Ⅰ
王妃になるという話は、冗談ではなかったのだなあ。
数年前から分かっていたというのに、いかに実感がなかったかをクレスツェンツは今更思い知っていた。
王城で別れた王の顔を思い出す。あの方が、ようやくクレスツェンツを妻に迎える気になったのだ。長いこと話は膠着していたのに、突然、いったい、なぜ。
会談からひと月近くが経った。王の行幸は間近に迫り、施療院の中はどこかそわそわしている。
やって来るのが王だと知っているのは上層部の僧侶数人だけだが、その筆頭であるオーラフが珍しく緊張した様子なので、ほかの僧医や手伝いに来てくれている市民たちも「これは何かあるぞ」と勘づいているのだ。
一方クレスツェンツはというと、気を抜けば上の空になることが多くなっていた。とりとめもなく王城での王との会話を思い出す。
冷ややかな目、けれど届いた願い。婚約。
彼女が我に返ったときには、二つ重ねて棚に押し上げていた薬草箱の上の箱がずるりと滑っていた。顔の上に落ちてくる――とっさに目をつむったが、痛くもないし、薬草をぶちまけた気配もない。
恐る恐る瞼を持ち上げると、アヒムの手が箱を受け止めていた。いつの間にか背後に立っていた彼は、そのまま二つの箱を棚に押し込んでくれる。
「高いところに箱を入れるならちゃんと踏み台に登って下さい。危ないでしょう」
「ご、ごめん。ありがとう」
「……また、何かお悩みですか」
自身も薬草の詰まった箱を抱えたまま、アヒムは憮然と言った。
クレスツェンツはぐっと息を呑む。彼女の様子がおかしいことに、この敏い友人が気づかないはずはないか。
しかしアヒムに婚約の話を打ち分けるわけにはいかなかった。何しろ、まだ「話を進めよう」と王が言っただけで、それ以来、新しい情報はクレスツェンツのもとに届いていないのだから。
「……そりゃあ、いろいろあるとも」
オーラフにも、ナタリエにも話していない。彼らやアヒムに打ち明けることが出来れば、胸を占めるこの靄を吹き払えるのかもしれないが……。
「言えるようになったら言う」
クレスツェンツは項垂れながらこぼした。
心配してくれる友人に打ち明けられない申し訳なさと、もし打ち明けたら、彼はどんな顔をするだろうという不安が入り交じり、とてもアヒムを納得させる表情を浮かべることが出来そうにない。
友人が深い溜息をつくのが聞こえ、クレスツェンツは肩を強ばらせる。せっかく気にかけてくれたのに、やはりこんな返事ではいい気分ではないだろう――そう思い唇を噛んだ彼女の前に、すっと薬草の箱が差し出された。
「じゃあ待ちますので、泣いて走り去るのはやめてくださいね。上の棚の補充は僕がします。クレスツェンツ様はあっちの下段三列を」
呆れたように眉尻を下げながらも、アヒムはそう言って笑ってくれた。薬のよい香りがする箱を受け取り、クレスツェンツはぱちくりと瞬く。
それ以上は何も訊かず、言わず、アヒムはクレスツェンツが届かない場所からいくつも箱を取り出して、さきほど商人が運び入れていった薬草の袋と箱のラベルを確認しつつ、中身を補充する作業に戻る。
「うん」
その背中を見ながら、クレスツェンツは言いようのない安堵感に包まれた。
ああ、彼は信じて待ってくれるのだなと。
婚約の話が具体的に進めば、少しの間ここから足が遠のくかも知れない。でも、また必ず施療院へ戻ってくる。そのときもこの友人は待っていてくれるだろう。
クレスツェンツはアヒムの背中に小さく笑いかけ、任された箱を持って、何十種類もの薬草の袋が占拠する机に移った。アヒムと同じように箱に貼られたラベルの薬草名を確認し、居並ぶ麻袋の札と照らし合わせて同じ薬草を探す。
クレスツェンツは、幼い頃から薬の混じり合った匂いが好きだった。直截かいだら気絶しそうなほどの刺激臭がある薬草もあるのに、数百というそれらが混じり合うととても優しく、空気を清めるような香りに変わる。そのせいか調合室に入ると気持ちが落ち着いた。
