Ⅱ
王の行幸を無事に迎え終えたのも束の間、施療院は再び騒然となった。王の名義で、オーラフも真っ青になるほど巨額の寄付金が施療院に送られてきたのだ。
金貨が詰まった青い絹の袋が山積みされている風景も圧巻だったが、残りの金貨の支払いを約束する黄金板の手形が並ぶ様子に、皆は喜びを通り越して戸惑うしかなかった。
「支院がもうひとつ建てられる額です……」
寄付金を届けた王の侍従を送り返してから、しばらく呆然としていたオーラフはようやく魂の端っこを取り戻したような声で言った。
「よかったではありませんか。建ててしまえば」
「建てません。その後の運営計画が何もありませんし……いえ、そうじゃなくて、まさか手切れ金ではありませんよね……?」
「て、手切れ金!?」
ようやくクレスツェンツはオーラフが青ざめている理由を察した。金をやるので交流の件はなし。そちらで好きに活動してくれ、ということだろうか。
いやいやしかし、先日の王の表情は施療院に一定の評価を下したように見えて――ああ、見えていただけか! そういえばクレスツェンツも明確な答えはもらい損ねた。まさかこんな結末になるなんて。
しかし若い二人の嘆きは早とちりもいいところだった。
さらに数日後。大学院の薬学科と医学科から、施療院へ医官と学生を派遣する体制を整えよ、という王命が発表されたのである。
その目的は、ひとつに『王家の学院で培った医薬の知識を民のために用いること』であり、ふたつに『実践の場を増やすことで技術を研くこと』、三つめは『学院外にある知識に触れ、いっそうの研究を進めること』だった。
王は、王の権限で可能な限りの〝解放〟を行ってくれた。あくまで学院に蓄えられる知識を増やすためという名目が主であるが、クレスツェンツらが望んだ以上の結果といえよう。
そしてこの王命に付随する幸運がひとつ。医官は国庫から報酬を受け取っているし、学生は修業の一環として治療に携わる。
つまりはありがたいことに、施療院側の負担は限りなく無に近い状態で、人手だけが増える見込みとなったのだ。
さてそこで持ち上がる次の問題は、こちらから招いた町医者たちには現在なんの報酬も支払えていないということだった。
彼らが施療院の治療を手伝うことで発生する利益は今のところ「勉強になる」ことだけで、医療をたずきとしている彼らから本来の仕事と収入を奪っているようではいけない。
医官や学生たちが派遣されてくるようになったら、町医者たちにも報酬を支払い、本格的に彼らを施療院の活動に組み入れていくべきだろう。幸い、当面の財源には王からの多額の寄付金が充てられる、とオーラフは言っていた。
王は、そこまで考えてあの金を送ってきたのではないだろうか。
一連の出来事について王への礼状をしたためつつ、クレスツェンツは思った。きっと、そうだ。
だとしたら、三時間足らずの視察でそれだけの展望を掴んだのだから、さすが、あの方はこの国の主だ。
クレスツェンツの生家も含めた有力貴族に絶妙な力加減の首輪をつけ、政治の主導権を玉座に奪い返し、干戈に頼らぬ国防政策で、シヴィロ王国にこれまでにない豊かさをもたらしている王。この王に愛された、この時代の民は幸福だなと思う。
そして王は、民にさらなる幸福を与えるための手段として施療院に目をつけた。
視察の日。恐らく彼はナタリエとオーラフの提案を受けるかどうか、すぐに決めたのだろう。彼は自身が頂点に立つ組織のことをよく分かっていたのだから。
『医官は、王族と官吏、そして行政機能の維持に必要な人員のために存在する。庶民に医療を施すことは、彼らの職務ではない』
そして施療院と手を結ぶことは、これまで国が担えなかった医療の分野へ手を着ける好機だ。
母体はある。そして、ほかならぬその組織の中に〝何か〟が生まれつつある。王が少し後押しするだけで〝何か〟は歩き出す。彼は実際に施療院を視察したことでその気配をじかに感じたのだ。
当面の活動に必要な王の命令と資金は手に入った。では、そのあとはどうする?
王が置いていったこの課題の先を考えるのが、クレスツェンツの仕事となりそうだ。
人の善意や熱意だけに頼らない〝仕組み〟を――教会と、貴族と、民の力が入り交じったこの施療院の運用を保障するものを用意する。なかなか王妃らしい仕事ではないか。
* * *
「クルマン先生、アヒムはどこへ行ったかご存知ありませんか?」
調合室では、数人の町医者と僧医が夕食とともに患者たちに出す薬を調合しているところだった。邪魔をしてしまったなとクレスツェンツは後悔したが、呼ばれた町医者は気を悪くした様子もなく、え笑いながら顔を上げる。
「仮眠室ですよ」
「ありがとうございます」
簡潔にやり取りを済ませると、クレスツェンツはエプロンを翻して調合室を離れた。
アヒムはまた眠たそうな顔をして施療院へやって来たのだろう。大学院は進級試験の時期らしく、アヒムは講義を済ませたあと施療院を手伝いに来て、寮へ戻ってからまた勉強に勤しんでいる。
勉強が大変なときくらい、こちらの手伝いは休んでもいいのに。
けれどクレスツェンツの残り時間のことを思うと、毎日少しずつでも話が出来たのは嬉しいことだった。
医師のための仮眠室でアヒムはぐっすりと寝入っていた。小一時間ほどしたら目を覚まして、夕刻の薬の配布や記録を手伝うつもりなのだ。
でも、クレスツェンツはアヒムが目を覚ますまで待っていられない。もうじき兄が迎えの馬車を寄越してくる。
クレスツェンツはどうしてもこの友人と話をしたかったのだが、寝不足で青白くなった顔色を見ると揺り起こすのは忍びなくなった。代わりに彼女は寝台の傍に屈み込み、頬杖をついてアヒムの寝顔を眺める。
形のよい眉。少し隈の浮いた目許。頬。唇を、視線と一緒に指で撫でる。
正しくて生意気で憎たらしいことばかり言う唇だ。でも、ただの少女でしかなかったクレスツェンツを変えていったのは、紛れもなくこの唇から発せられた言葉の数々。
昨日、王家からの使いがエルツェ家へやって来た。王が進めようと言った婚約の話がいよいよ具体的に動き出すのだ。明日から少なくともひと月の間は、輿入れの準備で忙殺されることになるだろう。
そのことを告げたくて、クレスツェンツはアヒムに会いに来たのだけれど。
「馬鹿め、こんなときになんで寝ている……」
婚約の話を告げたら、アヒムはどんな顔をするだろう。祝福し、送り出してくれる? クレスツェンツが施療院へ戻ってくるのを待っていると言ってくれる? それとも、少しは寂しそうな顔をしてくれるだろうか。あるいは顔に出さなくても、心のどこかでそう思ってくれる?
