Ⅲ
平時もなかなか訪れることのない国王の執務室。クレスツェンツは久方ぶりにその扉を叩いた。
中には部屋の主と秘書官と、どこかの役所の官吏がいる。
「王后陛下?」
止める秘書官と王に何ごとかを報告していた官吏をずいと押しのけ、クレスツェンツは数日ぶりに顔を合わせた夫を冷然と見下ろした。
「陛下、至急お耳に入れたき事案がございます」
「今、アマリア市長の報告を聞いているところだ。あとにせよ」
「わたくしのお話を先に聞いていただきたい。……聞いていただくだけでよいのです」
怪訝な顔をする夫の机に数十枚の資料の束を置き、クレスツェンツは胸を張る。
「ペシラへゆこうと思います。医官十名、僧医四十名、民間の医師、薬師二十五名、以下、商人とわたくしの騎士、エルツェ公爵家の兵等……三百名ほど連れて行きます。ついてはこの隊列のロイエ街道通行つつがなく行えるよう、各関門へ通達をお願いしたい」
「ツェン……」
返ってきたのは、地の底から湧き出るような苛立ちに満ちた声だった。
おののいたのはクレスツェンツではなく、むしろ彼らの傍で王のその声を聞いた秘書官と市長だ。
「そなたは己が何を言っているか分からぬのか」
「分かっております。ですからお許しいただけないだろうと思っております。ですがただ一点、わたくしは迅速にペシラへ入りたい。そのために関門の通過だけはご許可いただきたいのです」
「お、王后陛下、」
怒りに震える王に代わり、秘書官が恐々としながら口を開いた。
「疫病の発生時、王家の方々には御身をお守りいただく義務がございます。特に此度の疫病は頻繁に流行する痢病や感冒の類とは異なり非常に致死率が高く、伝染性も強いものです。王后陛下は施療院の運営に携わっておいでゆえ城下での活動はこれまで国王陛下も黙認していらっしゃいましたが、ペシラへお出向きになるなどまさか……」
クレスツェンツは視線だけを動かして、差し出口を挟んだ秘書官を見つめた。
睨まれたと思ったのだろう。彼は更に萎縮したが、次の瞬間クレスツェンツが柔らかく微笑んだのでぽかんと口を開け目を丸くする。
「すべて分かっている」
彼女が、今日まで都を出ることが出来なかったのはそのためだった。
秘書官が説いたのは立派な国法の話。王族にはその身を守る義務がある。
クレスツェンツが自ら指揮を執るため現地へ行きたいと願い出たのは、実を言えばこれが二度目だった。
一度目は疫病の第二報があったころ。そのときは夫に直談判するのではなく貴族院にこの案を諮った。
今日のように大雑把な人員のリストを作っただけではなく、現地へ行くにあたっての旅程、費用、活動予定、すべてを綿密にまとた。
しかし結果は全会一致での反対だった。
理由は「危険」の一言だ。彼女の議案はものの一時間で却下された。
あれはただの現実逃避だ。この疫病は更に広がる――きっと誰もがそんな予感を抱えていた。
けれど恐れの先立つ貴族たちは王とともに政を与る立場にありながら、クレスツェンツの立場を楯に目を背けたのだ。
中には本当に彼女の身を案じてくれた者もいよう。そんな貴族たちはクレスツェンツの要請に応じ、地方領から食料や物資を南部へ送ってくれている。
彼らの言葉に宥められ、クレスツェンツは都にいて出来ることをしようと決めた。
彼女が影響を及ぼせる人々は少なくない。動かせるものごとはたくさんある。
それでいいのだと思った。でも、
遠くで親友が求めてくれたのは、クレスツェンツ自身だった。
きっとこんな手紙を書くわけにはいかないと相当に迷ったはずだ。
彼は正しい。彼もクレスツェンツがどこにいて何をすべきなのか分かっている。だから悩んだと思う。
それでも彼はクレスツェンツを呼んだ。
『ユニカを――』
諦めてはいない。まだ彼は戦っているはず。「また」会おうと言ったのだ。
大切なものだけをクレスツェンツに託すなんてあり得ない。
「分かっていながら、行くと言っているのか」
「その通りです、陛下」
「そなたは王妃の身分にありながら法を曲げようと言うのだぞ。許すわけにはいかぬ。関門通行の件ではない。そなたが王都を出ることをだ」
夫も疲れていよう。次から次へと飛び込んでくる疫病と各地の混乱の情報。地方の病の流行がこれほど王都に影響を及ぼすのは、彼の治世に置いては前代未聞のことだ。
エリーアスのように、夫の顔色もあまりよくなかった。
駄々をこねずに夫に寄り添い、政治を佐けるのが本来の王妃の姿なのかも知れないが、生憎、今のクレスツェンツには出来ない真似だった。
「わたくしではなく、民を救うことの出来ぬその法が間違っているのでしょう。いっそそちらをお改め下さいませ」
心の中では詫びながらも、彼女は傲然とそう言い放ちきびすを返した。
