。それが無理でも、せめて二ヶ月に一回。とりあえず、節約のためにお昼はお弁当をつくることにした。

 母はわたしの変化に驚いていた。そして、「好きな仕事を諦めなくちゃいけなくなって心配していたけど、他に好きなことや好きな人ができたのならよかった、安心した」というような意味のことを言った。本当はもっと長くて要領を得ない言葉の羅列だったのだけど、要約すると、どうやらそういうことだった。わたしが美容師を諦めてがっかりしているのではないかと思っていたけれど、違った。心配してくれていたのだ。わたしも、親に心配をかけてばかりだったんだな、と、みーちゃん先輩の「いままで親不孝してたから」という言葉を思い出しながら思う。


 そして今日、わたしはどきどきしながら電車に乗っている。これから、みーちゃん先輩に会いに行くのだ。でも、みーちゃん先輩にはわたしが行くことを連絡していない。わたしたちは、スマホの連絡先さえ交換していなかった。会社へ行けば、毎日会えたからかもしれない。旅館へは直接電話をかけて予約をした。受けてくれたのは、みーちゃん先輩ではなかったけれど、みーちゃん先輩といっしょに働いている誰かだ。それだけで、みーちゃん先輩に少し近づいたような気がする。

 靴は歩きやすいスニーカー。長い時間をかけて選んだ、お気に入りのものだ。お気に入りの靴とお気に入りの服に身を包み、わたしは、大好きなみーちゃん先輩のもとへと向かう。

 駅からタクシーに乗って、旅館へ到着すると、

「谷村様、ようこそおいでくださいました。お部屋へご案内申し上げます」

 きれいにお化粧をして、きっちりとした着物姿のみーちゃん先輩が迎えてくれた。そんなきれいなみーちゃん先輩に、わたしは、きっと泣き笑いのような表情で応えてしまったのだと思う。だって、わたしを見るみーちゃん先輩が、泣き笑いのような顔をしていたから。

「絶対、またきます」

 思わずそう言っていた。

「かりんちゃん、まだきたばっかりだよ」

 くだけた口調でそう言って、みーちゃん先輩は顔いっぱいに笑ってくれた。



ありがとうございました。

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