身を乗り出し、睫毛が触れ合うのを感じながら、クレスツェンツはアヒムの唇に自分のそれをそっと押しつけた。
彼が目を覚ましたらどうしよう、という、期待と不安が一気に押し寄せる。長い長い一瞬だった。
目を覚ましたら、アヒムは狼狽えるだけだろうか。何か言ってくれるだろうか。例えば、「行かないで」とか。
いや、あり得ない。彼はクレスツェンツの〝友人〟だから、〝友人〟としてクレスツェンツを宥め、残酷なほど優しく背中を押すだけだ。「あなたは王妃になって、やりたいことがあるんでしょう?」と。
そう言われたら、「うん」と頷くしかない。アヒムが素晴らしいと言ってくれた着想を実現するためにも。
口づけたときと同じくらいの秘やかさで、クレスツェンツは身体を起こした。すーすーと規則正しい寝息が続くのは憎たらしくもあり、何も知らずに眠る友人が愛しくもあり。
最後のわがままは、この口づけひとつで充分だと思うことにしよう。叶えられなかったわがままの代わりにしばしの別れを告げる短い手紙をアヒムの枕元に置いて、もう一度彼の前髪を撫でた。
政治家になる。ただの国母ではない、人々のために権力を振るい働く政治家になる。
クレスツェンツはまだ言葉になりきらないつたない夢を心の中で呟き、手紙の上に両の手のひらを重ねた。
教会の慈善事業である施療院の活動を、王家の事業、そして民の事業へと変える。人々が自然と扶け合う仕組みを作る、その根拠となる法を、作る。
ただの公爵家の姫君ではなく、ひとつの決意を持った人間として玉座の隣に座ることが出来るのは、間違いなくアヒムのおかげ――いや、アヒムのせいだ。
一心不乱に知識を得ようと、それこそ、クレスツェンツの行動を認めながらも彼女をおいてどんどん先へ進んでしまうこの友人と肩を並べたくて、クレスツェンツは目を覚ましたのだ。
王の行幸が済んだあと、彼女は考えた。アヒムやオーラフが胸に秘めていた理想を形にするにはどうしたらいいだろうか。あるいはもっとよい形で叶えることは出来ないだろうか。
結果、クレスツェンツが思いついたのは「施療院が教会の懐から飛び出すこと」だった。教会を牛耳る大門閥、グラウン家に名を連ねる友人たちには思いもつかないことだったようだ。
政治のことも、施療院の運営の仕組みも詳しくは知らない。しかし、せっかく教会と貴族と民の力が合わさるのだ。もっともっとたくさんの人の手を借りよう。
つたない言葉で一生懸命に語るクレスツェンツの突飛な提案にふたりはとても驚いていたが、やがてアヒムが笑ってくれた。
『あなたらしい発想です、本当に』
何がそんなに気に入ったのかと怪訝に思ってしまうほどアヒムは嬉しそうで、じき我に返ったオーラフもすかさずクレスツェンツの手を取った。ぜひ手伝わせて欲しい、と。
手伝ってもらわねばならないのはクレスツェンツのほうだった。何せ施療院の雑務は手伝ってきたが、帳簿の事情は知らないし、医官や町医者とはどういう協力体制を組むのかも知らない。初めからすべてを教えてもらわなくてはならないのだ。
しかし最初に目指すべきところは分かっていた。
財源。
施療院が教会から離れたとき、無償で医療を提供しつつ進歩していくための資金の調達先を確保することだ。まだおぼろげな想像しか出来ないが、皆で少しずつのお金を持ち寄る約束事を作りたいと思う。
そのために政治の世界に踏み込む。王族として。王の妻として。
自分の人生の中で、ひとつの時代が終わろうとしていた。自由に、お転婆に、見たいものを見てきたクレスツェンツの少女時代が終わるのだ。
屋敷の窓辺からは見られないものをたくさん見た。多くの人の死を送り、産まれた命に触れ、薬を包んで、一緒に食事をして――王妃になれば、今までとまったく同じように彼らの隣に寄り添うことは出来なくなるだろう。
けれどここで見たものは忘れない。ここで見たものを守り、もっと多くの人々に優しさを分け与えるために玉座の隣へ登る。
王と並び、この国の『主君』となってしまうクレスツェンツだが、「変わらずには無理でも、ここに来ればいい」と言ってくれたアヒムがいるから、少しだけ施療院を留守にすることも怖くはなかった。
ただ、次に会うときは、今日までとまったく同じ友人関係ではいられなくなっているだろう。たとえそうであっても、胸を張って笑えるように、
「では、またな」
無邪気に知った恋に別れを告げて、クレスツェンツは施療院をあとにした。




