母からのビデオメール
「げほっ、けほっ」
蓮杖流彦はうつ伏せになりながら、何度か咳をした。
痛むみぞおちに手を当てて、空気を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。
「流彦、大丈夫?」
背中越しにほたるの声が聞こえる。
流彦とは5つ年の離れた姉だ。
流彦の背中を、ほたるはゆっくりと撫でている。
温かな掌の感触が伝わったおかげか、痛みが和らぎ、呼吸も落ち着きを取り戻していく。
流彦は血の味のする唾を吐くと、姉の手を逃れるように立ち上がろうとする。
だが、すぐに足元がふらつき再び倒れこんでしまう。
「あ、ダメよ、まだ動いちゃ」
優しい声とともに流彦は後ろから抱きかかえられた。
ほたるの柔らかな体の感触と髪の香りが流彦を包み込む。
(離せ、離してくれ!)
流彦はそう叫ぶ。例え自分の方が年下であっても、女に慰められているこの状況はプライドが許さない。喧嘩でボコボコにされたあげく、姉に介抱されている自身が許せない。
けれど、流彦がいくら体をよじっても、ほたるに押さえられたまま動くことができなかった。
それもそのはずで、ほたるの方がはるかに腕力で勝っていたのだ。その事実を改めて突き付けられて、流彦は嗚咽を漏らす。
(うぅ……)
泣いてはダメだ。
感情があふれる一歩手前のところで踏みとどまり、力を振り絞ってほたるの腕から逃れようとする。
けれど―
「流彦、もういいから……私のためにケンカしたんでしょう?私を、守ろうとしてくれたんだよね。ありがとう……流彦!」
姉の涙声に、流彦の感情の堰が切れた。
「うぅ……うぐぅ、うううぅ!」
涙があふれ、嗚咽が止まらなかった。
何一つ守れない自分が許せなくて。
守りたいものに守られている自分が許せなくて。
そのくせ、姉の優しさが何より身に染みて。
だから、強張った喉から、こう絞り出すのが精一杯だった。
いつか必ず、オレが守って見せるから、と。
* * *
ふわっと温かな匂いがして、流彦は目を覚ました。
(……)
久々に見る夢だった。
ほたるが亡くなってから既に5年。
小さい頃の夢なんてもう見ないと思っていた。
薄れていたはずの記憶が一体何の拍子で浮かび上がってきたのか。
もはや、思い出したとて一滴の涙も流れないというのに……。
思い出を意識の底から呼び覚ますような何かが最近あっただろうか。
(……どうでもいい)
夢に意味なんてない。いちいち意味づけをする必要はない。
頭を振って、周りに目をやる。
カーテンの隙間から差し込む光で、だいぶ陽が傾いていることがわかる。
階下から、食器が触れ合う音がわずかに聞こえてくる。
さっき鼻腔に流れ込んだのは、料理の匂いか。
(もうすぐ、晩飯時か……)
流彦はベッドから起き上がると、扉を開けて殺風景な部屋から廊下に出た。
らせん階段を下りてすぐのところに「食堂」とふるめかしい札のかかった扉が開いている。中に入ると、そこは白く小ぎれいに内装された広いダイニング。
部屋の中央、天井から吊り下げられた液晶テレビには夕方のニュースが流れている。
火族に関するトピックだ。
「本日午後2時、火廷派遣の「樺太・千島列島方面氷龍討伐隊が帰還しました。成田に到着した一行は首相の出迎えを受け―」
アナウンサーの音声の向こうで、流彦の母・蹴陽や他の火族たちが閣僚たちと握手する映像が流れている。
それをぼんやりと眺めていると、向こうから静かなモーターの駆動音が近づいてきた。
「流彦様、おはようございます。」
女性の電子音声。
やってきたのは、1台のロボットだ。
カーボン製の大きな2輪タイヤがついた下半身に、ヒト型の上半身が乗っている。卵型の顔の半分以上を覆う液晶バイザーには「Good morning,Sir!」とサイケデリックな書体で表示されている。
「あぁ、おはよう、サンティア」
流彦はロボットにそう返した。
家事用ガイノイドのサンティアは母・蹴陽が作ったものだ。料理、掃除、洗濯と完ぺきにこなすが、なぜかどんな時間でも家人にはおはようございます、と挨拶をする。
どこぞの業界人じゃあるまいし、とは思うが、別段苦情を言うほどのこともないので流彦も合わせておはようと返すことにしている。
今サンティアは大きな鍋を両手で抱えている。
銀色の鍋の中からはぐつぐつと煮え立つ音と、濃厚な香りが伝わってくる。
ビーフシチューだろうか。母の大好物だ。
流彦の視線を感じ取ったのか、サンティアは頭を下げてこう言った。
「申し訳ございません、流彦様。ご夕食の時間まではあと2時間36分41秒ございまして、このお料理をもちまして流彦様のご空腹にお答えすることは致しかねますが」
「いや、別にメシの心配に来たわけじゃねぇよ。たまたま今起きただけで」
流彦は小さく手を振った。腹が空いていないのは事実だ。
するとサンティアは慇懃に再び頭を下げて
「左様でございますか……アメでしたら手元にございますが―」
そう言って腕に付属したマニピュレータを使って、メタルボディの上からかけているエプロンのポケットを探ろうとするので、
「いや、だからいいって」
流彦は苦笑して立ち去ろうとした。まだ時間があるのなら、思う存分寝ていたいと思ったのだ。
と、その時、サンティアの中から声が聞こえた。
「あれ、るぅ兄ぃ、起きたの?」
サンティアの声ではない。液晶バイザーの映像がカメラに切り替わり、妹・コロナの姿が現れる。
栗色の髪は大きく赤いバンダナで纏められ、滑らかな額には珠のような汗が光っている。
「おう」と流彦は答える。コロナはこの食堂の反対側にある厨房にいて夕食の準備の真っ最中だ。
サンティアの動きは厨房でモニターしている。
彼女が会話を始めたことにコロナが気づいて、無線を飛ばしたのだろう。
「今手が離せなくてさ、頼みたいことがあるんだけど―」
「却下」
流彦が即答すると、「もぉー!」コロナは不満げにため息をついて怒る。
「まだ、何も言ってないでしょ!」
「そりゃ、言われても聞きたくねえからな」
画面の向こうで赤々とした頬をぷくっと膨らませる妹の姿を、流彦は愛らしいとは思うのだが、それはそれ。これはこれ。今は後味悪く終わった睡眠を再開したいという思いのほうが強かった。
どうせそっちで何か手伝えってんだろ、と流彦が言うと、
「バーカ、るぅ兄ぃなんかキッチンにいても足手まといだよ」
と苦笑しながらコロナが切り返す。
「サンティア、ビデオメールを見せてあげて」
とコロナが言うと、
「かしこまりました」
サンティアの液晶バイザーが再び切り替わる。
今度は、腕組みをして目を閉じて座っている女性の姿が写っている。
蹴陽だ。
周囲に写る金属質の壁からして、どうやらコクピットの中らしい。
蹴陽は目をゆっくりと開くと、にぃっと笑い
「フハハハハハ!元気にしていたかな諸君!お母さんだぞっ!早速だが、君たちに指令を伝える!題して!」
そういって、母親は右手の人差し指を画面のこちらに突き付けた。
「この私、蓮杖蹴陽の救出作戦であるっ!」