35話 柚からのキス
柚が倒れてから10日後に一般病棟に移ることができた。今日は一般病棟になって1日目だ。柚がどうしても午前中から面会に来てほしいというので、今日は予備校を休んで柚の面会に来ている。巽総合医療病院の呼吸器内科の一般病棟は5階にあり、柚は個室に移っていた。
ドアを開けるとベッドを斜めにして、病院着の上にカーディガンを着た柚がベッドに寝ている。少し窓が開いていてカーテンが揺れていた。柚はまだ眠っているみたいに目をつむったままだ。鼻に差してあった酸素マスクは取れている。
なぜ、窓を開いているのだろう。風は喘息には悪いはずだ。そう思いつつ、窓を閉めると後ろから柚の声が聞こえた。
「窓を少し開けておいてほしいの。外からの風を感じたい。すごく風を新鮮に感じるから」
この10日間、ベッドに寝たきり状態になっていて、密室のようなICUの空間で暮らしてきたので、柚からすれば、風も新鮮に感じるんだろう。でも身体に悪い。喘息が悪化したりしたら困る。僕は柚の言うことを聞かずに窓を閉めたままにして、柚のベッドの横にあるパイプ椅子に座る。柚がゆっくりと大きな目を開く。まつ毛が長くて多くてきれいだ。顔色も頬がピンク色に染まっている。体調は良さそうだ。
「圭太、私、ICUに居た時、悪夢を見てたでしょ。それが生々しくて、実体験したように感じて、今でも圭太と呼んでも来てくれないんじゃないかって、ビクビクしちゃう。毎日、圭太が面会に来てくれているのに、すぐに圭太の顔をみたくなるし、すごく寂しくなる。私、どこかおかしくなっちゃったのかな」
まだICUで錯乱していた時の悪夢の影響を受けているらしい。柚の性格からツンツンしたところが無くなくなって、まだ素のままの柚の状態だ。医師に聞くと、病院を退院すると一気に元の性格に戻っていくことが多いらしい。しかし、今回の入院が影響して、素の性格が、半年、1年も残ってしまう患者もいるという。
柚がどうなるかは医師でも判断がつかないらしい。
「圭太、手を貸して」
僕は右手を柚に差し出す。柚は僕の手を両手で持って、自分の胸元へ持っていくと安心したように目をつむる。
「圭太の手を握っていると安心する。圭太が来てくれたことを実感する。ICUに居た時は拘束具で手足を拘束されていたから、圭太の手を握ることもできなかった。ずっと圭太の手を握りたかったの」
僕の手で柚の精神が安定するなら、いつまででも握っていていい。僕も柚の体温を感じられて嬉しい。柚の両手はとても暖かい。そして僕よりもとても小さくてきれいな手。その手で必死に僕の手を両手で掴んでいる。
「俊輔も夏希も予備校が終わったら見舞いに来るって言ってたよ。マスターと明日香さんも近いうちに見舞いに来るってさ。妹の花楓も見舞いに来たがっていたよ」
「俊輔と夏希にはありがとうを言わないとね。救急車に乗せられるまで、俊輔と夏希も圭太と一緒に私に付いていてくれたんだから」
柚は優しく微笑む。どこから見ても薄幸の美少女だ。
「実はカラオケに行く前の日から調子が悪かったの。吸引器を持っていたから、吸引していれば大丈夫と思っていたんだけど、調子が悪いのに繁華街に行ったのは私のミス。だから、圭太が気に病むようなことじゃないから、気にしないでね。ゲームセンターに行ったのも、カラオケに行ったのも、私が楽しくて、病気のことを過信していたから起こったことだから、圭太のせいじゃないから」
そう言って柚は優しく微笑む。僕を気遣ってくれているのだろう。その気持ちだけでもありがたい。
「医師から聞いたけど、ストレス性喘息でも悪化すると、呼吸困難を起こして、対処できなくなる時もあるらしい。柚が思っているよりもずっと危険性がある。僕も気を付けるけど、柚はこれから絶対に無理しないでほしい。僕は柚を失いたくない。だからこれからは無理をしないでほしい」