薬草の感触をじっくり味わうように、丁寧に麻袋の中からすくい上げ、箱の中へと移していく。
この薬が、病で苦しむ人の助けになりますように。わたしのこの手が、少しでもそれに役立っていますように。
そんな願いをこめながら触っていると、乾燥したなにがしかの葉っぱもだんだん愛しくなってくるものだ。しかし、
(さすがに、王妃になったらこんな仕事はさせてもらえないだろうな)
王の妻に。王族に。
その話が目の前に差し迫っていると思い知ったあの日から、クレスツェンツの中に点在していたものが急速に線を結び始めた。
まだ巧く言葉にならない。けれど、先日のアヒムの言葉が、オーラフの野心が、鍵になっていることは確かだ。
彼女はふと窓の外を見遣る。施療院がいくつも戴く尖った屋根の合間に、ひとつの丘をまるごと城壁で囲った王城のてっぺんが見えた。小さくなってはためく王家の旗はアマリア中から見ることが出来るのだ。
そう遠くないうちに、あそこで暮らすことになる。
旗は、王家の存在は、どこからでも見える。けれど、施療院からは遠くなるな。
「お城がどうかしましたか?」
「え? いや、ほら、もうすぐ陛下がいらっしゃるなって」
クレスツェンツの声はちょっとうわずったが、薬草の補充に真剣なアヒムはたいして気にならなかったようだ。彼は手元に視線を戻すと、クレスツェンツと同じように、丁寧に丁寧に、乾いた薬草を手ですくっては箱に移している。
「ああ、十日後でしたっけ。まさか国王陛下ご自身が来て下さるなんて……よかったですね。でも、本当に『見に来て下さい』っておっしゃったんですね……」
「『言ってよかった』と励ましてくれたやつの台詞がそれか!?」
「相手が相手だからすごいなあって、今なら思います」
「……あのときは、人ごとだとでも思っていたわけか」
まあね、なんて言ってアヒムが肩をすくめるものだから、クレスツェンツは素直に励まされたあの日の自分に「騙されるなよ!」と言ってやりたくなった。
* * *
そして十日後。宣言通り、王はグレディ大教会堂へ行幸した。
名門貴族の殿様がお忍びで、という状況設定があったらしいが、大勢の騎士が馬車を守っているわ、大導主が迎えに出るわで、明らかに様子がおかしい。市民の参詣者は馬車を取り巻く騎士たちの物々しさを恐れてそそくさと帰り、いつもは賑やかな声をあげて門前の広場で遊んでいる子供たちの姿もない。
そろそろ王がこっちへ来るな、と思いつつ、クレスツェンツは昼食の配膳を手伝っていた。
本当は、テオバルトがクレスツェンツの外出を阻もうとしていたのだが、「来い」と言った者が当日いないのもおかしいというナタリエの説得により、彼女は無事屋敷を脱出したのである。
アヒムは、今日はいない。いや、午後になればいつものように顔を見せてくれるのだろうが、この時間は大学院で講義を受けている。
来てくれたら心強いなぁ、とクレスツェンツは甘えてみたのだが、アヒムの返事は終始「講義のほうが大事」だった。
だったらせめて、よい報告をしたいものだ。
病が伝染らないようにと、王が視察する場所は慎重に選ばれていた。病室には入らず、部屋の入り口から中の様子を窺うだけだし、隔離病棟には一切近づかない。
大部屋で患者たちのもとから空の食器を下げていたクレスツェンツは、そんな王の姿を見かけたが、兄が王の隣につきっきりだったので傍へ近づくことは避けた。代わりにクレスツェンツがいることに気づいた王に向かって、目一杯の感謝を込め臣下の礼をとる。
王はひとつも表情を変えることなく行ってしまったが、きっとクレスツェンツの謝意は受け取ってくれただろう。
病室の観察はほどほどに、王は僧侶たちや雑務を手伝いに来ている市民たちの話を聞いてから帰るそうだ。クレスツェンツも王と話す機会が欲しい……と思っていたら、その好機は不意に訪れた。
