29話 マスターの嬉しい報せ
ピアノジャズが流れている喫茶店の中で僕は立ったまま目をつむって曲に聞き惚れている。この喫茶店に来るまではピアノジャズなんて興味もなかったし、まったく聞いたこともなかったけど、今では虜になっている。
切ない曲もあれば、激しい情熱的な曲もあり、甘い曲もある。ピアノジャズといっても曲層の幅は非常に広い。僕のスマホの中には数々のピアノジャズがダウンロードされていて、暇な時には部屋でも聞いているほどだ。
柚もピアノジャズが気に入ったらしく、スマホにダウンロードしていると言っていた。僕達2人の共通の趣味になってきている。柚と2人で演奏者や曲の話をすることも、最近は多くなっている。
良いなと思うピアノジャズの曲名などがわからないときはマスターに聞くのが1番だ。すぐに曲名も演奏者も教えてくれる。マスターほどピアノジャズのマニアはいないだろう。
僕は窓の外を見ながら曲を聴いている。今日はあいにくの雨だ。しかし、曲が雨によく似合っていて、普段はイヤに思う雨も、今日の雨は良い感じだなと感じてしまうから、人というのは不思議だ。
そんなことを考えていると店の玄関が開いて、1人の妖艶な美女が傘を畳んで店の中へ入ってきた。そして僕ににっこりと微笑みかける。その微笑みだけで癒されてしまいそうだ。
美女はカウンターがよく見える中央の4人掛けのテーブルに座る。オーダーを聞きに行くと「モカとショートケーキをお願いね」と甘い声でオーダーを言ってくれた。声も甘くてすごく魅力的だ。
カウンターへ戻ってマスターにオーダーを通すと、マスターが顔を赤くして、俯いたままショートケーキを切り分けている。いつもよりショートケーキの厚さが厚いように思う。あれだけの美女だからマスターもサービスしたいのだろう。
僕は美女のテーブルにモカとショートケーキを置くと、美女はマスターに向かって小さく手を振る。マスターは顔を上げずに小さく手を振った。2人は知り合いなのか?マスターに聞くわけにもいかないし、お客様の美女に聞くわけにもいかない。僕の心の中はモヤモヤでいっぱいになる。
僕が少しオドオドしていると、お客様の美女が僕を手招きする。お客様の美女の席に行って、お辞儀をする。
「君が圭太くんね。純一さんから話は聞いてるわ。私は水樹明日香。この近くの美容室で働いているの。純一さんと最近、婚約したばかりなの。私とも仲良くしてね」
婚約・・・・・・マスターが婚約・・・・・・僕、そんなの聞いてませんけど。今まで女っ気が全くなく、女性に興味を示そうともしなかったマスターが婚約。どうなってるんですか?
水樹明日香さんは黒っぽい茶髪・ニュアンスロングの髪形、大きな二重の涼しげな目元、きれいな鼻筋、ぷっくりとした唇、シャープな頬、長いまつ毛が小顔の中に端正に収まっている。肌は色白で、きめ細かくて、まるで絹のようだ。少し長身でモデル体型の妖艶な大人の美女だ。
こんな大人の妖艶な美女とマスターはどこで知り合ったんですか。すごく気になる。
水樹明日香さんはウフフと笑うと「この喫茶店の前でナンパされたのよ。純一さんがナンパしたの。あの純情な純一さんがよ。意外でしょう」
ナンパですか。マスターやる時はやるんですね。マスターはそういう風には全く見えないですけど。
「でも可愛いの。私が気づくまで、この喫茶店の前に出てきて小さく手を振ってるだけなの。だから、私も気軽に毎日、通勤途中にこの店があるから、純一さんに手を振っていたんだけど、純一さんったら私が店の前を通る度に、喫茶店から急いで出てきて手を振るから、可愛いと思っちゃって、私のほうがから「おはようございます」と声をかけたら、顔を真っ赤にして店の中へ逃げちゃうの。でも次の日になると店から出てきて手を小さく振ってるの。そんな純一さんのことが微笑ましくて、私のほうからこの喫茶店に通うようになって、つい最近、婚約したのよ」
マスター、毎日のように水樹明日香さんをナンパしてたんですね。それも集中的にピンポイント狙いじゃないですか。
