少女との邂逅
流彦の妹・うる香は制服のまま腰に手をあてて立っていた。
長身の流彦から比べると頭二つ分ほど背が小さいが、スタイルの良さは母の蹴陽ゆずりで、それを強調するように胸を突き出し、つんとした顎を引いてポーズを決めているのだった。
「お前、稽古があるんじゃなかったのか?」
と流彦が聞くと、うる香は髪をサッとかきあげ、形のよい鼻をフンと鳴らした。
「今日は出来が良かったので早めに切り上げていただいたんですの。それに、きっとお兄様だけではお母さまを連れて帰られるにも苦労されると思って参りましたのよ」
そう言って片眉をあげて、何やら憐れむような視線を送ってくるので
「そうかい、そりゃご苦労さん」
と、流彦は出し抜けにうる香の頭をぐりぐりと撫でた。
「なっ、何をするんですのっ!」
慌てて兄の腕を払いのけ、後ろにとびすさる。
「レ、レディの頭をいきなり触るなんて、たとえ身内でも不作法ですわよっ!」
そう言って髪を両手で押さえ頭の先まで真っ赤になって怒る妹の姿に
(タコみたいなやつ……)
と心の中で感想を述べながら、
「お袋なら、ほれ」
と小脇に抱えた母親を床に降ろしてうる香に示した。
「あ~、うるちゃん。やっほ~」
寝転がり、だらしなく笑う母親の姿に、うる香は眉を顰めてため息をついた。
「全く……またお酒に呑まれていますのね。お母様にも、少しは誇り高い火族としての矜持というものを持っていただきたいですわ」
「うぅ~ん、ごめんうるちゃん、お詫びに撫でさせてぇ~」
そう言って蹴陽はぬるぬると高速で這いよると、娘にひしっと抱き着こうとする。
「きゃぁ!」と乙女らしい悲鳴を上げて抵抗するうる香。
「お酒臭いですわよ、お母さま!」
「ぬひひ、良いではないかぁ良いではないかぁ~」
「ちょっと!ひゃん、どこを触って―」
親子のスキンシップを始めた二人を眺めていると、流彦のスマホのアラームが鳴った。
取り出して画面を確認する。黒い画面に浮かんでいるのは、青い蛇のマーク。
それは、「氷龍」が近くに発生する可能性が高いことを示していた。
幸いにして発生予測個所はドームの外。
しかし、そこは先ほど流彦が炉亜に変身した公園だった。
富士宮をはじめ、各都市には氷龍の発生をいち早く検知するための観測機器が網の目のように設置され、24時間体制で監視が行われている。
氷龍は時と場所を選ばず発生するが、その前には必ずといっていいほど予兆があることが分かっている。「氷素」と呼ばれる物質の濃度が急激に高まるのだ。
こうした予兆が発生した場合、近くにいる火族にこうしてアプリなどを通して通知が行くようになっている。呼びかけに応じて馳せつけた火族が初期対応を講じることで、より大規模な氷龍発生を防ぐ仕組みだが、
(現時点で一番近いのは俺か……)
有力な火族たちは皆歓待式にいるし、火廷の方でも警備などに人を割いているため、すぐには動けないだろうと思われた。
何より危険度の等級は「Eランク」だった。
すぐに大規模発生につながる危険はない。となれば火族たちの反応は鈍いだろう。報酬の少ない仕事は割に合わない、と考えるのは火族とて同じことだ。
報酬はともかく、流彦も酔っ払いという厄介な荷物を抱えている以上、そちらを優先するつもりであった。けれど――
(なんだ、この感覚は……)
予感とか虫の知らせというには小さい、けれど何か脳の奥底に張り付いて離れない妙な疼きを流彦は感じていた。
(この通知のせいなんだろうか……)
思わず知らず、流彦の足は扉の外へと向いていた。
「あ!ちょっとお兄様!」
腰に抱き着いて離れない母を引きはがそうとしながらうる香は
「どちらに行かれるおつもりですの!?」
と呼び止める。ハッとして流彦は振り返った。
いつの間にかぼんやりしていた頭がはっきりする。だが再び思い直して、うる香を見つめ返した。
「うる香」
と静かに呼びかけると、
「な、なんですの……」
急に改まった兄の様子に、妹の瞳は揺れていた。流彦は母とうる香の顔を交互に見ると、
「仕事ができた。二人でしばらくここにいろ」
と言い残して、扉を開けて外に出た。
「お、お兄様――」
ガラス戸の向こうに妹の声が跳ね返るのを聞く間もなく、流彦は夕闇迫る路地を駆け出していた。
女装のままでは歩きにくい、と流彦は元の姿に戻って雪道を駆け、ドームの外へと抜け出した。
人目のつかないところまで来ると大鷲へと変身し、件の公園へと向かう。
小さな疼きはいまだに流彦の脳裏に張り付いていた。
これの正体は何なのか。
行った先に何があるのか。
何も分からなかった。
けれど、今。今動くことが重要なのだ、と流彦は直感していた。
こうして衝動に動かされるなんて、らしくない。と我ながら思った。
昼に見た夢の残滓がそうさせているのだろうか。
顔や翼を切りつける冷風を感じながら、流彦は自身の思考を整理した。
(お袋とうる香はあのままでも大丈夫だろう。うる香の能力なら、お袋を乗っけて家に帰ることもできるし。さっきの通知は課長も気づいていただろうか。まずは連絡をつけてみなくては)
「通話開始」と小さく呟くと、耳に埋め込んだ小型の送受信機が起動する。通話を求めていることは向こうに伝わっているはずだが、ザザーっと砂嵐の音しかしない。忙しくて手が回らないのかもしれない。いったん、連絡は諦めることにした。
流彦は隈なく眼下に目をやって、何か異変がないか注視した。
市街地中心ではないとはい、ヒト族の生活圏に氷龍が発生することは、それ自体が彼らの恐怖を呼び覚まし、下手をすれば大きなパニックにつながる。
派手で華やかな火族本来の戦いとはほど遠いこんな仕事でも、火族とヒト族双方の調和と安定を目指す「火廷」に属するものとしては、職業上疎かにはできないのだった。
やがて氷龍が発生すると警告された場所に到着する。
公園の中は、ほんの数十分前と何も変わらないように見える。
人型の姿に戻り、流彦は歩いて巡視を始めた。
辺りはすっかり夜の闇に溶け始めていた。
昼間は多くの人々の憩いの場となっているだろう緑の芝生も、今は冷気だけが虚しく漂っていた。
芝の丘を登ったところに、生垣で囲われた小さな庭園がある。
ツツジやサザンカ、バラにシャクナゲ。種々の花々の木が点在する丘は、頂上の噴水へと続いている。噴水は直径5メートルほど、白い石で作られた低い壁には植物を抽象化した模様が刻まれていて―
そこまで見たとき、流彦はその噴水の壁に一つの影がうずくまっているのを見た。
「あれは!」
急いで駆け寄ると、それは一人の少女だった。
年のころは流彦と同じくらいだろうか、長く赤い髪が、ベージュのダッフルコートにかかっている。体をレンガの床に横たえ、長い睫毛に縁どられた瞼は閉じられている。
眠っている、否、気を失っているのだろうか。
ゆっくりと抱き起そうとした流彦は、後ろに鋭い気配を感じて振り返った。
氷龍が鎌首を持ち上げ、こちらをうかがっていた。
ようやく、ヒロイン(再)登場です。