「わかった。圭太がそれだけ心配してくれてるんだもの。私も無理はしないし、今までのように意地を張らないようにする。体の変調があったら、すぐに圭太に相談する。約束する。圭太、心配させてごめんなさい」
柚がシュンとした顔になる。僕は柚の両手から手を抜いて、柚の頭を静かに何回も撫でた。
「一番、心配していたのは瑛太さんだと思うから、瑛太さんには感謝しないといけないよ」
「瑛太お兄ちゃんは私が意識を取り戻してから、すごく説教されたの。だからもういい。瑛太お兄ちゃんヤダ」
「それは柚を思ってのことだから許してあげてほしい。それだけ柚のことを心配していたっていう証拠だろ」
柚は口を尖らせて、まだ口の中でぶつぶつと何かを呟いている。普段は仲の良い兄妹だ。放っておいても自然と仲良くなるだろう。これ以上、兄妹喧嘩の中へ入ると、話がおかしくなりそうなので、僕は途中で話を打ち切った。
病室は話をしていないと急に静かな部屋に戻る。僕は何も言わないまま柚の顔に見惚れていた。柚も僕の顔をじーっと見る。そしてふにゃりとした笑顔になって、顔を耳まで真っ赤に染めた。
柚は顔を赤く染めて布団を引き寄せて、自分の顔を隠す。
「圭太、私が意識を取り戻した時の会話を覚えてる。私、色々と、圭太に恥ずかしいことを言っちゃたんだけど、覚えてるかな?」
「ああ、覚えてるよ。嬉しかったよ。柚が僕のことを愛してると言ってくれて、すごく嬉しかった」
柚は頭まですっぽりと布団の中へ隠れる。
「今になってすごく大胆なこと言っちゃったなと思って、少し後悔してるの。恥ずかしい。でもあれが、私の本当の心なの。圭太がいないとダメなの。圭太がいないと私、何もできないの。24時間、圭太のことばかりを考えてる」
「ありがとう柚。僕も24時間、ずっと柚のことばかりを考えているよ。柚のことが大好きだ。愛してる。柚を離したくないと思ってる」
柚が枕から顔を半分くらい出して、僕を見つめてくる。僕も柚を見つめる。すると恥ずかしくなったのか、柚はまた布団の中へもぐりこんだ。
「圭太、一般病棟に移ったら約束していたことあったでしょ。私、きちんと覚えてるんだから、私と・・・・・・」
「うん、僕も覚えてるよ。好きだよ柚。愛してる。一生、君を守りたい」
僕はパイプ椅子から立ち上がって、ベッドに腰かけて、柚の布団を少しだけめくろうとする。すると柚がベッドから上半身を起こして僕に抱き着く。柚の目がウルウルと潤んでいる。そして、僕の唇に柚のほうから唇を重ねた。唇を重ねたまま2人でお互いに体を抱き合って、体を支える。
プルルンとした唇の感触、甘い味が僕の心をかき乱す。そして頭が真っ白になる。柚はさっと身を引くと両手で顔を隠してしまった。
「意識が戻ってからずっと圭太とキスしたかったの。やっと願いが叶ったけど、すごく恥ずかしいよ」
「僕は前からずっと柚とキスしたかったよ。だから恥ずかしいことじゃないよ」
柚が両手を広げて僕の体に抱き着いてくる。僕も柚の体を抱きとめて柚の体を抱きしめる。耳元で「もう1回、今度は圭太から」という声が聞こえる。「柚のこと愛してる」とささやいて、僕は柚の潤んだ瞳に吸い込まれるように顔を寄せて、柚の柔らかい優しい唇にキスをした。それから何回もキスで唇を重ねた。
このままだと止まらなくなりそうだから、僕は柚の体をゆっくりとベッドの上に寝かせて、自分はパイプ椅子に座る。
「私のファーストキスだったのよ。圭太にだけなんだから。圭太、私を離さないで」
「うん、僕はいつも柚の傍にいるよ。柚と一緒にいるよ。柚から離れないから安心して」
キスで僕の心はドキドキして破裂しそうだ。柚を見ると顔を赤くして、優しい微笑みを浮かべて僕を見ている。柚が元気になって一般病棟に移れて良かった。僕はその日1日、面会時間終了まで柚の部屋で、静かな一時を柚と一緒に過ごした。




