Ⅳ
昼。薬を飲み終えた彼女のもとに、夫と息子がやって来た。
王族は、ひとりが病に罹ればそれぞれ隔離される。病の伝染を防ぐためだ。
ただひとりの王子である息子も、クレスツェンツの病が感染症ではないと分かるまで部屋を出ないように命じられただろう。幸いにもその命令は一日で解かれたが、彼も母の不例を知るところとなった。
寝台の上で枕に背を預け待ち構えていた母の姿を見たとたん、まだ八つの王子はぐしゃりと顔を歪めた。しかし父王の手前、泣き出すまいと唇を噛んで懸命に涙を堪えている。
深く、深く溜息をつき、クレスツェンツは心底自分に呆れた。
馬鹿で無意味な意地を張ったものだ。まだ幼い我が子にこんな顔をさせるなんて。
「怖い思いをさせてしまったね、クヴェン。こっちへおいで」
王子はぴくりと震えただけで、すぐには動かなかった。恐る恐る背後の父王の表情を確かめる。
許しを請う言葉も出てこないほど動揺している彼に、王はそっと頷き返した。
しかしそれだけで王子の緊張の箍は外れた。まろぶように駆け寄ってきた彼は、寝台の縁まで腕を伸ばしていたクレスツェンツに飛びつく。
小さな王子は抱きしめられてもしばらく泣くのを我慢していたが、とうとう堪えきれずに母の胸に額を埋めて嗚咽を漏らし始めた。
夫と同じ色の金髪が襟元で震えてくすぐったい。加えて子どもならではの肌の温かさ、不調の身で受け止めるには少々重い小さな身体。
そのどれもにクレスツェンツはほっとした。生きていると実感出来て。
泣いている王子を宥めながら顔を上げれば、夫もそろりと寝台の傍へ近寄ってきた。そして靴を履いたまま母の寝台へよじ登った王子の足から、こっそりとその靴を引っ張って脱がせている。
目が合えば、互いに苦笑するしかなかった。
やがて泣き疲れた王子を侍女に送らせて東の宮へ帰すと、クレスツェンツの足許のほうにじっと佇んでいた夫が寝台の縁へ腰掛けた。大きな掌でクレスツェンツの頭を引き寄せ、互いの額を擦り合わせる。
クレスツェンツも夫の肩に腕を回した。さらさらした髪も撫でると、ひんやりとした髪留めに指が触れる。一昨日、クレスツェンツが贈ったものを着けてきてくれたのだ。
嬉しくて、ふっと笑いがもれた。
しかし嬉しいばかりでもない。目の前にある夫の顔があまりにもしょげているので、やっぱり胸がちくりと痛む。
お詫びと慰めの心をこめて、クレスツェンツは夫に口づけた。
唇を押しつけると、向こうからも微かに押し返してくる。いつもなら口髭が唇の周りを撫でる感触がくすぐったいと文句をつけてやるところだが、今はただ愛おしかった。
「痩せたかとは思っていた」
何度か口づけを交わして、額がくっつくか離れるかというところまで距離を置く。すると夫はかすれた声でそう言った。
「このごろは共寝の機会もなかったからな、確信がなかったが。そなたは気を遣われるのを厭うであろうし、余の助力が必要なときは声をかけてくる。何も言わぬということは、見守っておけばよいということだろうと。……そうではなかった」
オーラフと同様に、夫の声もまた、自分を責めていた。それは違うと言う代わりにクレスツェンツは彼の肩に顔を埋め、背中へ腕を回して夫を抱きしめる。
「わたくしも、五年前は陛下のお身体の異変に少しも気づいておりませんでした。あのときはどうして打ち明けてくれなかったのかと思っておりましたが、今なら陛下のお気持ちが分かります」
ユニカの血に頼るほどだ。きっと、夫の身体は差し迫った状態だったに違いない。
けれど夫は誰にも何も言わず、疫病で混乱するアマリアと、〝疫病が蔓延した王国南部を除く地域〟の統御をやりきった。
疫病の恐怖と混乱が王都より北の地域にも伝播していれば、いくらクレスツェンツが要請しようと王国北半の貴族領主や教会組織から支援物資が届くことはなかっただろう。
彼らが冷静さを保てるよう情報を操作し、また民が浮き足立たぬように計らえと命令を出したのは、ほかならぬ夫だった。
そしてクレスツェンツがビーレ領邦へ赴いたことで、結果として、二人は状況の違うそれぞれの場所を分担して治めることになったのだ。
五年前のあの日、夫は王都を出ようとするクレスツェンツを止めた。でも止めなかったとも言える。
兵力を動かして王都の全関門を封鎖することも、クレスツェンツの執行権をすべて奪うことも出来たのに、彼は王として、王妃の出立を黙認することでビーレ領邦へ向かわせた。
あのとき、王が法を曲げて王妃を外へ出したと批難されている余裕はなかった。ゆえにクレスツェンツが自ら泥を被る方法を選んでも、庇いだてしなかった。
義務を棄てた罪すら許される成果を、クレスツェンツなら持ち帰ると信じて。
夫の策に気がついたのは、王都へ帰還しすべての報告を終えてからのことだ。クレスツェンツが「王族の義務を放棄した」と謗られることもなく、彼女が指揮を執ったことによる疫病収束の成果だけが残って、初めて解った。
夫はクレスツェンツの本当の思いをどこかで知っていたと思う。それでもビーレ領邦へ向かわせて、王妃という駒として巧く立ち回らせ、功績を握らせたのだ。
