Ⅳ
ビーレ領邦の太守・エメルト伯爵がクレスツェンツを迎えたのは、その夜から七日後のことだった。
五十代も半ばを過ぎた古参の臣下は、平伏しながらクレスツェンツに感謝の言葉を述べた。
「まだわたくしは何もしておらぬよ。持ってきた物資もさほどではない、少しは足しになろうという程度だ。むしろ今日まで当地へ入れなかったことを詫びたい。この間、太守はよく民を守ってくれた。わたくしのほうこそ太守に感謝する」
「至らぬことばかりで、そのお言葉が恐れ多く存じます。我らにはこうした疫病に対応する知識が不十分で、死者数も罹患者数も未だに把握出来ておりません。衛生学に明るい陛下のお知恵をお借りしたく思います」
「無論、そのつもりだ。ともに手を尽くそう。ひとりでも多くの民を救うために」
彼の顔に滲む疲労も相当なもので、クレスツェンツは焦燥にかられ眉根を寄せた。
指揮をとる太守はもちろん、最前線で罹患者を看病してきた者たちだって疲れ切っているだろう。
虫、水、鼠、罹患者の体液――病を媒介するものが何かはっきりとは分かっておらず、その恐怖は身体よりも精神をすり減らす。
街の恐々たる様子を見ながら太守館へやってきたクレスツェンツは、民がまだ暴徒化していないのは太守の采配の成果だと分かった。
けれど限界に近い。「王妃が自ら救援に来た」という事実は、しばらく現状を維持する材料になり得るだろう。それだけで、まずは来てよかったとクレスツェンツは思った。
「ときに、街の東門に集められていた兵の一団はなんだ? どこへ行く?」
「は。二日前の夕刻、南東の方角に不穏な〝光〟が」
「光?」
「落雷のようでしたが、定かではございません。何しろ無数の輝きが天地を繋ぐようにしばらく続きましたので……。このようなときゆえ、確認のため調査団を派遣いたします。辺境の病の状態も正確には掴めておりませんので、その把握も兼ねて」
その日はビーレ領邦主要都市の状況報告のため、太守が会食の席を設けてくれることになった。
クレスツェンツはむしろすぐにでも視察に回りたいところだったが、上がくつろげねば下もくつろげない。彼女が引き連れてきた一団を休めるためにも、夕食までの時間は空白となった。
太守館の二階に部屋を用意され、同行してきた勇敢な侍女たちもほっとした様子である。
着替えを用意してくれている彼女らを横目に、クレスツェンツはペシラを囲む城壁の東門を見ていた。街並みに埋もれているが、微かに兵士の行き来する様子が覗える。
(落雷……)
太守の言葉が妙に気にかかった。気にかかる、としかいいようがないのだが。
「エリーアス伝師がお戻りです」
「そうか」
旅装を解くと、クレスツェンツは階下へ降りた。すると待ち構えていたエリーアスが肩を怒らせてずかずかと歩み寄ってくる。
「どうだった。施療院長の手は空きそうか」
この街でどれくらい施療院が機能しているのか把握したい。そう思ったクレスツェンツはエリーアスに院長への取りなしを頼み、今晩の会食に参加して欲しいという伝言を頼んだ。
しかし戻ってきたエリーアスはクレスツェンツの問いに答えず、奥歯を噛み締めて黙る。
「エリー?」
「東門に集まっている調査団の話を聞きましたか」
「ああ、不審な落雷があったから確認に行くという話だろう。ついでに辺境地の病の状況を見てくるのだと」
「こちらへ来て下さい」
エリーアスは太守館の一階にある議場へクレスツェンツを連れて行った。
並べられた机の上に、様々な書き込みがされた領邦内の地図が散乱していた。ふたりが入ってきたことにも気づかず、官吏が忙しく言葉を交わし動き回っている。
そんな中、エリーアスは領邦全体が描かれた地図を見つけると空いていた机の上に広げて見せた。
「ここがペシラです。落雷があったのは、ペシラの南東の方角」
彼は指を指しながら、すっと地図を斜めになぞった。やがてその指先はある一点で止まる。
『ブレイ村』
クレスツェンツは目を瞠った。
「関係ないかも知れません、ですが、」
一度言葉を切ったエリーアスは、ゆっくりと顔を上げた。
「ユニカの両親が死んだときも、〝偶然〟に雷が落ちたということになっています。……俺は見たことがありませんが、ユニカは稲妻のような力を放つことがあったそうです。神々が持っている雷の槍、『天槍』のような」
「――ああ、」
知っている。アヒムの日記の中にもあったもの。
力なく呟きながら、クレスツェンツはエリーアスを見つめ返した。
「お待ち下さい陛下!!」
追いかけてくる太守を無視し、クレスツェンツは馬に跨がった。彼女の後ろには騎乗した騎士たちとエルツェ公爵家の兵士が剣を帯びて隊列を作っている。
