Ⅰ
強い眠気に襲われ、クレスツェンツはいつの間にか目を閉じていた。
その直前、夫と話していた気がする。
伝えておかなければならないことがたくさんあり、クレスツェンツは掠れる声で一生懸命に言葉を紡いだ。あまりにも必死な妻を見かねて、彼が「もう休みなさい」と言ってくれたのだった。
そして、ほんのわずかな時間うとうとしていたクレスツェンツは、頭の中を霞のように覆い尽くす眠気が晴れていくのを感じ、ぱちりと目を開けた。
二、三度瞬き、見慣れた自分の寝室にいることを確かめる。目の前には夫がいた。つい先程、きっとクレスツェンツが眠るのを見届けて出て行ったであろう彼が。
もう戻っていらしたのですか。わたくしはまだいくらも眠っていませんよ。
そう言おうとして開きかけた唇は凍りつく。
夫は彼女の寝台の傍らに屈み込み、骨の浮き出たクレスツェンツの手を、潤いの失われた頬や瞼を労るように撫でている。
クレスツェンツはその光景を、寝台の傍に立ち尽くして見ていたのだ。痩せ、骸骨のようになって横たわる自分と、〝彼女〟を愛おしげに撫でる夫の姿を。
不思議な眺めに理解が追いつかず、クレスツェンツは再び目を瞬かせた。そうしているうちに夫は立ち上がり、しばし無言で妻を見つめ、名残惜しそうに踵を返した。
寝台の傍に控えていた医女が道を譲る。彼は振り返ることなく部屋を出て行く。
「陛下……」
クレスツェンツが呼び止めても、夫には聞こえていないようだった。
「王妃さま、お身体を清めさせて頂きますね」
代わりに湯をはった洗面器と手拭いを持った医女が近づいてきて、そっとクレスツェンツが被っていた毛布をよけ、寝間着の前を少し開いて胸元や首筋、肩から腕を丁寧に拭いていってくれる。それを見ていたクレスツェンツは優しい手の感触を思い出し、自分の肩を抱きしめるようにしてさすった。
ああ、そうだ。
クレスツェンツが寝台からまったく起き上がれなくなってから、二週間が経とうとしていた。
蘇った記憶に戸惑うことなく、彼女は溜め息を吐く。
わたしはもう死ぬのだな、と。
* * *
最初に血を吐いて倒れたのは二年前。
それからじきに体調は回復したかに思えたが、クレスツェンツはその後も繰り返す胃の潰瘍と貧血に悩まされ続けた。それらの症状の原因は結局分からないまま、このごろは身体中の激しい痛みを紛らわせる薬ばかりを医官たちに処方させていた。
あとは力尽きるまで立っているだけ。
いつそう思ったのかは覚えていない。
「生きながらえてくれ」と懇願するユニカの血を飲んでからだろうか。
万病を癒やすといわれていたあの娘の血は、どうしてかクレスツェンツを癒やさなかった。
それじゃあ仕方がない。クレスツェンツに出来ることはすべてやった。
少しでも長く、夫の、そして仲間の傍で彼らを支え続けるだけだ。
* * *
夫と話がしたい。そう思ったクレスツェンツは彼のあとを追うことにした。否、あとを追おうと思った瞬間、彼女は廊下に立っていた。
侍従長と騎士を引き連れ、夫が薄暗い廊下を歩いていく。クレスツェンツはしばらくそのあとをついて行ったが、やがて彼が執務室に入るところを見届けると、一緒に部屋へは入らずに扉の前で立ち尽くした。
(お忙しいかな)
まだ朝も早い時間。これから王は一日の予定を確認し、十時からは諸大臣や高級官僚を集めての朝議がある。
(あとにしよう。まあ、わたくしの声は聞こえていらっしゃらないようだけど……)
クレスツェンツはその場を離れ、しばらくドンジョンの中をさまよった。
身体がこんなに軽いのは久しぶりだ。少々軽すぎる気もする。心なしかふよふよと浮いているようだ。行き先が思いつかないせいだろうか。
結局来た道を戻っていたクレスツェンツは、途中で、さっき身体を拭いてくれた医女とすれ違った。彼女は向かいから歩いてきた侍女に呼び止められ、悲しげにくもった顔を上げた。
気になったクレスツェンツは、立ち止まって少し離れた場所から彼女たちの様子を眺める。
医女を呼び止めたのは、息子クヴェンの侍女、イシュテン伯爵家のティアナだ。
「王妃さまのお加減はいかがですか?」
花籠を持った彼女は声をひそめて医女に尋ねた。
「今朝もお目覚めになるご様子がありません。それは、王子さまからのお見舞いのお花でしょうか?」
「はい。クヴェン殿下が今朝、温室から摘んでいらっしゃいましたの」