最後の最後にクレスツェンツを止めたのは、あの疫病の致死率の高さゆえ、夫として妻の身を案じるがゆえ。けれど彼はすぐに〝王〟へと戻った。
片腕の王妃を失う可能性と病が自然に収束する可能性を秤にかけ、彼は、クレスツェンツの命より民の命を重いと見なした。例え危険があっても王妃を行かせれば、必ず疫病を収めてくると判断して、クレスツェンツの勝手を許したのだ。
あのとき、いくつの辛い決断を、彼ひとりにさせてしまったのだろう。
王妃が私情に駆られて自分の傍を離れることは、腹立たしく、また心細くもあっただろうに、それでも行かせるほうがよいと〝判断出来てしまう〟この人から、いつでもクレスツェンツを自由にしてくれるこの人から、もう離れてはいけないと思った。
「陛下おひとりに辛い思いをさせないように、わたくしから陛下の手を放さないようにと決めたはずでしたのに。何もかもわたくしの手に余ることのように思えて、いつの間にか自分自身に誓ったことも忘れておりました。もし、わたくしがこのまま死んだら、クヴェンや、施療院のことや、ユニカのことはどうしたらいいのだろうと、そればっかり考えてしまって。自分が倒れそうなことを認めたくなかった。陛下も、五年前はこんなお気持ちだったのでしょう。今、膝をつくわけにはいかないと、皆を守らなくてはいけないと」
クレスツェンツの眦から涙がこぼれた。その瞬間を見ていたかのように、肩を抱き寄せる夫の腕に力がこもった。
「ねえ、でも、わたくしたちは味方同士。夫婦でもありますし、ともにこの国を治める者です。具合が悪いことは陛下に打ち明けるべきでした。――ユニカのことも、陛下に一緒に考えていただきたいのです。あの子はわたくしが親友から預かった大切な娘ですし、わたくしのあとを引き継いで施療院の旗印になってもらいたい。あの子と、陛下のお気持ちも、ちゃんと受け止めたい」
わずかに強張った夫の身体をぎゅっと抱きしめ、逃げないで、と訴える。
冷静になった今なら、夫の苦悩が分かる。
彼は、クレスツェンツが友の娘を連れ帰ったことに少なからず不満を持ちながらも、その娘を城から追い出そうとはしない。それは彼が自分自身に科した罰だからだ。
五年前、きっと夫は早くに気づいていたのだろう。ジルダン領邦へクレスツェンツを派遣すれば、現地で対策組織を立ち上げることが叶い、罹患者の隔離や治療を行う体制がいち早く整うことに。
しかし彼はクレスツェンツの夫としてそれを躊躇ってしまった。そのことは、疫病の収束を遅らせた一因といえるかも知れない。
そしてこの国を守り続けるために、ひとりの少女の心と血を利用すると決めたことの意味も、彼なら分かっている。
だからユニカを城に置く。彼のふたつのあやまちを、彼自身が忘れないために、そして彼女の憎悪を甘んじて受け、いつか罪を贖うために。
それを、夫の口から聞きたかった。そしてそれは悲しいと、クレスツェンツも伝えたかった。
「少しだけ、休む時間を下さい。その間に陛下とお話ししたいことを考えてまとめておきますから。陛下の思うところも、なんでも聞かせて。わたくしを思って黙っていたこともぜんぶ。わたくしもそうします」
クレスツェンツが、慌てて速く走りすぎている間も、冷静に、孤独に、国と民を見つめ続けてきた人がすぐ傍にいたことを思い出せて、よかったと思う。
その人とクレスツェンツは、互いの手助けを必要としている。それぞれにそれぞれの道を走ることはもう出来ない。
無くした標の片鱗は、今日も彼女の胸にかかっていた。
だけどこれはもう頼りにならないもの。ほんの少し勇気をくれるだけのお守り。
そっと胸にしまっておくのが相応しい。
今大切なものは、目の前にある。
* * *
クレスツェンツが倒れてから数日後、王妃が病臥したという公式の発表があった。
不安げに顔色をくもらせる者、喜色が滲まぬように堪える者。貴族の表情はおおかたふたつに分かれた。
しかしおよそひと月後、貴族院大議会には再び大きな波紋が生まれた。
早くも政治に復帰した王妃が、先に成立させたふたつの法の適用範囲拡充を議会に諮ったからだ。
これまで王妃の提出した議案に王が口を挟んでくることはほとんどなかったのだが、今回の審議は様子が違っていた。
王は特に王妃に肩入れするふうではなかったものの、彼女や協力する臣下が提出した資料と情報の粗を次々と指摘して修正させ、結果的により早く、より多くの貴族たちを納得させる形へと導いた。
いつからか夫妻の間に漂っていた緊張もひとつ解けたように見え、何年ぶりかにふたりそろって議場を退出する姿も見られた。
王妃が臥せっている間に、何かが変わったのか、それとも元に戻ったのか。
王家の中で澱んでいたものが再び流れ始めた気配を、誰もが感じた。
それは、王の政治を若い王妃が支え、引き継ぎ、まだ幼い王子の世にも、シヴィロ王国が謳歌するこの繁栄を受け継がせてゆく予感だったのかも知れない。




