姉
妻が横の布団から私を呼ぶ。私は寝酒の薔薇酒を飲みながら(妻の手製だ)、漫画雑誌のページをめくっていた。所謂、そういうお誘いかと思いきや、妻は真剣な顔で甘い空気の欠片もない。
「だからね、私、思うのよ」
何が「だから」に掛かっているのか、皆目、見当がつかないが、これが我が妻だ。私ももう慣れたものでのんびり応じる。和紙が貼られたフロアライトが安らぎの空間を演出している。
「何をだい?」
「沖田さんに、お見合いを勧めてはどうかしら」
「…………」
「ね? 今は彼も独身だし、そうすれば寂しくもないと思うの。時々、沖田さんから感じる翳りは、彼の孤独から来ていると思うのよ」
「待て、待ちなさい。一旦、落ち着こう」
「あら、私は落ち着いてるわよ?」
そう、狼狽しているのは誰あろう、この私自身だ。
「例え彼が独身で寂しい身の上だとしても、……幽霊だぞ?」
妻は口を「あ」の形にして右手を前に遣った。ああ、そそっかしい我が愛妻よ。
計画が頓挫し、深い溜息を吐く妻を見て、やれやれと私は思った。
翌日の夕方、いつものように縁側に座る沖田君の隣に、私は妻と入れ替わる形で座った。妻はまだ諦め切れないらしく、沖田君を未練がましく見ている。これ、見様によってはだいぶ問題だ。縁側に座って右手の西側から夕日が最後の残照を投げ掛けている。その光に縁取られた沖田君は確かに翳りを帯びた孤独な青年と見える。見合いは論外だが。そもそも生者と死者の間には、文字通り深くて長い川が横たわっている。
妻が洗濯物を取り込むのを横目に見ながら、私は沖田君に語り掛けた。名にし負う剣豪相手ではなく、自分より若い者に対する口調で。
「沖田君には、好いた娘さんがいたんだよね。今でも彼女が恋しいかい?」
すると沖田君は菩薩の如き静穏な表情で答えた。
逆光となっても、彼自身の発する淡い光でそれが見える。
「彼女は後に別の男性と結ばれ、子を産み、長寿を全うしました。僕のような無念の死ではない。今でも、幸せであってくれればと思います」
私は己を恥じた。沖田君は、私よりもずっと大人だった。愛する人の幸せを祈り、鷹揚に構えている。
だから、私は忘れるところだった。沖田君が、「沖田総司は愚かだった」と言ったことを。その時の寒気のするような笑顔を。
「光姉上は幸せであっただろうか……」
唐突な彼の言葉に私も思い出した。
そう言えば彼には姉がいた。確か十程、離れていた筈だ。沖田君と知り合って以来、私も彼については調べて少しは詳しくなっていた。
「沖田家の家督相続の為に婚姻を交わして、維新後は不肖の弟を持った身として肩身が狭かっただろうと思うと」
遣り切れないものがあるのです、と沖田君は続けた。その声に、私まで遣る瀬無くなった。
「姉上のその後は解らなかったのかい」
「それが朧げでよく掴めませんでした。けれど」
風が吹く。烏が鳴く。日が落ちて闇の横行する時となる。
「ようやく、捜し当てることが出来ました」
ああ、またもや魔性の笑みだ。私は沖田君のこの笑みを見ると背筋が寒々とするのだ。この笑みは陽光とは真反対に位置するものだ。昏いものだ。私は沖田君に引き摺られまいと、膝に置いた拳に力を籠めた。