Ⅰ
Ⅰ
「ユニカ」
バルコニーから城壁の向こうに見える街並みを眺めていた少女が、目を瞠って振り返った。
アヒムによく似た――けれど血縁者ではないという――癖のない黒髪が陽射しを受け止めて艶めく。光に透けてもなお黒い髪を風に翻しながら、少女はたったっとクレスツェンツのもとまで駆けてきた。
「すまない、ちょっと遅れてしまったな」
初秋の風に乱れた髪を耳にかけてやると、ユニカはくすぐったそうに首をすくめた。
彼女の口許に浮かぶ淡い笑みは王妃の訪問を心待ちにしていた証拠で、嬉しいクレスツェンツは、我が子を抱くのと同じ思いでいじらしい娘を抱きしめる。
王城へ連れてきたばかりのころ、まるで人形のように小さくて虚ろだったユニカも、はや年頃の十五歳になった。
手足はすらりと伸び、身体つきも娘らしくなったし、腰まで伸ばしているのに枝毛の一本もない美しい髪を結い上げたら、もう貴婦人の卵として扱ってもいいだろう。
しかし、当のユニカはこの西の宮から滅多に出ようとしない。城内にある図書館から本を持ってきたり、温室で読書や編みものをすることはあっても、決して人目のあるところへは行こうとしなかった。
それがクレスツェンツの悩みのひとつだ。西の宮を快適にしすぎただろうか。
ユニカを城に迎えたとき、クレスツェンツは内郭の端にあるこの宮殿、王の娘や姉妹が住むべき西の宮に部屋を整え、部屋の品格に相応しい家具をそろえた。図書館や温室に近く臣下も寄りつかない場所であるから、ユニカが静かに、そして自由に過ごせていいだろうと考えたのだ。
しかしそのおかげで、ユニカが外界へ出る必要を感じずに生活出来てしまっている。
初めから彼女を隠さず、自分と夫が生活する北の宮に部屋を用意するべきだったかしら。
でもそれはそれで、東の宮へひとり移住させた王子が心穏やかではいられなくなるだろうし……。
ユニカの曖昧な立場は難しい。彼女が成長するにつれてもっと難しくなっていく。
「今日は、この間言っていたエメラルドのビーズを用意してきたよ。これでいいだろうか?」
クレスツェンツは気を取り直して満面の笑みを浮かべ、侍女から受け取った天鵞絨張りの小箱をユニカに渡した。中には小さなエメラルドの粒がたくさん入っていて、ユニカの手許でさらさらと音を立てる。
色も大きさも均一にそろえた最高級の宝石に感心しつつ、ユニカは真剣な目で頷いた。彼女には宝石に心躍らせた様子はなく、その眼差しはどこか職人めいている。
「素敵です。大きさもちょうどいいし。きれいなものが出来そう」
「ふふ。じゃあ、よろしく頼むよ」
はい、と大きく頷く彼女と一緒に、クレスツェンツはテーブルについた。
ユニカは手芸が得意だ。縫いものはさほどではないというが上手だし、刺繍もレース編みも宝石の縫いつけも、なんでも出来てしまう。ブレイ村にいたころ、服飾職人でもある村の女のもとで手伝いをしていたかららしい。
一方クレスツェンツは、手先の器用さをクラヴィアの練習で使い果たしてしまっていたので、女の嗜みである手芸はからっきしだめだった。輿入れ前には練習もしていたのだが、夫のためにレースを編んであげられたこともない。
夫には専属のお針子がいるので、妻が編むべき衣装用のレースには不自由していないのだが、やっぱり申し訳なく思うこともある。
そこでクレスツェンツは、今年の夫の生まれ月に贈る品物をユニカに教わりながら作ろうと決めたのだった。品物は、夫の淡い金髪に似合うエメラルドを使った髪留めだ。
ユニカにはこの髪留めを誰に贈るのかは言っていない。クレスツェンツが自分で使うものと思っているかも知れない。
もし王に贈るのだと言ったら、この娘は複雑な顔をするだろうから……。それも、クレスツェンツの悩みだった。
ユニカに指示してもらいながら、丈夫な絹糸をビーズの中に通してしっかりと編んでいく。ユニカの教え方は的確だった。何せクレスツェンツの手許でエメラルドの帯がちゃんと出来ていくのだから。
「うーん、思ったより時間がかかるな」
しかし慣れない作業なので順調とはいかない。クレスツェンツがユニカの部屋に滞在出来るのは週に一度か二度。せいぜい午後の二、三時間だ。今日ここで髪留めを完成させるのは無理だろう。
