26話 俊輔からのプレゼント
久々に喫茶店のバイトに出ると、マスターの顔が少し嬉しそうに見える。普段は無表情なので、表情からは読み取りにくいが、どこかワクワクしている雰囲気が漂っている。
「最近、マスター、何か良いことでもあったんですか?」
何気なく自然にマスターに聞くと、マスターは顔を逸らせたまま、すこし表情がピクピクしている。
「なぜ、そういう風に思うんだい?」
「なんとなくです。根拠はありません」
僕の答えに満足したように頷くと、マスターは無言でカップを拭きだした。絶対に嬉しいことがあったと思う。でも僕にまだ話せないんだと思う。だから僕も無理にマスターから聞き出すことを諦めた。
マスターの20歳代後半で、髭を剃れば、それなりに端正な顔立ちをしている。今まで浮いた話の1つもないのが不思議なぐらいだ。常連客の女性客の間でもマスターの人気は悪くない。むしろ人気があるほうに思う。
それでもマスターに浮いた話がないことに、僕は常に不思議に思っていた。だから、マスターが嬉しそうにしている変化を見て、もう少し様子をみようと思った。
ピアノジャズの曲が流れて、喫茶店内は落ち着きと清楚さで満ちている。とても優雅なひと時だ。僕はこの一時が好きで、ここでバイトをしているといっても過言ではない。
玄関の呼び鈴の音が鳴る。振り向くと柚が頬をピンク色に染めて喫茶店に入ってきた。僕は小さな声で「いらしゃいませ」と声をかける。柚は僕の声を無視して、一番お気に入りの店の奥の4人席に座る。お水とおしぼりを持って、柚の元へ行き、注文を聞くと、短く「モカ」とだけ告げてくる。僕と目を合わそうとしない。恥ずかしいのだろう。
カウンターへ戻って「モカ」とオーダーを通すと、マスターがサイホンでモカを作り始める。サイホンからコーヒーカップにモカを入れて、カップをトレイに乗せて柚の所まで行き、柚の前にコーヒーカップを置く。嬉しそうに両手をこすって、柚が喜んでいる。柚はこの店のファンだからな。
カウンターの定位置に戻ってトレイを置いて、立ちながら、柚の様子をチラ見する。柚はテキストとノートを開いて、ペンを持って、今日の講義の復習をしているようだ。時々、頭にペンを持っていって頭をコリコリしている。そして僕をチラ見する。
マスターからの許可があれば教えに行ってあげられるけど、まだマスターからの許可がおりない。だから柚には1人で頑張ってもらうしかない。
マスターからの視線を感じる。僕もマスターの顔を見る。
「今は、店の中も暇だし、一緒に勉強してくれてもいいよ」
「ありがとうございます。では少しの間、失礼します」
僕はエプロンを取って、カウンターの下にきれいに丸めて置くと、柚の隣に座る。いきなり隣に座った僕に驚いて、距離を取ろうとする柚。
「わからない所があるんだろう。僕も手伝うから。隣に座らないと柚のわからない箇所が見えないから許してよ」
「わかったわ。許してあげるけど、必要以上に近寄ってこないでよ」
柚は念を押しながら、僕の隣に座りなおす。そしてテキストとノートを僕に見せて、わからない場所をペンの裏で差す。
柚がペンで差す場所から、僕は柚のわからない箇所をテキストを見て納得する。柚からノートとペンを借りて、ノートに丁寧に問題と解き方を書いていき、回答をだす。そして解説文を横に書いていく。そして要点がまとまっているテキストの箇所に〇印をつける。
そしてノートとテキストを柚の前に置いて、柚に丁寧に解説していく。すると柚はウンウンと頷いて、閃いたような顔になり、理解できたのか、花が咲いたような笑顔になった。とてもきれいだ。僕は柚に見惚れる。
「ありがとう。やっぱり圭太が教えてくれると、頭にスーッと解説が入ってくる。圭太ありがとう。本当に困っていたのよ。他にもわからない箇所があるの。それも教えて」