水樹明日香さんはウフフと笑うと、またマスターを見て小さく手を振る。マスターは俯いたまま、顔を赤くして、小さく手を振り返す。
僕はカウンターまで戻って、マスターの隣に無言で立った。
「今は緊張しているから、何も聞かないでくれ。明日香さんの前だと緊張して、自分が何をしているかわからなくなりそうだから。集中していないとダメなんだ」
どんな純情っぷりですか。明日香さんと婚約しているんでしょ。なぜそこまで緊張しているんですか。僕の心の中にいたずら心がムクムクと沸いてくる。
「マスター、明日香さんから聞いたんですけど、婚約おめでとうございます。あんな妖艶で素敵な美女をナンパで捕まえるなんて、マスターも隅に置けませんね。もう明日香さんとはキスしたんですか?」
「何を言ってるんだ圭太くん。そんな恥ずかしいことを聞いてはいけないよ。圭太くんはそんな子ではなかったはずだ。いつの間にそこまで成長したんだい」
僕は幾つなんですか?マスターは僕のことを幾つだと思っているのか、今度、きちんと聞いておいたほうがよさそうだ。
「ですから、明日香さんとはキスしたんですか?」
「・・・・・・」
マスターは顔を真っ赤にして俯いたまま、モジモジしている。僕より年上の男性のモジモジを初めて見たけど、少し引きますよ。本気で明日香さんのことが好きなんだな。
喫茶店の玄関が開いた。玄関のほうへ振り向くと、柚が入ってきて僕を無視して、一番お気に入りの一番奥の窓際の4人掛けテーブルに座る。僕はトレイ持って、嬉しくて微笑んで柚の元へ向かう。柚は僕の顔から視線を逸らしたまま「モカ」と一言だけ告げる。最近の女性はモカが好きなのかな。僕の中では美女はモカ好きということになった。
「柚、ビッグニュースなんだけど、マスターが婚約してた。今、中央に座っている素敵な美女がマスターの婚約者さんで、マスターの顔を見に来たんだって」
柚が僕のほうを振り向いて、目を大きく見開いて驚いている。そして目の前に座っている女性の背中を見て、またマスターを見る。
「あのマスターが婚約・・・・・・今までそんな素振りも全然見せていなかったのに」
「すごく美人で素敵な女性でさ。この喫茶店の前でマスターがナンパしたんだって」
柚の目がこれでもかというほど見開かれる。いつも大きくてクリクリした目だけど、柚、今、すごい目になってるからね。
「マスターがナンパ・・・・・・あり得ない。私の知ってるマスターがナンパするなんて。私の中のマスターのイメージが崩れていく。何て言ったらいいのかわからない」
僕は驚いている柚をそのままに、カウンターへ戻って、柚のオーダーを通す。するとマスターが小さい声を僕にささやく。
「あんまり広めないでくれ。柚ちゃんの顔をまともに見ることができないじゃないか。柚ちゃんにも、あまり驚かないように言っておいてほしい」
「それは無理です」
普段、ナンパなんかしないように見えるマスターがナンパをして、婚約したのだから皆が驚いて当たり前だと思う。柚は僕の恋人だし、一応は報告するしかない。
淹れたてのモカをトレイに乗せて柚のテーブルまで行き、テーブルの上にモカを乗せる。柚はまだ驚いている。
すると中央の席に座っていた明日香さんが立ち上がって、クルリと振り返って、柚の席までくると、対面の席にチョコンと座って優しく微笑む。艶やかな微笑みで美しい。
「あなたが柚ちゃんね。純一さんから聞いているわ。本当に美少女ね。私は水樹明日香っていうの。明日香さんって呼んでね。純一さんの婚約者になります。これから仲良くしてね」
柚は明日香さんからの自己紹介を受けて、「広瀬柚です」とだけ言って会釈し、俯いて顔を真っ赤にして照れてしまった。
それを見て明日香さんがウフフと微笑んで優しく柚を見ている。柚が慣れるまで待っていてくれるつもりなのだろう。
僕はカウンターの端の定位置に立って、明日香さんと柚の様子を見る。少しづつ会話をしているみたいだ。柚の顔にも笑顔が溢れている。明日香さんも微笑んでいるようだ。
マスターがそんな柚と明日香さんを見て笑顔になっている。
婚約おめでとうございます。マスター。




