Ⅱ
静かに受け入れるといっても、アヒムの去り方はあんまりだった。
ようやく公務に復帰出来たと思ったら年末年始の数々の行事ごとに駆り出され、それは当然貴族相手の仕事であり、施療院の関係者と会うことの優先順位は限りなく低く、もたもたしていたらアヒムが帰郷してしまうとクレスツェンツが焦っているところに、案の定彼から「帰ります」のお手紙が届いた。
「ちょっと待て顔も見せずに行くとはどういうことだ今すぐ戻れ」と即座に返事を書いて教会の伝師に託したのだが、途中の雪道や誤配達という思わぬ事故に見舞われ、クレスツェンツの返信がアヒムの手に渡ったのは彼がビーレ領邦に入ってからだった。
当然、「戻るのは無理である」との返答が。
アヒムの手紙はいつでも淡々としていたが、その返事もあまりにさっぱりしていた。都に対する未練などまるでない。さすがのクレスツェンツも友人としてさえ片思いだったのではないかと気落ちしたくらいだ。
借りっぱなしの本があることや、風邪で倒れたときに見舞いとして苺を贈ったのにお返しがなかったことや、そのほかいろいろな理由を並べて「王都に戻ってきませんか」と誘ってみたものの――受け入れるつもりだったけどぜんぜん受け入れ切れなかった――しまいにはその話題を無視され、あるときの手紙で突然「養女を迎えた」との報告があった。
その娘は、ちょうどアヒムが帰郷したころに両親を亡くし、様々な事情があったので彼が引き取ることにしたそうだ。
名前は『ユニカ』。
以来、アヒムの手紙には娘の自慢話が必ず書いてあった。主に可愛いとか、可愛いとか、可愛いということが。
アヒムが気に入るものにはなんにでも興味を示してきたクレスツェンツだ。初めこそ自慢ばかりされて悔しがっていたのだが、このごろはユニカからも手紙をもらえるようになったので、アヒムの書簡が届くと彼女はなおのことご機嫌になった。
ユニカは、正体不明の養父の友人へ律儀に近況を書いて教えてくれた。
導師さまの好きなケーキを作りました。街で初めて買い物をしました。ラベンダーのポプリを作ったのでお手紙に包みます――言葉はたどたどしいながらもきちんとした筆遣いで、筆跡はアヒムによく似ている。
彼に育てられるとなると、生真面目な子になりそうだなぁ。
クレスツェンツはそう思いつつ、アヒムの手紙を開いた。
彼の近況に、王国南部の教会や商業の動向、頼んでいたペシラの施療院との仲介の件について。
他愛ない話題から辛辣な話まで、クレスツェンツはつぶさに友人の言葉を拾った。
その中に、気になる記述がひとつ。
『ジルダン領邦ボダート港周辺にて〝奇病〟が流行という報せがありました。じき王都へも報告があるでしょうが、先んじて情報収集なさるべきでしょう』
クレスツェンツは不安と感心の入り交じった声で唸る。
南部の流行病については、その第一報がアヒムから届く手紙、または南部と王都を行き来するエリーアスの口からもたらされることが多かった。
さすがはグラウン家の情報網。施療院を教会から引き離すのはもったいない気さえしてしまう。
とにかく、アヒムが報せてくれた病についてジルダン領邦の教会堂や各地の領主に情報提供を求めることにして、クレスツェンツはその手配をすべくペンを手に取った。
それにしても、
(〝奇病〟という表現が気にかかる……)
大学院で現代の医薬の髄を学んだアヒムにも見当をつけられない病。
彼とて実際の患者を診たわけではないのだから、診断がつかなくてもおかしくはないのだが。
じわりと胸に滲んでくる何かの予感を掻き消すように、クレスツェンツはペン先をインクの中に浸した。
* * *
悪夢の先触れは、クレスツェンツが各所へ送った書簡と入れ違いになるようにもたらされた。