「調査に同行なさるとはあまりにも危険でございます。治安のことだけではございません、万一陛下の御身に病が伝染るようなことがあれば……」
「太守が責任を問われることなどない。兵は充分に連れて行くし、国王陛下にもお文を書いた。わたくしに何かあったという報せが届いたとき、または二十日以内に我々が戻らぬときはそれを王都へ送るがよい」
すがりついてこようとした太守を振り払い、クレスツェンツは馬腹を蹴った。
騒ぎのために立ち往生している調査団を追い越し、クレスツェンツと兵士たちが先にペシラの門を出る。
先頭に立つ彼女の隣に並ぶのはエリーアスだ。彼がいれば、調査団のあとをついていかなくてもブレイ村へたどり着ける。
落雷のあった方角と村が、無関係ならそれでよかった。クレスツェンツは当初の予定通り、村に物資と薬を届けるだけのこと。
そしてふたりに会う。
何度も、何度も、必ずユニカに会わせるとアヒムは手紙に書いてくれた。ただその約束を果たす日が、そして「また」と言って別れたあの日の続きがやってくる。
それだけのはずなのだから。
* * *
クレスツェンツが先に進むことはさすがに調査団の長が許さず、道中は常に彼らが前方の様子を確かめつつ南東へ向かうことになった。
そしてようやくブレイ村の目と鼻の先までやって来たが、クレスツェンツの一団は村へ至る途中の街でこれまでのように先遣隊の報告を待っていた。
〝落雷〟があったのはやはりこの先らしい。
クレスツェンツは〝落雷〟についての話は聞かないように、街で疫病の対処に当たった。
ここはペシラとは違い、病人の手当てをする医師や僧医も、薬も衣料も足りていなかった。
クレスツェンツは市長に命じ、公的に管理している備蓄食料庫を開かせ、持ってきた物資も惜しみなく提供した。ペシラへも伝令を飛ばし、追加の衣料と食料を手配する。
教会堂に隣接する施療院はすでに遺体の収容所と化していて、市庁舎に治療の拠点を移し、院内の遺体も出来るだけ早く街の外へ運び出すようクレスツェンツは指示を出した。
「火葬が望ましいがそれだけの燃料もない。出来るだけ深く穴を掘り埋めさせてもらうしかないだろう」
晩夏とはいえ、今年はまだ暑さが引いていかない。腐臭の漂う施療院の中を覗いた彼女は唇を噛んだ。
聖堂の床に並べられた遺体の上を蠅が飛んでいる。これでは別の疫病も発生する恐れがある。
「王妃さま、もう市庁舎へお戻りくださいませ。このようなところに長くいらしては……」
身を守る義務など棄ててきたはずなのに、クレスツェンツはやはり守られねばならなかった。棄ててきたつもりなのは彼女だけで、彼女に同行する侍女や騎士、兵士は、クレスツェンツを無事に王都へ返すことこそを使命だと思っている。
昨日、兵士が二人高熱を発し、手前の街に置いてくることになったのが一行を動揺させているのだ。だからクレスツェンツをいさめる侍女には落ち着きがない。
兵士はどうやらこの病に罹ったらしい。しかし発症のごく初期にアヒムが教えてくれた処方の通り薬を与えれば、体力もある兵士なら助かるだろう。
クレスツェンツは確信があるかのようにそう言い切って、更に歩みを進めてきた。
もう少し、あと数時間で彼のもとへ辿り着けるところまで来ている。本当は今すぐにでも馬を駆って会いに行きたいのに。
そんな衝動を抑えているクレスツェンツのもとに、ようやく先遣隊が帰ってきた。
「村の様子はどうだ? ほかの者はどうしたのだ」
戻ってきたのは先遣隊の半数だった。彼らと一緒に発ったはずのエリーアスがいない。
嫌な予感を覚えたクレスツェンツは兵の一人に詰め寄った。
「大規模な火災と思われる跡が……すでに鎮火しておりましたが、村のすべてが灰になっております。半数が残り生存者を探しておりますが、とても……」
「とても、なんだ……」
問うておきながら、クレスツェンツはその先を言わせなかった。掴んでいた兵士の肩を突き放し、周囲が呼び止める声も聞かずに市庁舎を出る。
こんなに、こんなに近くまで来たのに。
呼んでくれたお前のために。
クレスツェンツはぼろぼろと涙をこぼしながら厩舎へ向かった。
いつでも出発できるよう、騎士たちがクレスツェンツの馬にも鞍を乗せて待機してくれている。
彼らは王妃が泣き顔も隠さずにやって来るというのに、何も訊かずに彼女を馬に乗せてくれた。
「ブレイ村へ行く」
騎士たちはただ頷いて騎乗し、王妃を先頭に彼らは街を発った。
『ユニカをクレスツェンツ様にお預けしたいと思います。何が起こっても、ただひとり生き残るであろう私の娘を――』
お前は諦めたわけではなかったのだろう?
助けを求めてきたのは、皆を救うため、小さなユニカを安全な場所へ避難させるため。
そうだろう?