「宿題ですね、王妃さま」
「うん? そうだな、宿題。ユニカもきちんと課題をこなしているものな。わたくしも見倣って次までには帯を作り終えてこよう。仕上げはそのとき、ユニカにお願いするよ」
どこか誇らしげに、けれど照れくさそうにユニカは笑う。クレスツェンツの前では、この少女はこんなにも表情豊かだ。
心の底にどんな澱を抱えていてもいい。この愛らしい笑みが彼女の〝本当〟になればいいと思う。そしてこの笑顔を、クレスツェンツやエリーアス以外にも向けられるようになって欲しい。
そのため、にこの狭い宮殿から出てクレスツェンツとともに来て欲しいのだが……。
「ユニカ、新年に着るドレスを、街の仕立屋に作りに行ってみないか? いつもここへ職人を呼んでいるが、店で作るのも楽しいよ」
小一時間も頑張ると手芸を一休みして、ふたりはクレスツェンツが持ってきた林檎のケーキを広げ始める。
林檎をきれいに切り分けていたユニカは、はたとその手を止めた。
「母の代からずっと贔屓にしている店があるのだ。貸し切りにして、半日かけてユニカの好きなようにドレスを作ろう」
ユニカは銀器を置き、困ったように笑って首を振る。
「私は新年のお祝いには出ませんもの」
「わたくしがここへ挨拶に来ても、晴れ着姿は見せてくれない?」
クレスツェンツは頬杖をつき甘えた視線をユニカに送ってみた。けれど少女はますます困った顔をするだけだった。
「王妃さまは、こなさなくてはいけないたくさんの行事がおありだから、私のところへ来る暇もないくらいお忙しいでしょう?」
知っているんだから、と付け加える代わりにユニカはうつむき、一度置いたフォークを拾い上げシロップでふやけた林檎を頬張る。寂しいと言ったり、駄々をこねたりはしない。
いっそ、そんなわがままを口にしてくれたほうがクレスツェンツも嬉しいのに。
それきり悄れてしまったユニカを前に、クレスツェンツはお茶を少し啜っただけで、ケーキは食べなかった。
* * *
ユニカを施療院に関わらせたい。
その思いは日に日に強くなっていた。
城下へ連れ出すことさえ叶えば、その脚で施療院に立ち寄り、ユニカをオーラフに紹介することが出来るのだが……。
ユニカもクレスツェンツに何か思惑があることに気づいているのだろう。外界への警戒心もあいまって、ユニカは決して「諾」とは言わない。
いっそ、施療院の視察に付き合って欲しいと正直に言うべきだろうか?
五年前の疫病騒ぎで各地の施療院は連携を強め、特に王国南部にはナタリエをはじめとする数名の医官を派遣するまでに関係が深くなっている。ペシラの施療院からも医官と交換で僧医を招き、アマリア施療院で修行と研究の機会を提供するに至った。
この動きをもっと多方面に広めたい。
国庫から出す予算も増やし、それだけではまかなえない、教会から独立させるための財源もどうにかして用意せねば。
そして治療だけでなく、病の〝予防〟という考え方を見直したかった。
どうして病が発生するのか、伝染るのか。原因はそれぞれにあるが、人々が病に罹らないようにする手立てを研究することは、〝治す〟こと以上に人々のためになるはずだ。
これも様々な疫病の流行に対応してきて、クレスツェンツが思ったことだった。
やることが……やりたいことがたくさんありすぎて気が遠くなりそうだ。実際、少し遠くなった。
顔を上げたとたんに目眩を覚えて、クレスツェンツは立ち上がるのをやめる。
クレスツェンツや、オーラフやナタリエ、そしてアヒムが思い描いた理想を全部実現するためには、きっと百年のときがかかるだろう。
クレスツェンツや仲間の夢で終わらせないためには、それを受け継ぐ者が必要だった。
机に頬杖をつき、読み終えた手紙の山を意味もなくぱらぱらとめくる。
クレスツェンツに共感し、協力してくれる人々からの手紙。あるいは王子をひとりしかもうけられていないことを理由に、政治に口を出しすぎだと彼女を批難する臣下からの手紙。
いろいろだが、今は中身などどうでもいい。
――ユニカではだめだろうか。
アヒムの代わりに、クレスツェンツを見守ってはくれないだろうか。そして隣を歩いてくれたら。彼女がクレスツェンツの先の数十年、施療院の成長を支えると言ってくれたら。