『ジルダン領邦にて疫病流行の兆しあり』
春の終わりとともにやって来た不気味な報せは、アヒムの手紙からは想像も出来なかった惨状を語っていた。
高熱と発疹で人々の粘膜を焼き尽くすその〝奇病〟は、王国最南東部にあるジルダン領邦をわずかひと月で呑み込み、西北西へと感染の勢力を広めている。
死者数、罹患者数、三度目の報告の時点で、すでに計数不能。
ほどなくして隣接するビーレ領邦で罹患者が確認されたという報告もクレスツェンツのもとへあがってきた。以後も疫病の勢いが衰える気配はなく、感染の範囲はじきにビーレ領邦の全域に及ぶだろう。
クレスツェンツは王国全土の施療院に呼びかけ、薬と僧医を両領邦へ送るよう協力を仰いだ。
アマリア以外の施療院はまだ彼女の権限で動かせる組織ではない。にもかかわらず、教会を通じた呼びかけに各地の施療院は呼応してくれた。
しかし、これ以上クレスツェンツに何が出来るだろう。せめて最新の知識に明るいアマリアの僧医たちを連れて現地へ行くことが出来れば、具体的な治療や予防の対策を考えられるのに。
広域に疫病が流行したとき、慣例として関門の封鎖が命じられる。人の動きを封じることで疫病と混乱を同時に抑え込むためだ。
しかしビーレ領邦への感染の広がりが封じ込めの失敗を告げている。それでも関門の封鎖は解かれず、情報の伝達と物資の輸送を邪魔するばかりだ。
クレスツェンツは、関門の封鎖制限を緩和し、せめて必要な人員と物品の通行を円滑に行えるようにすべきと王に書面で訴えているが、なぜか返答がなかった。
疫病発生の報告があってから互いに忙しく、ここ最近はろくに顔を合わせていないのが痛い。これくらいの相談ごと、顔を合わせて話し合えばすぐに解決するものを。
夫のもとを訪ねたいのは山々だったが、クレスツェンツが直接会い、協力を仰ぎ、指示を出し、報告を聞かねばならない人物は大勢いた。
どの人物と優先して会うかは、あらかじめ秘書官に伝えてあった。しかし今日、重大なミスが発覚する。激高したクレスツェンツは初めて臣下を殴った。
彼女はその興奮が冷めやらぬうちに真っ先に会うべき人物を待たせていた部屋へ駆け込んだ。
「エリーアス! すまぬ、気づくのが遅れた」
椅子に腰掛けていた青年はすかさず立ち上がりクレスツェンツを睨みつけてきた。
「大丈夫か、顔色が悪い」
「そりゃあ悪くもなりますよ。都へ入るのに三日、城へ入るのに二日も待たされました。こんなときに……何のためにペシラから飛ばしてきたと思ってる」
エリーアスはクレスツェンツに続いて怖ず怖ずと入室してきた秘書官をちらりと、けれど鋭く見遣りながら言った。扇で激しく打ち据えられたその秘書官は頬を真っ赤に腫らしている。
「すまなかった、お前の名を見逃していたそうだ」
秘書官はそう言い訳していたが、本当のところは、疫病の巣窟と化したビーレ領邦からやって来たエリーアスの病の感染を疑い、様子を見たのだろう。
クレスツェンツは自分以上に怒りを抑え込んでいたエリーアスの肩を宥め、青白い顔をしている彼を椅子に座らせる。
「しかし本当に大丈夫か? お前がそんな疲れた顔をしているなんて」
「平気です。そんなことより、ビーレ太守とペシラの施療院長からの定期連絡です。――病が川を渡りました」
エリーアスはテーブルの上にいくつも書類の束を積み上げながら唸った。凍りつくクレスツェンツを上目遣いで確かめ、まだ鞄の中から書簡を取り出す。
「都へ上る途中で見ました。病は北上しています。この辺には人が集まり過ぎてる。罹患者が出れば、田舎のジルダンやビーレの比じゃない騒ぎになりますよ」