昼食の片づけを終え、患者たちに必要な薬も服用させ、その記録もしっかり終えたころ。
施療院の中の慌ただしさが鎮まっている気がして、クレスツェンツはオーラフを捜していた。
王は早々に帰ってしまったのかも知れない。話ができなかったのは残念だなと思いつつ、先方とどんな遣り取りをしたのかオーラフに聞いておきたかったのだ。
しかしくだんの僧侶よりも先に王の姿を見つけた。
王の傍らにはやはりテオバルトがひっついている。ふたりは中庭に面した窓辺で何やらぼそぼそと話し込んでおり、いかにも密談中といったところだ。
声をかけようと思ったが、話し込むふたりは何やら剣呑な様子である。もしや今日の視察の評価をまとめているところか。だとしたら、その反応はあまり芳しくないように見えた。
いても立ってもいられず、クレスツェンツは大股で歩き出していた。兄が余計なことを言っているに決まっている。あいつを追い払って陛下と二人で話をしよう。
廊下の角を一回、二回と曲がる内にクレスツェンツの表情はどんどん険しくなり、ほどなくして王と兄は石床を打つ高らかな足音に気がついた。
彼らは肩を怒らせて現れた姫君を驚きに満ちた目で凝視したあと――王はついと顔を背ける。その肩がかすかに震えた気がするが……もしかして笑った?
「――――ツェン!! まったくお前は、そのはしたない格好で陛……殿の御前に!」
(格好? 格好――あ)
不可解な王の反応に毒気を抜かれたのも束の間、兄が怒鳴るので彼女は思い出した。病気とは思えないやんちゃ坊主の患者に、スープを引っかけられたエプロンを着けたままだったのだ。
「ああもう、こっちに来なさい!」
「脱ぎます! ちゃんと脱ぎますから!」
「そういう問題じゃないっ!」
今度は兄が邪悪な妖精もかくやという形相でクレスツェンツのほうへ迫ってきた。
捕まったら馬車に乗せられて屋敷へ強制送還される。王の手前、さっとエプロンをはずして居住まいを正したいところだったが、ふわふわの髪に引っかかってひとりでは脱げないので、クレスツェンツはまず逃げることを優先した。
こんなこともあろうかと(単に作業がしやすいようにと)かかとの低い靴を履いているのである。多少は走れる。
兄が伸ばした腕から逃れるため、クレスツェンツがきびすを返した瞬間――
「テオ、よい」
低く落ち着いた、心地のよい声が廊下に響いた。
「姫と話をする」
「しかし……」
王を振り返った兄がどんな顔をしたのかは分からない。だが、王の目配せひとつで彼は引き下がらざるを得なくなったのは分かった。
ああ、この方は本当にこの国の主なのだ。他者にこうべを垂れることなどない兄がしずしずと叩頭する。
その向こうに現れた王の顔を見つめて、クレスツェンツは唇を引き結んだ。
「あっ、兄上」
しかし緊張している場合ではない。兄にただ去られては困る。
「なんだ」
不機嫌絶頂の彼には大変頼みにくいことだったが、今は彼に甘えるしかなかった。
「ひとりで脱げないのです」
「はぁ!?」
汚れたエプロンの裾をひらひら揺らしてみせると、テオバルトは驚愕の表情を浮かべ――でも素直に首の後ろの留め具をはずしに来てくれた。
「ありがとうございます」
エプロンを適当に畳んで抱え、お辞儀だけは文句のつけようがないように優雅に。
テオバルトはもちろん何か言いたげだったが、王に下がれと言われたからには下がるしかないのだ。
口惜しげな兄の背中を舌を出して見送ると、クレスツェンツは顔を伏せて王の傍へ歩み寄った。今日は作法の通りに。エプロンを抱えているのは仕方ないが、少し腰を落としてお辞儀をしたまま、王がよいと言うまで顔を上げない。
「お目汚しをいたしました。申し訳ございません」
「あまりテオバルトの気を揉ませるでない。あれはあれで、そなたのことを思っている。近う」