知っている。夫はクレスツェンツの身を案じてくれているのだ。
けれど行きたい。行かないと後悔する。
だからこれでいい、きっと。
その後のクレスツェンツの行動の素早さと大胆さは、良くも悪くも後々にまで語り継がれている。
彼女は王妃としてのあらゆる権限を行使し、都中から物資を集めた。
国庫が司る備蓄食糧の倉庫も掌握した彼女は、王都近郊で膨れ上がった人口を養うために穀物を放出し、ビーレ領邦へ持って行く分の食料と薬草もごっそりとくすね取り、あっという間に荷駄にまとめてしまった。
そしてあらかじめ声をかけ集めてあった僧侶や医師、商人を引き連れると、彼女は実家の私兵に隊列を守らせて、数日後には王都アマリアを出た。
あまりに強引で性急な事態に、王から都を預かる市長も、王城に数多いる高級官僚たちも、呆然としているうちにすべてが済んでしまった。
* * *
都を出る直前、クレスツェンツはアマリア施療院の主院を訪れた。
先日ビーレ領邦から戻ってきたばかりのエリーアスも一緒に連れて行こうと思っていたのだが、あのとき見た顔色の悪さはやはり彼の体調不良を物語っていたらしい。クレスツェンツが半ば物盗りのようにアマリアの行政機能を引っ掻き回している内に、エリーアスは倒れていた。
彼は疫病の罹患を疑われ隔離されていたものの、発疹や粘膜の異常が今日まで見られず、過労だと判断され、ようやくクレスツェンツも会うことが許された。
彼女が旅支度を終えてやって来たので、まだ疲れの抜けない顔でぼんやりしていたエリーアスは飛び起きた。近々王妃が都を出るらしいという話は聞いていて、自分も一緒にビーレ領邦へ戻るつもりでいたからだった。
「出立は今日なんですか!?」
「ああ、もう行く。お前があの病でなくてよかった。だからしっかり休めと言っていたのに。……いや、力を貸してくれと言って働かせていたのはわたくしだったな。倒れるまでよく頑張ってくれた、ありがとう」
「待って下さい、俺も行きます!」
「ならぬ」
寝台を降りようとしたエリーアスを突き飛ばせば、彼はぱさりと軽い音を立てて布団の上に転がった。旅慣れていて体力もあるはずの彼には考えられないことである。
「そんなに弱った身体で疫病の中へ飛び込んでみろ。真っ先に死ぬぞ。先日もそう言ったばかりだ」
「でも、」
「でもではない。あと二日、お前はひたすら休め。そして二日で全快し、わたくしのあとを追ってくるのだ。支度は同行者にさせておく」
クレスツェンツは病室に連れてきた騎士と、エリーアスの同胞でもある伝師を振り返った。エリーアスも含め、三人はいずれも馬を駆るのに慣れている。だから、
「お前なら追いついて来られるよ。わたくしは先に行く。ビーレへ入るまでには必ず合流せよ」
同行を任せた伝師に宥められたのもあり、エリーアスは渋々布団の中に戻った。
「ブレイ村へ行くつもりなんですか」
そして立ち去ろうとしたクレスツェンツの背中にそんな問いを投げかけてきた。
クレスツェンツは振り返ることなくかすかに笑う。
「ついてくる?」
「当たり前です。でも、王妃さまが行くのは……」
「あとのことの心配などしていたら身動きがとれないよ。では、また後日」
エリーアスが何か言いたげにしているのを感じつつも、クレスツェンツは施療院を出た。
門前まで見送りに来てくれた騎士にもう一度エリーアスのことを頼んでから、彼女は馬に乗り、どこまでも高く平和な夏の空を仰いだ。
無事に戻って、アマリアの空を見上げることは出来るだろうか。そのとき自分は、王妃の身分を持っているだろうか。
* * *
エリーアスが合流してくるまでの六日間、隊列は街へ寄るごとに人数を増やしながら南下していった。
クレスツェンツの第一目標は、この急ごしらえの隊列で十五日以内にビーレ領邦へ入ることだった。そのため、各街の教会堂と市長たちに挨拶するのみで、有志の医師を集めつつ、彼女は先を急いだ。
その旅の間、クレスツェンツは毎夜、持参してきたアヒムの日記と手紙を開いた。
かえって落ち着かなくなるのは分かっていたが、まだ日記すべてに目を通していない。彼がこれを送ってきたことには何か意味があるはずだ。
日記は導師としてつけていた記録ではなく、まったくアヒム個人のものだった。感情を語る言葉は多くないが、彼が村人たちに愛され、忙しくも幸せに過ごしていたことが分かる。
その中に覗く『ユニカ』の名――クレスツェンツが会いたいもうひとりの小さな友人。
導師であるアヒムがユニカを引き取ったのは、彼女の背負う特殊な事情ゆえだが、アヒム自身も父母を亡くし兄弟もいなかったことを思えば、ユニカが彼の家族になってくれたことはクレスツェンツにとっても嬉しいことだった。
