Ⅱ
ガラーン、ガラーンと、大鐘楼から重厚な鐘の音が王都中に響き渡る。
朝食を配る僧医や手伝いの街の女たちが、クレスツェンツを避けることもなく次々と通り過ぎていく。彼女らは王妃が久しぶりにここへやって来たことも知らずに、患者たちのもとへ柔らかい粥を運んだり、小さく切った果物を食べさせたりしていた。
朝の陽光が射し込む施療院の大部屋の中だ。夏の厳しい暑さは通り過ぎ、換気のために開けた窓から爽やかな風が入ってくる。寝台の上で朝食を摂る患者たちの顔色は、ここ数ヶ月のクレスツェンツより遙かによかった。
食事を終えた患者たちの食器を下げるトレーの上には、不思議な形に折られた白い紙が乗っていた。せわしなく行き来する女たちの手許をよく観察してみるが、だいたいどのトレーにもその紙は乗っているようだ。しかし形までは確認出来ない。
あれはなんだろう。気になったクレスツェンツは、いつも食事どきの手伝いに来てくれていた近くの商店の女将のあとをついて行った。
彼女は食器を厨房に運ぶと、隅に置いてあった籠の中へその白い紙を放り入れる。手に取ることは出来なかったが、クレスツェンツは籠の中身を見てピンときた。
これは食事と一緒に患者に配られる薬の包み紙だ。それを花の形に折ってあるらしかった。どうやら、薬を処方されたひとりひとりがその紙で花を折っているらしい。
「それじゃあ、あたしはそろそろ失礼しますよ。お花、祭壇に持って行っておきますからね」
あらかた食事の片付けを終えた厨房を見渡し、女将がそう言った。ほかの手伝いの女たちが「はぁい」と元気のよい返事をする。
女将は籠を持って施療院を出る。クレスツェンツは再び彼女のあとをつけた。
女将はまっすぐに大教会堂へと入って行った。庶民の祈りの時間は終わっており、広い広い聖堂の中では数名の僧侶が祭壇に奉った供物を下げていた。
女将は僧侶の一人に声をかけてから、彼の案内のもと、祭壇に向かって左手へと進路を変える。
これは解せない。天の主神を祀る祭壇は聖堂へ入って真正面にある。女将は紙の花を「祭壇に持って行く」と言っていたはずだが。
やがて彼女が立ち止まったのは、ある天井画の真下。
見上げれば、そこにいるのは天の主神の第十番目の娘。救療を司る女神ユーニキアだった。女神の真下には、小さな祭壇がこしらえてあった。
祭壇は白い紙の花に埋まっているような状態だった。辛うじて見える壇上には、本物の花も飾ってある。
女将は籠から丁寧に紙の花を掬い上げ、祭壇の周りに積まれた花の上に、更にそれを盛っていく。
そして彼女はうやうやしく跪き、祈りを捧げた。
「王妃さまのご病気がよくなりますように」
クレスツェンツは息を呑んだ。しばらくじっとして祈りを捧げる女将の背中を見守る。
やがて女将がいなくなると、彼女は祭壇の前に立って天井画を見上げた。
ドーム状の天井に描かれた女神ユーニキアは、銀に輝く雷の槍と、もう一方の手には青い花を持っていた。あの花は地上にない甘美な香気を放ち、万能薬になるという。それゆえ彼女は病から人々を救う女神とされていた。
ここに集められた白い紙の花は、祈りとともに女神に捧げられたものだ。花を摘んだり買ったりすることの出来ない施療院の患者たちが、薬包紙で花を折って、この祭壇に捧げているのだ。
女将がいなくなったあとからも、別の手伝いの女、街の医者、施療院で働く僧侶などが、生花を、あるいは紙で折った花を持って祭壇の前へやって来た。皆一様にクレスツェンツの快復を祈っていく。
やがて、長らく同志としてつき合ってきた施療院長オーラフが、大きな花束を抱えてやって来た。彼はどこか寂しそうに、天井で微笑む女神を見上げる。