クレスツェンツはずっと記憶の中にいる友人へ問い続けていた。
答えは返ってこない。
* * *
足をつけた大地は異様な熱を持っていた。陽射しに温められたのとは違う熱。
土は白く灼け、あたりには焦げくさい臭いが立ちこめている。馬が怯えるので数名の騎士に馬を任せ、しばらく村から離れていてもらうことにした。
「王妃さま」
クレスツェンツが崩れた家屋の柱に触れようとしたので、ひとりの騎士が慌てて止めた。
けれど彼女には聞こえていない。辛うじて形を留めていただけの材木は、クレスツェンツの指先に撫でられただけでばらばらと崩れ落ちた。
「いったい、どれほどの炎で焼けばこんなことになる……」
土壁は砂に還るほど、木は灰になるほど。煉瓦でさえ砕け、砂利のようになっている。周囲の瓦礫は、今にも崩れて灰になっていきそうだった。
小さな村だと聞いていたが、クレスツェンツが見渡す先にあるのは瓦礫ばかりで、がらんと広かった。荒涼とした平地の先に森が見える。
彼女はふらふらと歩き出した。
アヒムは、家のすぐ裏が森になっていると言っていた気がする。
瓦礫には目もくれず、クレスツェンツは村の奥へと歩いて行った。人の気配はちっともなかった。瓦礫の中に無数の遺体が混じっていることにも気づかない。
本当に、ここがアヒムの故郷?
もっと穏やかで美しい場所だと思っていた。彼が愛している場所だもの。クレスツェンツを置いて帰ってしまうくらい、愛している場所だもの。
それが、こんなに何もないなんて――
ふらふらした足取りでしばらく進むと、前方に十人ほどの男達が集まっているのに気づいた。残った先遣隊の者たちだ。
その中の一人がクレスツェンツに気がつき、ぎょっと目を瞠る。彼に知らされてほかの面々も顔を上げ、あるいは立ち上がった。
「王妃さま、このような場所に――」
予感に導かれるまま、クレスツェンツは言葉をかけてきた兵士を押し退け彼らの輪の中に入り込む。
「――あ、」
うずくまっていたエリーアスが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で。
彼はアヒムとよく似た容貌をしていたが、アヒムはこんな顔を絶対にしないなとぼんやり思う。
彼はなるだけ穏やかであろうとした。冷静に、落ち着いて考え抜いた答えこそ正しいものと信じていた。
実際、彼は賢く、ときに非情なくらい公平で、感情的になるのが嫌いだったのだと思う。
初めこそ、どこか人間味の薄い、表情の乏しい、そういう澄ました顔が本当に生意気で腹立たしいやつだと思っていたけれど、クレスツェンツが接していく内に彼は確かに変わっていった。冷たかった彼の表情は、温かい本当の穏やかさを手にしていった。
もしかして、
彼を変えているのはわたしだろうか。
わたしを目指して、彼は変わろうとしているのではないだろうか。
そんなことを思いつき、クレスツェンツはアヒムに訊いてみたことがある。わたくしを見倣っているんだろうと、半ば冗談で。
『そうですよ』
いけませんか。と、顔を赤くしながら彼が真面目に怒るものだから、クレスツェンツはびっくりした。
ぽっと、心に恋の火が灯ったのも、そのときだろうと思う。
「アヒム……」
クレスツェンツは彼の傍にそっと膝をついた。
不思議なものだ。何もかもが灰になり、まるでここは死者の国なのに。
森をそよがす乾いた風が吹くと、黒い髪がさらさらと揺れる。
現実から切り取られたように、アヒムはきれいな姿のままで横たわっていた。
すぐ傍には膨大な瓦礫があるというのに、夏の陽射しは厳しく、疫病で死ぬ者たちの身体を容赦なく腐らせていくというのに。
ついさっき昼寝を始めた……そんな静かな表情で、彼は永遠に目を閉じている。
彼の眠りが永久だと示すのは、彼の上半身を抱くように土に広がり染みこんだ血の跡だった。新しくはない。すっかり黒く錆びていた。
「アヒム?」
それでも彼の命がすでにないとは信じられず、クレスツェンツは手を伸ばす。誰にも止められない。彼女の指は、冷たい死者の頬をひたりと撫でた。
「どうして、」
何を、誰に問いたかったのか、クレスツェンツ自身にも分からなかった。
彼女の手に転がり込んできたのは、〝間に合わなかった〟という事実。
何かが音を立てて崩れる。クレスツェンツの中で、この世界を作っていた大切なものが割れて暗闇の中へ落ちてゆく。追いかけることの出来ない暗闇の中へ。
黒い法衣に包まれた肩を、大好きだった黒髪を撫で、すっかり強張ったアヒムの頬をさする。
何をしても彼は目を覚まさない。ようやくそれを思い知ったクレスツェンツは、親友の胸に縋りついて哭いた。