記録の中に垣間見えるユニカは、少しずつ少女らしくなっていく。それを喜ぶアヒムの言葉。日記を読んでいたクレスツェンツも、束の間安らかな気持ちになれる。
やがて引っかかる記述があったのは昨冬の記録の中だった。
日記が数日途絶えたあとに記されていた、村を揺るがす事件のこと。
「エリー、お前はこの事件があったとき村にはいなかったのか?」
「そりゃ、頻繁に立ち寄ってはいましたけど、ずっと滞在してるわけじゃないですから……。俺もことの顛末を聞いたのはひと月くらい経ったあとで」
アヒムに立ち入りを拒否されたブレイ村へ行くという目的が出来たせいか、クレスツェンツに追いついたエリーアスは倒れたことなど嘘のように溌剌としていた。
二人の伝師は騎士と同等に馬を駆り、可能な限りの速度で進んでいたクレスツェンツの隊列に想定よりずっと早く合流した。騎士が舌を巻いていたほどである。
「アヒムが……ユニカの血を飲んで一命を取り留めたと書いてある」
野営の天幕の中、クレスツェンツに同席を請われて夕食をともにしていたエリーアスは、パンを頬張っていた口を動かすのをやめて考え込んだ。
「王妃さまは、ユニカの事情はすべて承知していらっしゃるとアヒムから聞いていますけど」
「ああ、あれが手紙に書いてくれた。どうも救療の女神に愛されすぎた子どものようだと。でもすべてとは言えぬようだ。知らなかった、この事件のことは……。ユニカの血に癒しの力があると知っている者はどれほどいる?」
「噂は、昔からありましたよ。ユニカの両親が生きていたころには『薬』だなんて言って高い金で売ってましたし……」
「なんだと!?」
クレスツェンツの剣幕にぐっと息を呑みながら、エリーアスは歯切れ悪く続けた。
「アヒムの父上にも止められなかったんです。もともとユニカの親は村の中じゃちょっとした地主だったし、そういうわけで金があるし、小者とはいえ貴族とも仲良くしてるしで……。アヒムにだってどうも出来なかったと思います。こういう言い方はどうかと思うけども、ユニカが両親から逃げるには――」
「もういい、やめよ」
「……はい」
クレスツェンツに睨みつけられたエリーアスは、しゅんとしながら食事を再開した。彼に咎などあろうはずがないのだが、ほかにこの憤りをぶつける相手がいなかった。
国の端々に目を光らせることなど、クレスツェンツには出来ない。親が子の命を売るという現実も、この世の中のどこかで起こっていることだろう。
それを防ぐことが出来ないのは為政者であるクレスツェンツたちの責任で、ユニカはそうして取りこぼされた命の一つに過ぎないのかも知れない。
しかし、為政者ではなく人の親として考えてみれば、売りものにするため我が子に血を流させることなど、とうてい許せることではなかった。
しかし過ぎたこと、死んだ者たちに腹を立てても仕方がない。
そうして冷静になったクレスツェンツは、エリーアスの話からふと気がついた。
彼女は開いていたアヒムの日記帳を脇に置き、一緒に送られてきた便箋を広げる。
「エリー、お前、いつから村へ行っていない?」
「え? 五月の半ば頃かな」
「そのとき、村に罹患者は?」
「いました。街に出てうつされてきた者がいて、そこから看病していた者が……」
「村の人口は」
「二百もいないと思いますけど」
「ならば、ブレイ村には治療の拠点になり得るような経済力などないな。大きな街道からも少し外れている。地の利もない」
クレスツェンツは、怪訝な顔をするエリーアスに向けて畳んだ便箋を放った。危うくスープの皿に落ちかけたそれを受け止め、スプーンをくわえたまま彼はそれを開いて首を傾げる。
「ブレイ村での死者数はすでに百六十を越えている。……人が流れ込んでいるのだ。大した利点もない小さな村に」
アヒムの手紙には、近隣の村の導師二名、僧医二名とともに、村に拠点を設け罹患者の治療にあたっていると書かれていた。高熱と発疹を抑えるのに有効な処方を見つけたのも、その治療の過程でだという。
「なぜそんな小さな村に人が集まる」
大きな街では関門の封鎖措置がとられているため、人の出入りは厳しく制限されている。それでも罹患した者や罹患を恐れた者たちは、薬や医師を求めて都市に集まる。街へ入れない彼らが郊外でたむろし、更なる病の温床となる。
それが疫病の流行時に見られる悪循環。
人が集まるのは、そこになんらかの望みがあるからだ。
「罹患者たちの求めるものが村にあるのだ。だからそれほど人が集まっている」
「……ユニカ、ですか?」
呆然と呟くエリーアスに、クレスツェンツは頷き返した。
友人に迫る危機は、疫病だけではないかも知れない。