ティアナが大切に抱いている花籠には、小さな薔薇がたくさん詰められていた。クレスツェンツが好きな、白や黄色の淡い色の花ばかりだ。
クレスツェンツは胸にこみ上げてくる、焦りとも悲しみともつかない感情に目を見開いた。
「御覧いただけるとよいのですが」
ティアナは何かを堪えるように眉根を寄せ、医女は力なくうなだれる。
「もう、息をしていらっしゃるのもやっとのように思えます。それでもまだ起き上がろうとなさっている気がして、見ているこちらが辛くなりますわ……」
「何をおっしゃっているのですか。王妃さまならきっとお元気になられます。お世話をするカーヤ様がそのような弱音を吐かれてはいけません」
「ええ、ええ、そうですね」
ティアナがうんと年上の医女を叱る声を背中で聞きながら、クレスツェンツは次の目的地を決め、歩き出す。
* * *
唯一の息子、クヴェンは、今年で十になる。五つになった年には東の宮で暮らすことを父王に命じられ、やがて王太子に指名される王子として、一人で東の宮に生活していた。
ともに暮らすことは出来なかったが、クレスツェンツは仕事の合間を縫い、時間を作っては息子のもとを訪ね、クラヴィアのレッスンをしたり彼を外へ連れ出して一緒に遊んだり、図書館で彼の教養のもととなる本を読んであげたりした。
しかしクヴェンはクレスツェンツの息子であって、クレスツェンツの息子ではない。
誰かの子である前に、彼はこの国の世継ぎだ。クレスツェンツが母親として甘やかしてあげられる存在ではなかったし、一緒に過ごせた時間も決して多くなかった。
それなのに、彼はクレスツェンツのことをよく知っていた。好きな色、花、息子である自分が何をしたら母は喜ぶのか。
「ティアナはお母さまとお話し出来たと思う? カミル」
朝食を終えたところだったらしい。クヴェンは食後のお茶を差し出してきた侍従を見上げて訊ねた。
夫と同じ、淡い金色のさらさらした髪が肩につくほど伸びている。そろそろ切るか結ぶかさせなくてはいけないなと思いながら、クレスツェンツは息子の傍に立って彼を見下ろした。
病が急激に悪化したひと月前から、クヴェンに会うことは出来なかった。
ひと月。本当に短い時間なのに、息子は会う度に大人びていく。いつも驚かされていたものだ。そして今日も。
けれどもまだまだ子供だった。息子の口の端にミルクかヨーグルトの白い雫がついていた。本人は気がついていないらしい。
クレスツェンツはそれをぬぐってやろうと屈み込んで手を伸ばしたが、彼女の指は息子の肌の奥へすっと消えていってしまう。
「きっとお花を王妃さまにお渡しして、殿下のお見舞いのお言葉を伝えておりますよ」
クレスツェンツの反対側に立っていたカミルが、微笑みながらクヴェンの口許をナプキンでぬぐった。クヴェンは恥ずかしそうにしながら侍従を仰いでお礼を言う。
クレスツェンツはやり場のなくなった手を引っ込め苦笑した。
「ヴィンフリーデ先生の授業が始まるまで、音楽室に行きたいな」
「クラヴィアのお稽古ですか?」
「お母さまが僕の弾く『テルテスの夕べ』を聴きたいっておっしゃっていたんだ。少しご病気がよくなられたら、弾きに行って差し上げたいんだもん。練習して、いつでも完璧に弾けるようにしておかなくちゃ」
「かしこまりました。では、一時間ほどなら」
「うん!」
時計を確認したカミルが笑うと、クヴェンは屈託のない瞳を輝かせて嬉しそうに頷く。
クレスツェンツは、そんな息子を見上げながらテーブルの上に置かれた小さな手に自分の手を重ねた。
何も感じなかった。瑞々しい肌の感触も、その下にあるはずの息子の血潮の気配も、何も。
母がそこにいるとは知らないクヴェンは、お茶を少し啜ってから嬉々として椅子を飛び降り、侍従を急かしながら部屋を出て行く。
小さくて、すぐに大きくなるであろうその背中を見送りながら、クレスツェンツは涙を一筋流した。
息子の弾く『テルテスの夕べ』を聴いてあげることは出来るだろうか。
己に問うてみて、彼女は重苦しく溜め息をつく。
母を喜ばせるために、また母の快癒を願い、あんなに一生懸命練習してくれているのに。
また起き上がって、彼を抱きしめることは出来ないだろう。
クヴェンが得意げにクラヴィアを弾く姿を見たい。成長していく姿を見たい。妃を迎え、偉大な父の後を継ぎ、立派に国を治め民を愛する彼の姿を見たい。
それなのに、おいて逝かなくてはならないのか。
悲しくて、無念で堪らなかった。