ユニカになら出来ると、王妃としてのクレスツェンツは確信していた。
あの子は豊かな感性を持っているし、自分の悲しみも、人の悲しみも知っている。
でも、だからこそ恐れている。
自分が故郷を灼き滅ぼし、そこに生きていた人々の生を奪った罪を。
ユニカが招いた神々の槍で、村がひとつ塵芥と化したこと。そして彼女が万病を癒やす血を持っていること。どこからともなく流れ出したその噂は、今や王城の誰もが知っていた。
本当は何があったのか。
ユニカは、クレスツェンツにもエリーアスにも話してはくれなかった。
それが、あの噂に真相が混じっていることを裏付ける態度であると気づいても、クレスツェンツ自身の目と耳で確かめたわけではないのだから、真実だとは信じない。
それに何があったにせよ、ユニカはあの疫病に追い込まれた小さな子どもだ。もっと早く彼女らを救うことが出来なかった為政者たるクレスツェンツたちにこそ否があるのだ。
だから自分を責めずに、前を見て欲しいと思う。奪ってしまったものがあるなら、代わりに誰かを救いあげて欲しい。
そのためにも自分の跡を継いでくれ、なんていう主張はずいぶんずるいとも思うのだが、それが王妃としてのクレスツェンツの本音なのだから、仕方がない。
「王妃さま、少しお休みになって下さい」
午からずっと難しい顔で机に向かっていた主を案じ、侍女が替えのお茶を運んできた。
侍女はユニカと同じ年頃の、まだ少女といってもいい若さだ。けれど王子を産む前からクレスツェンツの傍に仕えてくれているので、彼女とは結構長い付き合いがある。
「ありがとうエリュゼ。しかしお茶はいいよ。これも下げてくれ」
その若さですでに口うるさいところがあるエリュゼは、ひとつも減っていないカップの中身を確かめて心配そうに眉根を寄せた。
「お飲みにならないのですか?」
「……せっかく淹れてくれたのにすまないな。代わりにと言ってはなんだが、お遣いを頼むよ。寝室に置いてきたを拡大鏡をとってきてくれないか」
エリュゼは不満そうに眉根を寄せながらも、「かしこまりました」と頷いてカップを持って行ってくれた。
しかし今までカップがあった場所には、なぜか糖蜜で煮た栗のお菓子が置いてある。
何がなんでも王妃の手を休めさせたいのだろう。仕事漬けな主が書類とペンから手を放すためにはお茶とおやつを定期的に差し出すのがよい、という作戦だろうか。
クレスツェンツは去って行った侍女の背中を苦笑で見送り、ついでお菓子の載った皿をそっと机の隅に避ける。
そして大きく深呼吸をすると、目の前に積まれた書類の山を再び崩しにかかった。
今夜は久しぶりに夫と食事をともにする約束をした。衣装替えだ化粧直しだと夕方からは忙しくなるので、今日の内に目を通すべき書類を早めにやっつけねばならない。
『あなたはよく喋りますが、意外とそういうことは口にしませんよね』
うん。やっぱり口には出せないんだ。
不意に友人の言葉を思い出し、クレスツェンツはそっと胸元を押さえた。このごろ、そこには友人から勝手にもらってきた僧侶の証のペンダントを提げてあることが多い。
御利益があるわけでもなければ、この小さな金の塊を友人の代わりと思っているわけでもない。
ただなんとなく、彼なら気づくかなと。ペンダントを見て考えてしまうことが増えたのだ。
クレスツェンツは強い女になってしまった。ひとりの人間としても、為政者としても。
ゆえに、友人や仲間は多けれど、ちょっとやそっとのことで「どうしたの?」なんて訊いてくれる者は周りにいない。
また、クレスツェンツも答えはしないだろう。よくも悪くも王妃として身につけた見栄がそうはさせない。
でも、アヒムになら正直に話すのかなと思う。クレスツェンツが今日よりずっと素直だった時代に、彼との思い出が時を止めてしまったからそう思うだけなのかも知れないが。
今のクレスツェンツは不安を口にしない。むしろ、見破られたら終わり。
彼女を支える者は多いが、その足許をすくおうとする者もまた多かった。
だからやっぱり、彼女は毅然として玉座の隣に立つ王妃であり続けるしかない。




