殻籠りの空
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
はい、おそまつさまでした。こーちゃんは卵に関してはしょうゆ派なのね。私は塩コショウだけど。
私ね。ずっと昔は食用の卵からもヒヨコが生まれると思っていたのよ。だから卵料理ってものすごく残酷なイメージがしていたわ。あの粘り気を帯びた黄身が、これからヒヨコに変わっていくのだと思うと、気持ち悪ささえ覚えていた。
後に、食用の卵は無精卵だから、温めてもひなが出てくることはないと聞いて、少しは安心したけれど、今度は別の哀しみを感じるようになったわ。どれだけの命が相手にめぐり合えず、その可能性を摘まれるのだろうって。
一時期は卵の殻さえ割るのも怖くなった。直接、手を下すというのが恐ろしく感じられてね。でも、ある事件をきっかけに、私は少し考えを改めるようになったわ。
準備はできた? それじゃ、話すわよ。
ある朝。ご飯を食べた私は、いつも通り自分の部屋で、学校へ行く支度をしながらベランダの窓越しから空を眺めていたの。けれども、その日は空の様子がおかしかった。
ほとんど雲に覆われているのに、中央にぽっかりと青空がのぞいている。私のいる位置からだと、サッカーボールくらいの大きさの空間。
更にのぞいている青空の中心。その真下の部分から垂れ落ちるようにして、雲に一筋の溝が入っていたの。溝は周りの灰色とは、はっきりと違う性質の黒みを帯びている。まるで乾いたアスファルトに尾を引く、一筋の水跡を思わせたわね。
後ろのドアからノックの音。続いて顔を出したのは、私の祖母だった。
いつもこの時間は、家の裏の畑で土いじりをしているはず。それが私の部屋へ来るなんて、とても珍しかった。
「見たかい? いや、見えるかい? あの空が」
祖母はベランダの窓越しに、あの奇妙な空を指さしながら、おかしなことを尋ねてきたの。
視力には自信があった。バカにされたような気がして「見えるよ! それがどうかしたの!」とやや強めに答えちゃったわ。
すると祖母はただでさえしわが多い顔を、更にしわくちゃにするように、顔をぎゅっとしかめる。ちょっと言い過ぎちゃったかな、と早くも後悔する気持ちが出てきたけれど、やがて祖母は私に近づいてくると、家庭菜園用に身に着けるエプロンの前ポケットに手を突っこんだわ。
取り出したのは、キャップのついた園芸用のハサミ。持ち手部分には紫色のリボンがついていて、それを差し出しながら祖母は告げたわ。
「もしも、あんたが『おかしい』と感じることに出会ったならば、そこから離れて離れて、離れなさい。するとやがて、とてつもなく気分も体調も悪くなる場所が見つかるはず。そこに着いたなら、今、渡したハサミで切りなさい。切れそうなものがあったとしても、なかったとしても」
更に祖母は別のポケットから、封筒を取り出したわ。交通費が必要かもって話しながら。
中をのぞくと、私のバイト代、数日分はある。
同時に、確信した。祖母の言動は悪ふざけではなく、真剣だって。
どちらも大切にかばんへしまい込んだ私は、時間を確かめる。そろそろ家を出なくてはいけない時間帯だった。
その日、私は普段通りに授業を受けたけど、ちょっと衝撃的なことがあったわ。
昼休みに男子に告白されたの。体育館の裏手で。
それはあまりにも急だった。戸惑ったけど、やがて私は丁重にお断りした。今は恋愛をしたい気分じゃなかったから。
告白してきた男の子とは同じクラスだけど、大して話したこともない。彼が私のことをどれだけ知っているかはわからないけど、私は彼のことを全然知らない。それで付き合っていける自信がないから、と告げたわ。
「付き合ってから、お互いを知っていくじゃダメかな」と食い下がって来たけれども、そのお互いを知っていく過程で傷ついた経験のある私には、逆効果な言葉だった。
もう一度「ごめんなさい」と頭を下げて、私は足早にその場を去ったの。空は相変わらず、奇妙な形の青をたたえていたわ。
極力、告白していた彼のことは気にしないようにしていたつもりだったけど、午後の私はどこか様子がおかしかったみたい。みんなから何度か心配されたけど、平気だと告げたわ。
月一回の女の事情も近いし、そのせいかなとも思って、部活動は休むことを伝えた。こんな日は何か美味しいものでも食べて、気晴らしをしたい。そう思って、私はお気に入りのケーキ屋さんに向かったわ。持ち帰ることも、中で食事をすることもできるスタイルのお店。
ところが、そこに会いたくない人がいた。あの告白してきた彼。
しかもお客じゃない。店員だった。入口脇のカウンター。その真下の三段になったショーケースから、ケーキを取り出しては箱に詰めて、並んでいるお客さんに手渡している。
先ほど私に振られた人と同一人物とは言えないほど明るい笑顔。商売なのだから別におかしくはないのだけど、私は複雑な気持ちになって、そのお店から離れていった。幸い、彼はこちらに気づいていないようだった。