ビーレ領邦の北辺を流れ、ジルダン領邦を貫いて東海に注ぐ大河がある。巨大な水路として南部の経済を支え、そして穀物を育てる肥沃な土をもたらすフロシュメー川。
これまで疫病の罹患者が確認されていたのは、その河川の以南においてだった。病が川を渡ったとなれば、都と疫病の間を隔てるのはもはや二つの領邦のみである。
「なぜ医官が派遣されないんです? ビーレやジルダンに来るのは俺たちの同胞ばっかりです! 医官や大学院の医学博士なら、もっといろんなことを知ってるし病の原因や治療法も見つけられるんじゃないんですか!? 病がここまで来てからじゃ遅いでしょう!」
「……医官は王家のものではなく役人だ。彼らを配置外の場所へ派遣するには法に基づき陛下が命を下さねばならない。博士たちも、彼らはあくまで研究者だからな……協力を求めることしか出来ないのだ、すまない」
「王妃さまに謝られたって仕方ありませんよ。あいつら……アヒムの手紙はちゃんと届いてるはずなのに……!」
エリーアスは最後の紙の束を叩きつけるように置いて、そのまま拳を握り震わせる。
このふた月で彼は何度もビーレ領邦と都を往復していた。一カ所に留まって数日の休息をとれたことなどほとんどないくらいだろう。そうまでするのは、エリーアスが伝師だからだ。
伝師は教会の伝令役。関門の封鎖時にも自由な通行を許されるという特権を持っている。そして関門が封鎖されている現在、各街道を誰よりも早く駆けめぐることが出来るのは、ほかならぬ伝師たちだ。
施療院を通して教会とも密なやり取りがあったクレスツェンツは、最も早い連絡手段として彼らの特権を利用することを教会に提案した。弱者の救済に積極的であろうとする教会はこれを受け入れてくれ、またクレスツェンツの要請以上の物資や人員の手配を行ってくれている。
動いていないのは、アマリアの城壁の中にいる貴族たちだけだ。
「効き目のある薬が分かったってアヒムは言ってるのに、なんであいつらは手伝いに来ようとしないんだよ!」
「エリー、落ち着くのだ。アヒムらが見つけてくれたのは、症状を抑えられる薬の処方だ。治療法や予防法ではないし、危険がある。誰しもがふたつ返事で飛んで行ったりは出来ないよ」
「でも、王妃さまが派遣してくれる医者や商人たちはちゃんと働いています。みんながみんな南部に縁があるわけじゃない。自分の志で来てくれてるのに、一番知識のある奴らが、なんで」
「わたくしだって行っていない。わたくしも、お前の言うアヒムの学友たちと同じように罵られなければならないな」
「そりゃ、王妃さまは、」
言葉を詰まらせたエリーアスの拳をそっと握り、クレスツェンツはまなじりを下げて微笑んだ。気の短い青年を宥めるためでもあり、自嘲を隠すためでもあり。
「お前には、またすぐにペシラへ戻ってもらわねばならない。今はゆっくり休んでくれ。本当に顔色が悪いぞ。いくら丈夫なお前でもそろそろ限界のはずだ。そんな状態でペシラへ戻れば真っ先に死神の餌食だ。城内に部屋を用意する。よいな、休みなさい」
「……いえ、導主たちのところへも報告に行かなくてはならないので、城は降ります。それと、アヒムからも手紙を預かってきました」
「村へ行ったのか!? どんな様子だ?」
冷静になりつつあった思考が、再びかっと熱を帯びた。エリーアスとふたりで熱くなってしまったのでは収拾がつかない。そう思って蓋をしていた感情は、友人の安否に直結する情報を素早く認識して大きく揺れた。
思わず身を乗り出したクレスツェンツだが、エリーアスは苦い表情で返す。
「直接渡されたんじゃないんです。人伝で……出来るだけ早く届けて欲しいという伝言も一緒に」
エリーアスが最後に差し出したのは、書簡ではなく両手に乗るほどの四角い布の包みだった。我慢しきれず、クレスツェンツは積み上げられた書類の上でそれを解く。