柚が出してくる問題を僕が丁寧に柚に教えていく。柚はすごく嬉しそうだ。柚は努力家だなと思う。2人で楽しい時間を過ごしていると玄関のドアが開いた。夏希と俊介が入ってくる。そして柚の対面の席に2人並んで座った。
俊輔は「俺はブレンドコーヒー、夏希はキリマンジャロにしてくれ」
僕は席を立つとカウンターへ行き、マスターにオーダーを通す。そしてエプロンを付けて、トレイを持って、マスターが入れたコーヒーを2人の元へ運んでいく。俊輔の前にブレンドコーヒーを置き、夏希の前にキリマンジャロを置く。そしてカウンターの端へ戻って、トレイを置いて、定位置でお客様を待つように立つ。
柚がテキストとノートを出しているのを見て、俊輔と夏希も仕方なく、テキストとノートを出して復習を始めた。良い傾向だ。
僕は他のお客様が来ないか注意しながら、柚達を見る。3人でけたたましく教え合っている。あの3人の中で俊輔が成績では一番に優秀なのが不思議だ。外見からすれば、一番、俊輔が勉強ができないように見える。
俊輔が手を上げて僕を手招きしている。僕がトレイを持って柚達の席へ行くと、俊輔がミュージカルのチケットを2枚取り出して、テーブルの上に乗せる。
「この間はチャラ男の喧嘩に巻き込んで悪かったな。夏希と話し合って、お詫びを考えたんだけどさ。この間、お前達、2人で映画を観に行っていただろう。だから映画のチケットはやめた。今度は2人でミュージカルを見て来いよ。俺と夏希からのお詫びのプレゼントだ」
ミュージカルなんて今まで見たこともないよ。どうしたらいいんだろう。柚はすごく嬉しそうな顔をしている。チケット代も高そうだ。ここで断ることもできない。
「ありがとう。今度、柚とミュージカルに行ってくるよ。僕は初めてだから少し緊張するな。柚にリードしてもらうよ」
「何言ってんの。どんな時でも男子がリードするものよ。堂々としていればいいんだから圭太が柚をリードしてあげてね」
夏希のキツイ一言が飛ぶ。確かにそうだ。堂々としているだけでいいもんな。どうして弱腰になっていたんだろう。俊輔と夏希にお礼を言って、僕はポケットの中へミュージカルのチケットを仕舞った。
僕は2人に礼を言って、自分の立ち位置へ戻る。するとマスターが少し微笑んでいる。俊輔の声が大きかったので、少し聞こえたみたいだ。
「圭太くんの年齢だとミュージカルを観に行ってもおかしくない。恥ずかしいなら、スーツでも着ていけばいい。スーツを着ていると、誰でもだいたいは大人にみえるからね。柚ちゃんも惚れ直してくれるかもしれないよ」
スーツか。1着だけ持ってるんだよな。着る機会がなくて困っていたんだ。今度、スーツを着てみよう。
マスターの目が道路側の窓に視線を移す。すると美女がマスターに向かって手を振っている。マスターも恥ずかしそうに美女に手を振り返した。美女はそのまま駅のほうへ向かって歩いていった。
マスターの顔が少し嬉しそうだ。今日、マスターが嬉しそうな雰囲気をしているのは彼女が原因だろう。いつの間に、どこで、あんな美女と知り合ったんだろう。マスターに聞いても教えてくれないだろう。
マスターが自然と教えてくれるまで僕は待つことにした。マスターは少しだけ顔を綻ばせていたが、僕が見ているのを見て、顔を無表情に戻す。
「お客様も少ないし、圭太くんは柚ちゃん達の元へ行ってきてもいいよ。忙しくなったら、呼び戻すから」
マスターが機嫌よく、提案してくれた。僕はエプロンを取ると、柚達の席まで歩いていって、柚の隣の席に座る。俊輔が頭を掻きながら、柚を見て困った顔をする。
「ダメだ。俺の説明だと、柚にうまく伝わらない。やっぱり圭太が教えたほうが早い。圭太、よろしく頼む」
柚の予備校の復習は、僕のバイトが終わるまで続いた。俊輔と夏希も一緒に復習をして、僕のバイトが終わるまで店にいてくれた。3人共、本当にありがとう。