「女神ユーニキアよ。あなたがお持ちになっている青いお花を、王妃さまのもとにお遣わし下さい。皆あの方のお戻りを待っております。王妃さまは、天上におわすあなたの代わりに多くの人々を救うでしょう。どうかあなたに花を捧げた者たちの願いを、お聞き届け下さいますように」
その祈りの切実な響きに、クレスツェンツの胸が詰まった。
皆、待っている。クレスツェンツが病を治して、指導者として施療院へ戻ってくることを。
オーラフが祭壇の前を去ると、項垂れていたクレスツェンツはその場にうずくまった。
誰にも聞かれていないだろう。しかし彼女は両手で顔を覆い、こみ上げてくる嗚咽を必死で堪えながら泣いた。
夫、息子、施療院の仲間、部下たち。
自分はなんとたくさんのものを遺して逝かねばならないのだろうか。
どうしようもない絶望感に襲われた。
こんな気持ちになるのは初めてだった。
泣きたいことも、怒りが収まらないことも数多く経験してきたが、希望を失ったことはなかった。
いつでも自分が働いた分だけ人が動き、可能性が生まれ、少しずつでも前に進んでは目標を拾いあげることが出来ていた。
しかし、クレスツェンツにはもう足掻くことすら出来ない。
骸骨のように痩せ細った身体、瑞々しさを失った肌。どんなに醜い姿をさらしても、一日でも長く生きていたいと思っていたのに、そんな望みにはもう何の意味も無いと気づいてしまう。
見守らねばならない人がいるのに。
戻らねばならない場所があるのに。
たどり着きたい未来があるのに。
それなのに。
クレスツェンツは彼女から力と未来を奪う病を恨んだ。そして目前に迫った死を恐いと思った。
すると、病に罹る前のように、しなやかでふっくらしていたクレスツェンツの手指がしぼむように痩せ細っていった。足や首筋、頬からも削げ落ちるように肉が消えていく。
同時に息が苦しくなる。口の中がからからに乾く。腕が棒きれのように痩せていったのに、身体がずんと重くなる。
いよいよ死ぬのだろうか。心と身体が再び重なり、同時に死を迎えようとしているのだろうか。
今まさに消えていこうとしたクレスツェンツの耳に、コツンと、静かに床を打つ足音が届いた。
また誰かが祈りに来たのだろうか。
ぎゅっとつむっていた目を恐る恐る開くと、祭壇を背にしてクレスツェンツの前に立つ脚がひと組、見える。僧侶の黒い法衣の裾が微かに揺れていた。
そしてその僧侶は、おもむろにしゃがみこんで彼女に向け手を差し出した。
クレスツェンツは弾かれたように顔を上げる。僧侶には、彼女の姿が見えているのだ。
そんな気がした。いや、ほとんど確信だった。
目の前にあったのは、懐かしい穏やかな笑み。
萎れていた実態のない身体に、どんどん力が溢れてくる。
「迎えがお前だなんて、あんまりじゃないか」
しゃくり上げながらクレスツェンツが言うと、親友は困ったように眉尻を下げた。
その顔を見ると、腹が立つのと同時に彼女を支配しようとしていた孤独と恐怖が一瞬で掻き消える。
代わりに溢れてきた安堵感は、しかしやはり涙を伴っていて。
クレスツェンツは飛びつくようにアヒムの首に腕を回した。そして彼の肩に額を押しつけ、声を上げて泣いた。
会いたくて会いたくて堪らなかったのに、永遠に失われてしまったはずの再会の日が、ようやく訪れたのだ。
アヒムはそっとクレスツェンツの背中に腕を回し、頭を撫でてくれる。ほのかに憧れを抱きもした青年の腕の中にいることに、彼女はほんの少しだけ酔う。
髪を撫でてくれる手つきも、背中に添えられた掌の感触も、まるで子どもをあやすためのそれだったが、クレスツェンツは深い満足のうちに存分に涙を流した。