「本……いや手帳か?」
「あいつの日記帳ですよ、多分」
包まれていた日記帳は二冊。その上にきれいに畳まれた便箋があった。十枚近くありそうだ。
嫌な予感がした。
クレスツェンツは再び日記帳を包み、胸に抱える。
「ありがとう、エリー。早速読む。お前はもうひと仕事あるようだが、それを終えたら必ず休め」
エリーアスが頷くのを見るや否や、報告書の束は侍従に持たせ、クレスツェンツは部屋を出た。
なぜか分からないが、アヒムからの届け物を抱いた腕がじりじりと炙られているような気がした。
最後に交わした言葉すらはっきりと覚えていない。
きっといつものように「また」。
そう言って王城を去るアヒムを送り出したのだろうと思う。
その「また」という言葉がいつになるか知れないこの二年あまり、クレスツェンツはもどかしくてたまらなかった。いくら頻繁に便りがあっても、彼が元気に過ごしていると窺い知ることが出来ても。
施療院に行けばいつでも会えた――そんなころとはまるで違い、彼の存在は遙か遠い。
行けるものなら、すぐにでも飛んで行きたい。
アヒムからの長い長い手紙を読んでいたクレスツェンツは、途中で紙面から顔を上げ呆然と天井を仰いだ。
「王妃さま……?」
長時間、血眼になって便箋を睨んでいた主の異変に気づき、お茶を運んできた侍女が気遣わしげに囁いた。
「根を詰めすぎでいらっしゃいます。どうぞお休み下さい。次の会見の時間にはお呼びいたします」
クレスツェンツのためを思い諫めてくれる彼女の声がぼうっと遠ざかる。
代わりに鮮やかになるのは昔の記憶だ。
いつのものとも知れない、他愛ない、クレスツェンツがもっと自由だった時代の記憶。
どの場面にも、つい嫉妬してしまうほどきれいな黒髪に鮮やかな緑色の瞳があって、クレスツェンツのことを見ていてくれる。
隣で、あるいは視界の隅で、そっと。
その眼差しはいつでも力をくれた。クレスツェンツを後押しし、あるいは先へと引っ張ってくれた。
お互いの行き着く先は違っても、少し視線を巡らせればすぐ隣の道に彼の姿があるように、クレスツェンツはそのために頑張ってこられた。
だというのに、なぜ、自分は死地にある彼の傍にいないのだろうか。どうして彼を励ませる場所にいて、一緒に戦っていないのだろうか。
互いのあるべき場所でやるべきことをやっている?
いや違う、条件が絶対的に違う。
アヒムの故郷ブレイ村は、すでに疫病が振るう猛威のまっただ中にある。
クレスツェンツが握っている便箋の中にはそうあった。眼裏に彼の直面する窮地が浮かぶほど生々しく、その詳細が書かれていた。
クレスツェンツが放心したのは、まるでそのすべてが事後報告であるかのような冷静さで記されていたからだ。
几帳面な彼らしい、そろった美しい字体、理知的な言葉選び。
今までの手紙の遣り取りを思い出せば、彼はいつでもそうだったはずだ。だから特別なことなんてない。クレスツェンツは自分に言い聞かせる。
アヒムは、諦めてなんかいない。
では、わたしは何をすればいいのだろう。
必要な薬草があるなら国中から掻き集めて彼の許へ送る。より知識のある医官や博士が必要なら、今度こそ報償でも刑罰でもちらつかせてビーレ領邦へ向かわせる。
責任は王妃の座を賭けてもクレスツェンツが負う。
何か、彼の求めるものはないのか。
クレスツェンツは読むのも苦しい手紙の中を必死で探した。
アヒム、何が欲しい?
何だって用意する。
だから、いつかの「また」を嘘にしないで。
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