王の声音には、ほのかに微笑の気配が感じられた。けれどその表情を確かめる前に隣へ呼び寄せられる。目を合わせる隙もなく、クレスツェンツは王が指さした中庭に視線を滑らせた。
日陰にはまだ雪が残っているものの、そこには黒々とした土がむき出しの花壇があった。
あそこに隠れて泣いたことが懐かしい――ふと口許をほころばせるクレスツェンツに、王は問う。
「この庭の世話は僧侶たちが?」
「はい。建物に風を通すための庭ですが、殺風景なのもつまらないと。ここで育てた花は病室に飾ったり、手伝いに来てくれた者に分けてあげたりします。そこで生る胡桃はパンやお菓子に入れて皆で食べますし」
クレスツェンツが答えたきり王は反応をくれなかったので、まるで独り言のようになってしまった。
何を求めた問いだったのだろう。怪訝に思いながら王の横顔を見上げると、その唇は柔らかく笑んでいる。どきりとして、それより上は確かめられない。
「よいところだ。ここでなら、民は安んじて療養に専念出来よう」
しみじみと呟く、その声は優しい。
きっと、その言葉が、彼が施療院で目にしたものすべてを総括して下した評価なのだろう。
王は何かを決めた。そんな確信がじわじわと湧き上がってくる。
「本日は、おいでくださりありがとうございました」
涙で震えそうになる喉をどうにか抑え、クレスツェンツは中庭を見つめたまま言った。
わがままを言ったとか、手順を踏まずに無礼なお願いをしたとか、詫びねばならないことはたくさんある気がしたが、しかし一番伝えたかったのは感謝だった。
余計な言葉は王も望んでいないようで、彼は頷く気配をかすかに残し、ゆるやかに上着の裾を翻して踵を返す。
「無礼を重ねることは承知の上でお伺いしたいのですが……! 先日のヘルツォーク女子爵とオーラフ導師の提案を、陛下はお受け下さると思ってよろしいでしょうか」
足を止めた王は肩越しにクレスツェンツを振り返る。その瞳はやはり明るく澄んでいた。久しぶりに対面したペリドットのような瞳は、驚いたあと、にやりと笑ったように見えた。
「ここで言質を取れるとでも思ったか」
「そういうつもりではありませんが……恐らくわたくしは、このあと兄にものすごく怒られるので……怒られる甲斐がある成果か、またはその見込みを手に出来れば元気が出るんだけどなぁ、なんて……」
それなりに緊張していたので、言葉遣いがまずいことになった。クレスツェンツは青ざめたが、王は目を細めて、また笑ったのだろうか。
「王命は然るべき形を持つものだ。待っていなさい」
「……」
安心しきれない答えではあったが、王の表情を見る限り、期待していてもよさそうだ。
「分かりました。あとひとつ、お訊きしたいことがございます」
「なんだ」
施療院に対する王の評価は、決して低くない。だから彼の返答を待とう。
しかしもうひとつのこの問いは、周りにほかの誰がいても尋ねられないことだった。
わななきそうになる唇を一度噛みしめ、クレスツェンツは大きく息を吸った。
「なぜ、急に、婚約の話を進めるとおっしゃったのですか」
王はクレスツェンツに向き直ることもせず、相変わらず肩越しに視線を投げかけてくるだけだ。その視線すらふいと泳いで、彼の視界からクレスツェンツの姿が消え去るのが分かる。
「思い出したからだ、そなたの顔を見て」
「何を?」
「……。新しい妃を迎える約束をしていたな、と」
目を背けた彼が何を言うのかと思えば。
いや、何を言ったのだ? それはどういう意味だ?
クレスツェンツが呆然としていうるうちに、今度こそ王は立ち去ってしまった。まるで逃げるように。
日射しが春の気配を漂わせるだけのまだ寒い廊下に取り残され、クレスツェンツはしばし黙して考えた。
「つまり、結婚の話は忘れていらしたということか?」
そして思いついた答えは、恐らく間違っていないのだろう。けれど彼女に「正答」と告げる者は、そこにはもういなかった。