ケーキ屋なら、まだ当てがある。少し歩くことになるけど、私は別のお店に向かったの。でも、向かわなかった方がまだ良かったかも知れない。
そこにも、彼がいた。今度はウエイターとして、紅茶とショートケーキが乗ったトレイを持ちながら、テーブル客の前で足を止めているのを、ちょうど目に留めたの。
ちょっと背筋が寒くなった。私はあのお店から最短距離でここまで来た。せいぜいかかった時間は十五分程度。その間に、あの並んでいるお客をさばいて、着替えて、この店まで来て、ウエイターをやる……そんなこと、できっこない。
彼の顔が、こちらを向いた気がして、びくびくしながら、私はまた背中を向けたわ。
もう、今日は家に帰っちゃおう。そう思って、私は最寄り駅へ足を向ける。デパートと一緒になっている、それなりに大きい駅だ。
私は真っすぐ改札に向かう。まだ日が高いせいか、人通りもまばらだったけど、見知った顔がいくつか。
クラスの委員長、私がいつも行く美容院のお兄さん、数週間前に入院したおじさん……。
何となく目に入れているうち、私はまた鳥肌が立つのを感じ始めていたわ。
知っているの、私は。この構内にいる人の顔を、全部全部。
駅員さんも、道行く人も、その全てが私の知っている顔をしている。見たことのない人が、一人もいない。
私は構内を出て、ロータリーへ。バスやタクシーの中も、それとなく眺めてみて、確信を得たわ。駅の窓口に立っていた人と、タクシードライバーの一人がまったく同じ顔をしている。それは三年前に亡くした、私の祖父のものだったから。
今朝、祖母に聞いた言葉を私は思い出していた。「おかしい」と思ったことから離れろ、と。
私は駅から離れて、走り始めたわ。自宅とか見知った場所に行くのは避けなくてはと、直感的に思ったの。
乗り物には乗れない。あの知った顔だけが乗り込んでいたら、何が起こるか分からない。信号、横断歩道も却下。一度、赤信号で並びかけたけど、こちら側にいる人たちと同じ顔の人たちが、道路の向こう側にずらりと並んでいた。
私は車の流れが途切れたすきを見計らい、私は今まで自分が踏み入ったことのない道を選び、遠ざかっていく。頭上を見ると、ぽっかりと開いていたはずの青空が、今や私の握りこぶしに満たないほどに小さくなっていた。
あの青が無くなった時が、きっと「終わり」。頭の片隅でそう思ったけど、足はひたすら動かし続けていたわ。
やがて公園が見えてきた。遊具の姿は何もない。ただ粗末な木のベンチと、敷地のほとんどを占める、大きく口の開いた砂場があるばかり。私の知らない場所。
そう認識したとたん、私は身体中が痛くなった。頭も今すぐに割れてしまいそう。思わず通学かばんも投げ出してうずくまりそうになったけど、どうにか耐えて私はかばんの口を開く。
祖母から託されたハサミが転がり落ちた。持ち手の紫色のリボンが、なぜか湿っていてますます濃い紫を帯びていたけど、気にしている余裕はない。
私はえずきそうになるのを必死に耐えながらキャップを取り、ハサミの先を、目の前に広がる公園の入り口へ向け、空気を断ち切ったの。
気づくと、私は家を出る前。玄関の戸の前に立ち尽くしていた。先ほどまでの不快感は、まったくない。腕時計を見ようと左腕を持ち上げると、袖に引っかかっていたらしい、何かが落ちた。
それは卵の殻だった。真っ二つにぱっくりと割れているのに、中身は何も入っていない。
思わず悲鳴を上げた私。それを聞きつけてやってくる、母と祖母。母は私の足元に転がる殻を手に取り、「遅れるから、早く行きなさい」と告げながら、早々に台所へ消えていく。
けれども祖母は私の頭をなでながら、優しく告げる。「よく無事でいてくれたね」と。
祖母がいうには、例の奇妙な天気は「殻籠りの空」と呼ぶの。
祖母も小さい頃に聞き体験したのだけど、あの空が見えるのは、これから「向こう」に誘われる者と、「向こう」から帰って来たものだけとのこと。あれは「向こう」と「こちら」をつなぐ殻のすき間で、誘われた者はその自覚なく、「向こう」へ吸い込まれてしまう。
「向こう」はこちらに似ているが、どこか異なる点があり、あの空の殻が完全に閉じてしまうまでに、そのほころびを断ち切ることができれば、こちらに戻って来れる。できなければ、恐らく向こうに残されたままになる、と。
そして帰って来た者の袖には必ず、割れた卵の殻がくっついているらしいの。
その日の学校。「向こう」で私に告白してきた彼は、登校してこなかった。代わりに、彼の机の上には、ニワトリの卵が置いてあったわ。集まった生徒たちが、面白半分で割ろうとしたけど、卵は信じられないほど頑丈で、落としても踏みつけてもつぶれるどころか、殻にひびひとつ入らなかった。
気味悪がられて、そのままゴミ箱にポイされちゃったの。そして彼は、次の日も、その次の日も、学校に来ることはなかったの。




